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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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十三、ピクニック(2)

 しかし、傲慢な反応を見せながらも、ペーペルコルンは落ち着いていなかった。ちょっとだけでも、相手に近付ける時間が欲しかったのに。 

 もう、完全に認めざるを得なかった。少女はハンス・カストルプに惚れていた。離れるのは嫌だったし、永遠に側に居続けたいと思っていた。 

 ――それなのに何で。

 新聞紙が眼に止まった。もちろんパンを包むために使ったものだ。ここと下界の時間は違うので、当然その日付は夏ではなく、いつの頃のものとも分からない。だが、ここシュヴァイツでも謎のテロ事件が続発していると書かれていた。

 ――『エンス・ボート』は相当焦っているのかも知れない。

 そうは思いながらペーペルコルンは全く関心が持てなかった。目先のことしか興味がなくなったのだ。欧羅巴を滅ぼすことなど、もうどうでも良くなっていた。

 隣りにはハンスのいとこがいた。しかも二人は「一番親しい人」だと来ている。最初は歯牙にも掛けなかったのに、男装していると聞いてからは。

 ナフタが流した毒が、ジワジワと効いてくる。あの二人は本当に仲がいいのだ。なにかあると囁き合い、じゃれている。

 ペーペルコルンは初めて抱く感情がよく整理できなかった。だが、恋をしているということを認めると、嫉妬をしているということも認めざるを得ない。

 セテムブリーニとハンスが話すとき。

 ナフタとハンスが話すとき。

 不快な感情にはなったが、今度ほどの激しさは伴わなかった。

 消してしまわなければ、殺してしまわなければならない。そう思うぐらい、ペーペルコルンはヨアヒムのことが憎かった。

 咀嚼をしつつも、味が少しも分からない。美味しくないのだ。水を啜って飲み込んだ。滝の方に目をやった方がまだ落ち着けるだろう。激しい音が耳に流れ込み、鼓膜を打つ。

 少女はフラフラと立ち上がった。滝を覗き込めそうな岩棚まで歩いて行く。

 皆から離れても気に留める者はいない。ハンス・カストルプは一瞬こちらに視線をやったが、すぐにいとこに声を掛けられて、そちらに反応していた。ラダマンテュスやクロコフスキーも関心ないようだ。あの背の高い移民の医師には何か落ち着かないものを覚えるが。

 ――今なら叫べる。

「ハンス・カストルプ!」まず名前を呼んでみた。

 しかし、誰も聞こえていないようだ。滝の轟く音に掻き消されてしまうらしい。

「ハンス、カストルプ!」名前を区切って叫んでみる。

 それでも誰も反応しない。ペーペルコルンは苛立ってきた。絶対に聞かれたくないのに、誰からも聞かれないのは寂しい。相矛盾する感情が少女を充たしていた。 

「ハンス・カストルプ、愛してる!」とうとう本音を言っていた。それでも誰も聞いていない。気に留めてもくれない。

 少女の頬を熱いものが伝わった。底知れぬ渓流の中に涙が吸い込まれていく。ペーペルコルンはハンカチを出して、洟をかんだ。

 あの時からだ。あの山小屋の一件からだ。自分の感情が押さえられなくなったのは。少し体調を崩しただけで、ここまで変わってしまうとは。前は仕事を最優先出来ていた。それが今はハンスと関われると思うととても嬉しくなったり、ちょっとでも無視されると、果てしなく地の底に落ち込んで行くような気がした。

 いっそ、流れの中に身を投げてしまおうとすら思った。しかし、そんなことをしても自分の存在はハンス・カストルプの記憶には少しも留まらない。

 ――それなら、記憶に抉り付けてやろうじゃない。どうしても、叶わないならば。

 少女は悲愴な決意を固めたつもりでいた。


 

 さて、ペーペルコルンを除けば、かつてないほど会話が盛り上がって、皆はしゃいでいた。

「こんなに、みんなが面白かったなんて、思わなかったよ」ハンスは笑った。

「そんなの、当たり前だよ。ベルクホーフの人たちだもん。とっても楽しいところだよって最初に言ったじゃないか」といとこは言う。

「あ、そうだったなあ」青年は頭を掻いた。「山の上の感覚に慣れて、すっかり時間の概念も組み替えられたようじゃのう」ラダマンテュスが口を挟んだ。

「確かにそうです。もう山から下に降りようなんて思わないですから」

「それも問題じゃよ。君たちは治ることがまず第一なんじゃ。という事は最終的にはこの山を出ていかねばならん」

「でも、結核を完全に治すことは、今の医学では難しいでしょう?」ハンスはちょっと緊張して言う。

「それでも治った実例はある。わしらは医者として、何としても助かって貰いたいんじゃよ。幸い君らには手術をしたことはないが、診た患者が命を落としていくのには耐えがたいものがある」とラダマンテュスは珍しく深刻な顔になって、しんみりと語った。

