抜け落ちたページⅣ
物音でルドウィナは目を覚ました。レオナが何も言わずに傍らに立っている。黒い服だった。夜なのに普段着のままで通しているのだろうか。相手の顔は闇に隠れて見えなかった。
ここはベルクホーフからは何キロも離れているジョゼッペの自宅だ。
いつも通りの一日だった。普通に皆で実験を終え、帰ってきて就寝したはずだったのに。
外で何か言い争う声が聞こえる。父の声も混じっているようだった。
寝室のドアから、少し離れた玄関が見通せた。開け放たれた扉に全身を乗り出して、父親が立っていた。
「パパ!」ルドウィナは叫んで外へと飛び出そうとした。ところがその手はレオナに強く引っ張られて留められた。
「何するの、パパが! パパが!」
「出て行ったら、わたしたちまで捕まります」レオナが飽くまで冷静に言った。
ルドウィナは更にこの娘を憎く感じた。自分の父親ではないから、そんな涼しい顔が出来るのだ。面倒を見て貰った恩義すら感じていないから、冷たい態度で振る舞えるのだ。「ちょっと、待っていて下さい」父の声だ。 物音がして、暫くすると、父が寝室へと入ってきた。
「パパ!」ルドウィナは駆け寄る。
「しっ!」父はそれを押し留めた。「見つかってはいけない。君たち二人は逃げるんだ」
「なんで……」泣きじゃくりながら少女は言った。
「パパが石工党だからさ。最後の一人まで捕まえて拷問を掛けるつもりなんだ」
「いや、パパと離れたくない!」ルドウィナは父に縋り付こうとした。
「ここで、全員が捕まったら『魔の山』はおじゃんになる。誰か一人でも最後まで本を守り抜かないといけない!」父は力強く言った。
どこから取りだしたのか、一冊の本が手渡される。
「でも、まだ完成してないじゃない……!」
「それは、君たちで完成させるんだ。君とレオ・ナフタとで」
「いやよ!」ルドウィナはショックを受けていた。父の助けなしで、本を書けるなんて思ってもみなかったからだ。
「書き継ぎましょう」レオナは平然と答える。
「まだか」ヘルメットを被り、機関銃を肩から提げた男の姿が戸口から遠くに見えた。幸い相手からここは死角になっていて見えないらしい。
「忘れ物は見つかりました。今戻ります」「抵抗すればただじゃ置かないぞ」
ピッケルハウベを被った上官らしい男が厳しく言った。戦争で追われた『我らの帝国』の残存部隊はまだシュヴァイツに潜伏している。石工党は血に飢えた彼らの格好の獲物だった。
「じゃあ、よろしく、裏口はレオナに伝えて置いたから」と小声で言うと、父は後ろ姿を見せて行ってしまった。
もう声も出なかった。裏口なんて、今まで聞いた事もない。それを父はよりにもよってレオナへ教えていたのだ。ルドウィナは肩を落とした。
「それじゃあ、いきましょうか」
『魔の山』を小脇に抱えて、レオナは静かに言った。ルドウィナは叫び声を上げようとした。レオナがその口を押さえてきた。
「見つかりますよ」飽くまで冷徹な態度を貫いている。相手に引き摺られるままに移動した。壁の木板が手で外せるようになっており、全て取り外すと大きな穴が現れた。
「行きましょう」手が離される。ルドウィナは、もうその時には叫ぶ気もなくなっていた。『裏口』へ潜り込むレオナの後を追って、進んで行く事にした。
その前に服を着替えて、鞄を背負うことを忘れなかった。
外に出た後は振り返らずに進んで行った。こちらには兵隊の影もない。
キンポウゲもエーデルワイスも闇の中では一向に映えない。ただ薄気味の悪い草叢としか認識できなかった。
ところが、瞬時にしてそれが移り変わった。目の前に咲き乱れる花々が緋色に染め上げられる。
流石の二人も、驚いて振り返った。
煌々と炎を輝かせて、家は燃えていた。耳を澄ますと音も聞こえてくる。今まで過ごした場所がなくなろうとしているのだった。
「パパ!」慌てたルドウィナはそちらに向かって走り出そうとした。
「馬鹿ですね」冷ややかにレオナが言う。
「なにをっ!」ルドウィナは相手に飛びかかった。
「殴れるなら幾らでも殴りなさい」レオナは殴打を浴びながら、静かに言った。
途端にルドウィナは腕の動きを止めた。
「今戻っても仕方がありませんよ」飽くまで落ち着いた声が返ってきた。
「でも、パパがっ!」
「『魔の山』はどうなるんです?」紫色の瞳が、ルドウィナを見詰めた。
「く、くそっ」幾ら悪態を吐いても、自分は非力だ。何をすることも出来ない。
「今は、逃げるしかないのよね」
ルドウィナは観念して言った。軍用車の姿は見えない。
父はここにはいないのだ。
二人はまた歩き出した。意識していなかったが、気持ちが落ち着いてくると共に怖さが増していく。
「大事なものは持って出た?」
「わたしは特にありませんよ」レオナは飽くまであっさりとしていた。
「わたしは、消しゴムは持ってきたし、あれっ……ハンスは? ハンス・カストルプは?」
ハンス・カストルプは跡形もなく消えていた。その存在を感じ取る事はまるで出来なかった。
「確かに、居ません……」そう口にしたとき、レオナの口調に僅かに感情が入ったようだった。
――二人とも、同じように感じている。
こんなに嫌いなやつなのに、そこだけ重なるのは不思議でならなかった。




