十五、雪(2)
雪はぴったりと止んでいた。ベルクホーフに着くと、ヨアヒムは疲れたのか、三十四号室にすぐ下がった。
「お休みー」挨拶をすると、すぐ寂しくなる。少し眠くなってきた。
暑いと感じられたのですっかり防寒着を脱いでしまった。
――ぼくも寝ようかな。
ところが、どこからか音色が聞こえて来た。これは、『菩提樹』だ。しかし、歌声ではない。アレンジされているけど、何か懐かしい、朗々とした音。
外で聞こえるようだ。ハンスは早速飛び出した。
手風琴だ。それを両手に持つは――
セテムブリーニである。月光の元、目を瞑り、身体を動かしながら、自在に弾きこなしている。
暫く耳を傾けていると、相手が演奏を止め、こちらを見てくるのが分かった。
「おや、ハンスじゃないか。こんばんは」
「こんばんは」ハンスは小さな声で返す。
「元気がなさそうだね」
「うん、ちょっとスキーに行ってきて。疲れちゃった」青年は欠伸をした。
「昇ったり、降りたり、時間の変化がきつくなかった? わたしはああいう運動は苦手だ」
「うん、大丈夫だよ。特に問題はなかった。寧ろ時間がずっと止まってるのかと思ったぐらいだ」
「そうか」セテムは遠くを見やる。
「手風琴、もしかして趣味なの?」
「う、うん。誰も居ない外での方が練習しやすいからね」顔を俯けて、恥ずかしそうに言った。
「今度、ぼくにも教えてよ」
「ハンスが? ……まあ、いいよ。機会があったらね」
会話が途切れた。
「……ところで、ねえ、セテム。知ってるんでしょ? なんで、この山では時間が止まっているのか。あの写真はなんなのか、石工党の話とか」唐突にハンスは聞いた。前から知りたくて仕方がなかったのだ。だが、いつもセテムは外してくるので、チャンスが掴めなかった。
セテムは今回も黙り込んでしまった。また別な曲を弾き始める。とても美しい音色なので、ハンスは聞き入ってしまった。
数分が経過する。
「この曲は?」ハンスが聞く。
「『疲れた太陽』だよ。ロシアの民謡さ」セテムはかつてなく優しい声で答えた。
「何か懐かしいような、胸を締め付けられるような音色だね」
曲が終わると、セテムは手風琴を丁寧に畳んで、隣りに置いた。勝手に倒れたりしないよう細心の注意を込めている。
「じゃあ、全部話そう。わたしは先生になる、と誓った。それなら、弟子が教えを乞うているのに、それを無視する謂われはないだろう。事実を受け容れられるかい、ハンス?」観念したようだった。
「うん、もちろん。どんな話でもしっかりと聞くつもりだよ」ハンスは大喜びした。やっと教えて貰えるのだ。
「ここは時間が交わる場所。そのことは薄々気付いているね」
「うん。過去と未来がでしょ」
「なんで、知ってるんだい? 正確に言うなら、現在と過去がだけど」
「タイムリープの話を聞いたんだ。クローディア……シャウシャットさんに。セテムとナフタを写した未来の日付の写真があった事を話したら」
セテムは少し不快そうな顔になった。
「またハンスにろくでもないことを吹き込んで……」ぶつぶつと文句を垂れていたが、
「この世界が一冊の本の中にあるって、信じられる?」といきなり切り出してきた。
「えっ!」また、ハンスはぽかんと口を開けた。
「ハンス、君はその本の中の登場人物なんだ」
「ええっ!」ハンスは声を上げた。
「信じられないかも知れないけど、そうなんだよ。君は想像の中でだけのみ、存在しているんだ」
ハンスはもう返事が出来ないようだった。前を見詰めて呆然としている。
「ほら、言ってもよく分からないだろ?」セテムは肩を落として言った。
「でも、ぼくは生まれてから今までの記憶があるよ! プリービスラフ・ヒッペくんだって! あれっ?」
ハンスは目を瞬いていた。何か大事なことを忘れてしまったような、そんな感覚に陥ったからである。
「ハンス、君の生い立ちは、全て本の中に、『魔の山』の中に書かれていることなんだよ」そういうセテムの顔は苦しそうだった。
「じゃ、ぼくは実際は、実際は、いない……? あの本の中でみ存在している……?」
「君は、わたしが作ったんだ。ハンス・カストルプ」フルネームで呼ばれた。
