十四、ナフタの真意
ハンス・カストルプはその後一ヶ月以上は具合が悪く、寝付いていることの方が多かった。無理をし過ぎたのがいけなかったのだろう。
三十六号室のベッドの上でごろごろと転がった。
暑い。寝苦しい。窓を開けると涼しい風が吹いてくるとともに、熱気も入り込んできたからだ。頭を水枕に預けて、氷のごちゃごちゃいう音に耳を傾けていた。
来た当初はアルプルの夏はとても寒かったが、慣れた今では暑くて堪らなくなっていた。
そうこうしている間に、検診の時間がやってくる。
「さて、どうかのぅ?」ラダマンテュスは体温計を抜き出した。
以前は緊張していたものの、一年も経ってしまうと流石に医者の前で胸をはだけることへの躊躇いは消えた。しかも、見ての通り外見は幼い娘である院長に対しては全幅の信頼を寄せるようになっていた。
「三十七度二分か。相変わらず微熱じゃの」
「下がらないのはまずいんですか?」ハンスは不安になって聞いた。
「高熱ではないし、大丈夫じゃろ。だが、まだしばらく外出は禁止な。ハンス君はまた無理をするからのぅ」ベーレンス顧問官はゆっくりと言った。
「ぼ、ぼくは無理なんて……」
「自分が無理するつもりがなくっても、他が無理をさせるじゃろ。だから患者には接近禁止を申し渡しておる」
「だから、セテムもヨアヒムも来ないんですね」
「そうじゃ。ペーペルコルンはお主にご飯を運ぶ役を自分から引き受けたがの」
「助かっています」ハンスは答えた。
ピクニックから走ってベルクホーフに戻って来たため、高熱を出した自分を甲斐甲斐しく看病してくれたのはペーペルコルンだった。食べ物を砕いて飲み込み易くし、流動食を作ってくれた。
「そんな悪いよ」とハンスが断ろうとしても、
「いいえ、そんなことないから」と手を振って笑った。「最初に助けて貰ったのは私だし、これは恩返しよ。当然の事をしているだけ。カストルプはちゃんと体調を治さないと」
ただただ、頭を下げるばかりだった。お蔭で治りも早かったのかも知れない。
しかし、わたしたちが捕捉しておくならば、青年は少女の瞳に異常な程の執念の炎が宿っていることにはまるで気付かなかったのである。
ナフタが入ってきた時、ハンス・カストルプは驚いて戸口を見た。今まで彼女が一人で自分の部屋に来たことはついぞなかったからである。
大概はセテムブリーニとセットで入室してくるのだった。もちろん、議論をしながらだったが。後は外で声を掛けられることが多かった。
「あ、あれっ、接近禁止とか言う話だったんじゃなかったの?」
「忘れてますよ。『患者は』でしょう。わたしは患者ではありません」ナフタは静かに言った。
「そういえばそうだよね。すっかり忘れていたよ。もう一ヶ月以上顔を見ていなかったからかな。ご無沙汰してて、ごめん」
「謝られるようなことはされていませんけど」と冷ややかな答えが返ってくる。
「あれ、もしかして怒ってる?」ハンスは聞いた。
「別に、怒ってなどいませんが」ナフタは頬を掻いていた。決まり悪そうな様子だった。「でも、ナフタって結構恥ずかしがり屋でしょ」ハンスは少し強気に言った。今は二人だけだ。疑問に思っていることを色々聞いてみたい。
「そ、そうですかね」
「うん。いつも自分の事は隠してるしさ」「隠してるつもりはないですよ」
「それじゃあ、少しは語ってくれるのかな? 生い立ちとか」
ちょっとの間、沈黙があった。
「わたしは唯一の家族だった父親を殺されましてね。『契約の一族』ということを理由にです」
ハンスは言葉を発することが出来なかった。こんな話を聞かされるなんて思っていなかったし、何か言って相手を傷付けてしまってはいけないと思ったからだ。
「そうそう、こういう本が原因でしたよ。戦争前にもあったんですよね」つかつかとハンスの本棚へと歩いて行って、一冊の本を手に取り、ぽんとベッドの上に投げ出した。
『プロトコールの陰謀』。あまり品の良くない装丁の本だ。ハンスが購入した本ではなく、最初から置かれていたものだ。ハンスが買うのは主に小説ばかりで、このようなジャンルは一度も手に取ったことがなかった。
「こ、これは……」
「所謂陰謀論の本ですよ。『契約の一族』への憎悪を込めたね」
「でも、今の欧羅巴でこんな本を読む人は少数だよ。一部の物好き連中だけで」
「そう断言できますかね?」
ハンスは黙ってしまった。
「わたしは父が殺されるのをこの目で見、泣くことが出来なくなりました。大勢に取り囲まれて、嘲笑われるのも見ましたよ。でも、その時、何も出来ずに眺めていた自分もまた同類であると気付いたのです。その日からでしたね。弱者の側に立って自己肯定すらできなくなったのは」ナフタは静かに言った。寧ろ先程より落ち着いているようだった。「世界の関節が外れてしまい、何もかもが巫山戯た劇としか捉えられなくなったのです」
「でも、だからといって前のようなことを言うのはよくないよ。ナフタは『契約の一族』である事は間違いないし、それは誰にも差別されていいものじゃないんだ」
「それは飽くまで身の安全が保証されている間の話でしょう。人間として見られている間、とも言い換えましょうか。老少不定とは言い条、人は病に罹ったり、予期せぬ不幸に出くわしたりすると、『何々だから、そんなことになったんだ』と合理的な答えを探す。因果律があり、その結果として、出来事は起こったのだと意味付けようとします。けれども例えば、理由は一切なしに唐突に不運にみまわれ続けるだけと知ってしまったとしたらどうなるのでしょうか。実際、一度虐げられる側になった者はもう人間ではないし、虐げている側も当然人間ではない。カストルプ君、わたしは」と言って紫の瞳でハンスを見詰めてきた。
「セテムのように戦争を避けることが出来れば、何もかも解決するとは思えないのです。実際、無間地獄のように同じ日々をわたしたちは繰り返している。それに対して疑問は生まれないでしょうか」
「それは、ええと、ぼくは」ハンスはよく分かなくなって口籠もった。
「永遠の停滞よりも、たとえそれが騒乱の中に身を投げることであっても、進む以外の選択肢は存在しないのではないでしょうか」
「うーん、ぼくは」例によってハンスはセテムブリーニとナフタ、二人の意見のどちらが正しいか、決めかねるものがあった。二人も二人でどちらとも正しい事を言っているような気がするし、間違っているような気がする。実際二人にはないものをメジュフロー・ペーペルコルンが持っていると思っている。
「こう言うことをカストルプ君に語るのは本当にこれが初めてでしたね」
本当だ。ナフタは今まで捻くれた態度ばかり取ってきた。それがこうして腹を割って、本音を話してくれている。テロリズムや排外主義だけが彼女の考えていることではないのだ。
少なくとも、その眼差しは真剣だった。
「ハンス」とナフタは青年のファーストネームを呼んだ。「君とは親しくならないようにしてきました。なぜなら君はこれ一回きりだから。何度も何度も同じ事を繰り返す運命はわたしと、そしてセテムだけの話です。でも、時々それに耐えられなくなる。なんなんでしょうね、これは。出来るだけ感情は殺しきったはずなのに」声が最後の方で震えていたが、表情は変わらなかった。
ハンスはますます相手が何を言っているか分からなくなった。
「それじゃあ」と言って後ろを向き、ナフタは去って行った。
風に翻るローブを見て、ハンスはとても寂しくなった。