 ハンスは黙った。ちょっと余計なことを言って場の雰囲気を乱してしまったかなと考えたのだ。しかし、皆特にそれには取り合わず、話を続けている。

 意外にもシュテールはラダマンテュスに懐いているようだ。膝の上に乗せて相手の身体を持ち上げている。身体は大きいのに心は幼い者と、身体は小さいが心は老いている者は見事に好対照をなしていた。

「ラダマンテュスお婆ちゃん、可愛いー」

「こ、これっ、わしはお主の子供ではないぞ! は、はなせー」高い高いをされながらベーレンスは必死で抵抗していた。

 微笑ましい。ハンスはそれを静かに見守っていた。

 ところで、ペーペルコルンはどうしたのだろうか。気になって辺りを見回すと、一人身を乗り出して瀑布を眺めていることに気付いた。 

 ハンスは立ち上がった。この少女が不安定な性格をしていることはハンスも気付きつつあったので、何かの拍子に岩棚から落ちてしまったら大変だと思って、後ろからそっと近付く。すかさず手を取って引き寄せた。

 少女の身体が後ろに倒れた。油断して力を込めていなかったのだろう。

 二人の身体は折り重なっていた。少女の巻き毛が顔に当たって、とてもくすぐったかった。

 ――前、セテムブリーニとこんなことがあったな。

「えっ、えっ?」ペーペルコルンは倒れた衝撃に気付かず目を白黒させている。

 少女は振り向いた。驚いて身を引き離す。

「な、なんで、あなたが……」ペーペルコルンは魚みたいに口をぱくぱくさせていた。 何を思ったのか。いきなり走り出した。

 もちろん、ハンスはそれを追った。自然に身体が動いたのだった。微熱の影響は今は感じられない。なので、走ることができた。

 

 

何キロ走っただろうか。ペーペルコルンは膝を曲げ、両手を地面について、肩で息をしていた。頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったのか、何も考えられない。

 どうもベルクホーフに戻ってきてしまったらしい。まだまだ遠いが建物の影が見えてきた。

「ペトラ」

 青年の声が聞こえる。ここまで追ってきたらしい。

 少女は振り返った。青年は自分よりも苦しそうに息をしている。相当の距離だ。流石に身体に堪えたのだろう。

「だ、大丈夫?」思わず駆け寄った。

「ペ、ペトラって名前で呼んじゃいけなかったのかな」ハンスは苦しそうな笑みを浮かべて、荒く呼吸しながら言った。

「そ、そんなことより、身体、大丈夫なの?」ペーペルコルンは繰り返した。

「平気だよ、こんなのどうってことなっ、ゴホッゴホッゴホッ」ハンスは激しく息をした。

「どうってことないことないじゃない! 横になって」強引なまでに相手を草叢に横たえさせるとペーペルコルンはすっかり汗だくになった帽子を脱ぎ、脇に置いて、青年の額へと手を当てる。

 熱が上がっているようだ。

 不安が募っていく。自分のせいだ。あれぐらいのことで勝手に逃げ出すから、ハンスがこんなことになったのだ。少女は近くの川の流れから掌で水を汲んで、ハンスの顔に掛けた。少しも顔を背けることなく、しんどそうにそれを受け止めている。

 このままでは危険だ。日差しも強くなってきた。少女は青年の頭に自分の帽子を乗せると、その身体を背負い上げた。幸いに重いものは運び慣れている。

 後はただひたすらに歩いて行くだけだ。

 ――ハンス・カストルプを所有したい。例え、どんなリスクを払っても。でも、命は守らないと。それがなくなれば、自分は一人で取り残される。

 纏まらなかった考えがただ一つそれだけに収斂されていった。

 ベルクホーフの門まで辿り付いた。驚いてこちらに走り寄ってくる職員の姿が見えた。

 事情を説明しながら、少女はハンスの顔を見た。

 目を閉じて、すやすやと眠っている。幸い苦しそうな様子は見えない。少女は深い安堵と、同時に強烈に所有欲が充たされるのを感じていた。

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