――どこかで聞いた覚えがある。
既視感がその時、起こった。
「君の考えるだろうこと、言うだろうことは全てわたしが最初に決めたんだよ」相手の声はどんどん小さくなっていく。普段の尊大なセテムからはとても考えられないことだった。「でも、もう君は既に独立した一つの個だ。君は自由に考えられるし、わたしがそれに干渉することは出来ない」
「どういうこと? この世界が書物の中だとしたら、その外の世界があるってことなのか?」
「そうだよ、わたしたちはその世界からやってきたんだ」
「つまり、本の外から?」
「そうだ。わたしと――嫌だけど――ナフタは元々外の世界で暮らしていたんだ」
「それが、一九二〇年?」
「もっと後のことだ。その時にはまだ、『魔の山』は完成していなかった……」不意にセテムは涙ぐんだ。急いでハンカチで目元を拭く。
ハンスは茫然自失としながらも、ちょっと相手のことが心配になった。
「父ジョゼッペは石工党員だった。誤解されているけど、前も言ったように石工党は本来平和を望む、文化的な団体さ。秘かに書き進めていた小説が『魔の山』だったんだ。わたしは父との約束を果たすために『魔の山』を書き続けた。崇高な小説として完成させるつもりだったんだ。ところが、ナフタは……あの『悪魔』は、自分の妄想を書き加えたんだ。でも、そうしないと『魔の山』は完成出来なかった。わたし一人では完成出来なかったんだ! ああ、自分の資質の乏しさを嘆くよ」
「じゃあなんで、この山の上では時間が下界と違うんだ?」
「父は大きな○と小さな○で説明した。小説を書くという行為は大きな○の中に小さな○を描くことだ。わたしとナフタは二人で小説の世界に入り込んだ。すると内周の小さな○は膨らんで外周の大きな○と限りなく近付いた。その近接点が、ここベルクホーフだ。そもそも、一九二〇年に小説が書き始められ、中の世界に入り込む実験が行われたのはここだった。小説の外の世界と中の世界が重なる場所だ。小説の外の時間と、中の時間がぶつかり合うと、どうも自然とその動きは緩やかになっていくらしい。歯車が噛み合わさるように。前言った、『世界の臍』とはそういうことさ。二つの世界を繋ぐ唯一の線は、君が見付けた『魔の山』という本だ。この本は外の世界にもあり、同時に中の世界にも存在している。わたしがあの写真を挟み込んだのは外の世界でのことだ。それが中の世界の『魔の山』にも挟み込まれていた」一気呵成に喋る。今まで黙っていたことを全て話したがっているようだった。
「ということは、あの魔の山が二つの○の近接点の極限なの?」
「そうだ。あの本があるから、中の世界と外の世界を繋いでいられるんだ。わたしは過去の世界を描いた『魔の山』の中で戦争が起こらないように何度も努力した。でも、無理だった。いつも戦争は起こってしまう。そして、ハンス・カストルプ。君はその戦争へと向かう」
「ええっ、ぼくが? そりゃ、大戦争が起こったら国のために戦うのは当たり前だ、ぐらいに考えているけど。でも、戦争が起こるなんて」
「戦争は起こるんだ。いや、外の世界では起こったんだ。起こる前の古き良き時代を全て詰め込んだ小説、それが『魔の山』なんだ」
「で、でもっ、いくら戦争をセテムが食い止めても、それは小説の中での話でしょ?」「違うんだ。小説の中で世界を変えることが出来たら、外の世界も変えられる! わたしはそれを確信している。証拠もある! ところがナフタはそれを邪魔してくる。石工党を模したテロ事件なんて、あいつの悪いジョークだ。わたしを、わたしとパパをからかっているんだ。あいつの書いた部分がいつも邪魔をしてくる。あのシャウシャットもそうだ!」
「ちょっと……流石に、何を言っているかよく分からないよ」ハンスは不安になった。セテムの正気を疑うことはしたくなかったが、あまりにも突拍子のない話である。
「わたしと君は何度も逢ってるんだよ。だがその度に君はわたしを忘れる。それが耐えられない。君に覚えていて欲しい。わたしは、わたしは君が好きなんだ!」セテムの目には涙が溢れていた。我慢も出来なくなったらしい。既に普段の気取った素振りも忘れて、泣きじゃくり始めた。
