抜け落ちたページⅢ
一九二〇年四月――
ルドウィナはベッドに『水平状態』となって目を瞑っていた。ヘッドギアを取り付けられている。
ジョゼッペ・セテムブリーニは奇妙な機械を弄っていた。幾らかのボタンと、レバーが取り付けられていて、ヘッドギアへと電波が届くようになっている。
とても慎重に扱いながら、父は娘に何度も話しかけていた。
「ハンス・カストルプと逢えたかい?」
「うん、でも少しだけ。ハンスと逢えたかと思うと、秋の庭のところで止まっちゃうの」
「『菩提樹』だね」優しく父は聞いた。
「うん。そこで女装したハンスとわたしは鉛筆を消しゴムと交換するの。返してねって言うんだけど、そこまでなの。蓄音機から『菩提樹』が流れてきた」ルドウィナは訥々と言った。
「女装って言うけど、その前に君は男装していたね」
「そう、わたしは男の子のふりをしてプリービスラフ・ヒッペと名乗っていたの。ハンスと親しくなりたいんだけど、後一歩でなれなくて」
「それは、まだ機械の限界があるからだよ」
少女は頭を垂れた。
ジョゼッペは娘に近付き、グルグルに巻き付けられた毛布を素早く引き離した。
「その握った手を開いてごらん」
怖ず怖ずと少女は手を開いた。するとそこにはハンス・カストルプと交換した消しゴムがちゃんとあったのだ。
「どうして? わたしは夢の中にいたんじゃないの?」ルドウィナはビックリした。
「夢じゃないよ。君はお父さんが書いた『魔の山』の中に入り込んでいたんだ。そして、小説の世界にあるものを現実の世界へと持ってきた、ということなんだよ。ハンス・カストルプは『魔の山』の登場人物だけど、彼の行いも、この小説の中での出来事によって、ぼくたちの世界を変えることが出来るかも知れないんだ」
「ほんと? じゃあ、戦争も終わらせられるの」
「ああ、そうさ。ハンス・カストルプは戦争が始まる前の世界に生きている。そして、戦争が起こると言うことをまだ知らないんだ。君はその世界に入り込んで、現実の世界を変えるんだ。まあちょっと見てごらん」と父は黒板を少女の目の前に引き寄せてきた。そこにチョークで大きな○を描いた。
「これが、今いるぼくたちの世界だ。そして、ぼくが小説を書くと言うことはその世界の中にまた別の○を作り出すということになるのさ。つまり、こうなる」
ジョゼッペは大きな○の中に小さな○を描いた。
「これが『魔の山』の世界だ。大きな○の中の小さな○。結局、入れ子状態にしか過ぎないんだけど、例えばこの大きな○の側の世界にある人が、小さな○の中に入ったらどうなると思う」
「その部分だけ外へはみ出される?」少女は首を傾げた。
「そう、それが今君の手に握られている消しゴムだ。本来はお互い交わることのない世界が、この機械によって交わり合い、ぼくたちのいる大きな○の世界を改変することが出来るかも知れないんだ。そうなれば、どちらが現実で、どちらが非現実かなんてどうでもよくなる。○の間の境界は限りなく薄くなって、溶けてって、一つの円になるんだ」一拍置いて言った。
「つまり、世界は一冊の書物で出来ているんだ」
ルドウィナは興味津々に聞いていた。
「じゃあ、なんでここに来たの?」
「ここを『世界の臍』にするんだ。ベルクホーフをね」
「『世界の臍』?」
「『魔の山』と言う小説を書き、ここを小説の舞台にするんだ。そして、きみはその中に入り込む。そこは戦争が起こる前の平和な世界であり、戦争が起きないようにすることができるんだ」
ジョゼッペと娘たちはタヴォスを訪れ、以前はサナトリウムだったと伝えられるが、今は廃墟となった建物へと足を踏み入れたのだった。人気は感じられず、各々のバルコニーのテラスの窓がひび割れていて、とても不気味な感じがしていた。
人から隠れやすい場所を探して、見つけたのが地下室だった。機械を持ち込み、実験を行っていたのだ。
念入りに掃除したので埃などは出なかったが、部屋の中は薄暗く、ランプ一つだけでは心許ない。
部屋の真ん中に小さな台が据えられていて、その上には『魔の山』とタイトルを書かれた何枚もの紙の束が置かれていた。その両横には小さな銅板が文鎮代わりに当てられていた。そこからコードが伸びて機械へと繋がっているらしい。
「でも、それは小説の中だけなんでしょ?」不思議に思って聞き返す。
「さっき言っただろ、人が小さな○の中に入り込んだら、その分大きな○、つまりぼくたちの生きている現実にも影響を与える事ができるってね」
「ああ、そっか!」ルドウィナは顔を輝かせた。
「でも、それは一人ではできない。協力者がいないと、それが、レオナ・ナフタだよ」
「えええっ」途端に少女の顔が曇った。嫌なやつだと常日頃から思っていたのだ。
何かあればすぐに喧嘩をふっかけてくる。意見が全く合わない相手だった。なぜ父がこんな奴を連れてきたのか、よく分からなかった。
自分の事を語りたがらないものだから、とても親しくなりようがない。ただ不気味に微笑んでいるだけだった。ルドウィナは最近では無視するようにしていた。
何より許せないのがハンス・カストルプを独占することだった。レオナは自分よりも上手くハンスと話せたのだ。よく分からない内容で盛り上がっているらしく、時々くぐもった笑いを漏らしたりしているので、ルドウィナは嫉妬を深めていった。
「いや、あんなやつ絶対にいや。何であんなのと……」ぶつぶつと呟いている。
「ルドウィナ。君とレオナの二人がいなければならないんだ。この世界の戦争を終わらせる鍵が君たちなんだよ」ジョゼッペは力強く言った。
「だって、あいつ嫌い。戦争が続く方が良い、とかいうじゃない。しかも、『契約の一族』の差別も平気でするし」
「ルドウィナ、レオナは『契約の一族』なんだよ」
「ええっ、でも、だからと言って……」少女は抗弁した。
「レオナは兵隊に父親を殺されたんだ」ジョゼッペは静かに言った。
ルドウィナは黙ってしまった。それでもまだレオナ・ナフタという人間が理解出来なかったが。
二人揃って地下室を出ると、レオナ・ナフタが待っていた。立ったままで静かに本を読んでいたらしい。ルドウィナはハンス・カストルプがその横にいるのを感じた。
「待たせたね」
「いえ、大丈夫です」ページから目を離さず、表情も変えないままにレオナは答えた。
「可愛くない」ルドウィナは精一杯皮肉った。
「可愛くないか、可愛いかは個人の判断で決まるものではないですよ、ね、ハンス」レオナは隣の少年に呼びかける。
ルドウィナは唇を噛んだ。
「さ、二人とも、仲良くして。写真を撮ろう」
外に出ると、既に三脚にはコーダックのカメラが乗せられていた。ジョゼッペが歩いて行ってボタンを押す。
ぶすくれながらルドウィナはレオナと並んだ。父がその後ろに立ったので、少し安心したが、シャッターが押されるまでの間、妙に居心地の悪い気分を味わっていた。
「今日は謝肉祭だったね」ジョゼッペ・セテムブリーニが言った。