「この世界は、繰り返されている?」ハンスは聞いた。
「ううっ、ひっくひっく」ハンカチで涙を拭き、下を向いていたが、やがてまた喋る元気を取り戻したのか、こちらを向いた。
「……そうだよ。君が戦争に行けば、この世界はまた最初に戻る。そして、わたしはベルクホーフで君と逢う。今まで、それの繰り返しだった」
顔は真っ赤になり、目を潤ませていた。年相応の少女の顔である。ハンスは年上の女性のそうした態度に滅法弱かった。
「そうか。だからセテムもナフタもぼくと前から知り合いだったような態度だったのか」 ハンスは初めて納得がいった。そして、今までの突飛な話を事実だと認めざるを得ないと思った。ナフタの言っていたことも今ではよく分かった。
「でも、ぼくは、一回限りなんだよね」
「そうだよ、幾ら君と仲良くなっても、どれだけ楽しい時間を共有出来ても、全ては一回限りだ。でも、わたしたちは違う。永遠に同じ時の中を彷徨い続けるホランド人のようなものさ」
「ぼくだけじゃなく、ヨアヒムも、ラダマンテュスも、みんな」
セテムはすっかり涙を拭い去り、決然とした態度になっていた。
「そうさ。皆さ。『魔の山』の登場人物だからね。君が戦争に行くまでに、つまり戦争が始まってしまうまでに、戦争を食い止めないと、この世界はリセットされるんだ。ただ、父が書いたところから、だけど。わたしたちが書いたところから物語が始まるのはなぜか、それは良く分からないけどね」
「ということは、ぼくの記憶の中にも繰り返されず、固定されたものもあるってこと?」
「もちろん」
「じゃあ、プリービスラフ・ヒッペ君というのは?」
「それはね」突然セテムが近付いた。今までにない、変に優しい表情をしている。
「えっ?」
硬い物が唇に当たった。いや、最初は硬いと思ったのだ。感触はざらりとしているようにも思えた。しかし、次第に柔らかくなってきた。それはセテムの唇だった。しばらくそうしていて、引き離される。
ガチャン。何かが落ちる音がした。
角灯だ。驚いて、音のした方角を見ると、なんと、就寝したはずのいとこが立っている。
血の気が失せた蒼白い顔でこちらを見ていた。防寒具としては寝間着にコートを着てマフラーを付けただけである。
「ハンス」
「こっ、これは、誤解だよ!」ハンスは叫んだ。
「何か騒がしいと思って外に出てみたら……」
「ちょっと、ヨアヒム……」
「ハンス、きみ(ズィー)は言ったよね。ぼくのことが大好きだって」冷ややかな調子だ。しかも呼び方まで変えてきた。
「もちろん、大好きだよ。当たり前じゃないか!」
「ふーん。じゃあ、きみ(ズィー)はぼくが見ていなけりゃ、そんなことをするのか! 今日こそ現場を押さえてやった」
「これは、そ、その、そういうことじゃないんだ。セテムとは、その」チラリとセテムの方へ視線を送るが、キスの余韻を楽しんでいるのか、惚けたようにハンスの方を見ていた。何も弁解してくれそうにない。
――これは困ったもんだ。
「確かに前、ぼくはヨアヒムのことが大好きだって言ったよ。けど、大好きっていうのはその、男女間のという訳じゃなくて、飽くまでその、友達の間という意味で、さ」苦し紛れに弁解した。
「なるほど、分かった。きみ(ズィー)は最初からそう言うつもりだったんだな」冷たく、深く、厳かな声である。「ぼくを騙していたんだな。もういいよ。ぼくは軍隊に戻る。この山を降りるんだ!」
ヨアヒムは後ろを向いて、疾走した。スポーツ慣れしているのでスピードはとても早い。ハンスが追いつける訳もなかった。
それでもハンスは駈け出した。それを後ろから羽交い締めでセテムに止められる。
「止めろ、ハンス。そんな格好で山に入ると死ぬぞ!」放心状態ではなくなったようだった。
改めて我が身を振り返った。コートも羽織っていない。気付いた時に急激な寒さが襲ってきた。強い風が吹き付けてきた。思わず震え上がる。
「それじゃあ、どうすれば……」
「ベルクホーフに戻ろう! 服を着て出直すんだ」
「そうだね、そうしなきゃ! 急がないと」
二人で駈け出した。




