十三、ピクニック(1)
ベルクホーフにも夏がやってきた。ハンスの迎える二度目の夏である。既に下界ではもっと時間は経っているのだろうが、ハンスはほとんど意識しなくなっていた。
失踪したクローディア・シャウシャットも以前ほどはハンスの心をときめかさなくなっていた。どうも、プリービスラフ・ヒッペの面影と決定的な齟齬を見付けだしたからのようだ。ハンスはまだあの幼い日の出会いに拘りを持っているのだった。
「初夏の日差しの中を皆でピクニックとしゃれ込むとしようかのぅ」ベーレンス顧問官は楽しそうに皆へと告げた。
患者でも体調万全な者が選ばれ、付いていくことになった。ただし、今回はセテムブリーニとナフタは来なかった。
セテムは加減が悪いらしいし、ナフタはまた別の要件があるようだったが、良くは分からない。
ともかくハンスとヨアヒム、シュテールとエンゲルハルト、それからペーペルコルンが付いてきた。ハンスが部屋に行って誘うと二つ返事で頷いたのである。
「私も退屈していたところ。丁度良かったわ」今までハンスが見た中で一番明るい笑顔を浮かべている。
「そ、そんなに嬉しいのかい?」ハンスは驚いた。
「えっ、別にそんなんじゃないわよっ。ただ暇潰しにいいかなって」
「別に、無理して行って貰わなくてもいいんだよ。患者も多いから、もしかしたら伝染るかも知れないし……」
「そ、そんなの気にしないっ! ここで暮らしているのだし、そんなことは承知の上だもの、それより、ピクニック、絶対に連れて行ってくれるんでしょうね? 連れて行ってくれなきゃ……」ペーペルコルンは頬っぺたを染めて捲し立てた。
「も、もちろん」ハンスはちょっと怖くなった。年下の女の子に怯えてしまうことに対して少し、恥ずかしくなったが、急いで大人っぽい態度を取り繕って、
「それじゃあ、付いてきて」と廊下へ向かって歩き始めた。
ペーペルコルンは子供扱いされたのが不服のようだった。
「去年も行きましたね、ピクニックは」サロンに辿り着くとエンゲルハルトが声を掛けて来た。
「ええっ、そうなんですか。ぼくは覚えていませんけど」ハンスは記憶を探った。
「ハンスきゅんが来迎する前のことだよお」シュテールがはしゃぐ。「サンドウィッチがとっても美味しかったの。また玩味したいなあ」
また言葉を間違えていると思ったが、取り敢えず後者の意味は合っている。知らないうちにシュテールも少しは成長したのかなとハンス・カストルプは思った。平易な言葉を使えばいいだけの話ではあるのだが。
「それでは、行きたい者は皆、集まったかね。『片肺クラブ』、それにアルビンさんもか。それでは出発するとしよう」ラダマンテュスはうきうきと楽しそうである。
「去年もあんなに楽しげだったんですか?」
ハンスは聞いた。
「ええ、ラダマンテュスは何でも最初のことように楽しめるという素晴らしい美徳を持ち合わせている方ですわ」エンゲルハルトが両手を合わせて感動的に言った。
病人たちの歩行がとてもゆっくりなのは仕方がない。普段生活している場所よりも更に高い位置にある山道を行くのだ。木の枝が前に飛び出してくるので、ハンスは必死にそれを払い除けていた。
今回一行はフリューエラ渓谷に向かおうとしているのだった。滝から流れ落ちる水がとても素晴らしいのだとラダマンテュスは皆に説明した。
それなりに奥まった場所にあるので、多少の疲労は覚悟しなければならないのだったが、それでも日頃運動不足な軽度の結核患者連にはとても良い運動になるのだろうと考えているらしい。
「余りにも閉じこもりがちになるのはいけない。風景を眺めて、山の高所に昇り空気を吸うことが一番の薬になるわい」ラダマンテュスはいつも通り終始ポジティブだったが、青年は暗い気持ちになっていった。
どのみち、結核が治ると言う見込みはないのだ。事実、微熱は下がる様子は見えない。血を吐くことはなかったが、一度咳をすると長引いた。
既に成長という選択肢はない。事実、自分は勉学の世界からははじき出されてしまった。退学処分になるのもそう遠い話ではない。あるのは直近の死か緩慢な死かのいずれかだけだ。
唯一、変化があったとすれば、多くの人と話す機会が増えたので、自然と人見知りをしなくなったことぐらいだろうか。傍目から見れば自分はさぞ快活に見えることだろうとハンス・カストルプは思った。
青年が陰鬱に思索している間にも、エンゲルハルトはシュテールやペーペルコルンに自分の書いた薄い本を読ませていた。
シュテールは全く動ぜずニコニコと笑いながらページをめくっているが、案の定、ペーペルコルンは顔を覆って本を取り落としてしまっていた。
少女はベルクホーフに来て以来、地味な服を着ている事が多く、外出するときは黒い帽子を被っていた。
「ハハハハハッ」ヨアヒムはそれを見て朗らかに笑った。「エンゲルハルトさんも誰にでも構わず見せるなよ!」
――この前は怒っていたが、今回はぼくがが関わらないので平気なのかも知れない。
自分がいとこの行動原理となっていることは、流石の鈍感な青年でも理解出来るようにはなっていた。
恨みがましい目でペーペルコルンがそれを見詰めてくる。その陰気さを感じ取ってハンスは落ち着かなくなった。
「ヨアヒム」
「なんだい?」いとこは元気そうである。
「改めて聞くけど、きみ(ドゥ)はぼくのこと好きなのか?」
「な、何をいきなり……」ヨアヒムの頬が徐々に赤くなっていった。久々に見る完熟トマトである。
「いや、もし最期の時を迎えるのならば、やはりお互い好きな者同志、つまり一番親しい人といるべきじゃないかな、と思ってね」
「そ、そうだよね、親しい人ってのが引っかかるけど……」と相手は語尾を濁している。
「どうして? きみ(ドゥ)はぼくが一番親しい人じゃないか」
「だって、ほらっ、もっと言葉の選び方があるでしょ。『最愛の人』とか『大好きな人』とか」
「変なヨアヒムだなあ、ぼくらは親友じゃないか」ハンスは笑った。
ふと、視線を逸らすと、ペーペルコルンが凄い形相でこちらを睨んでいた。さっきの二割増しである。
「うわっ」驚いたハンスは数歩ばかり退いた。その拍子にヨアヒムの顔を見た。なんと、こちらも非常に暗い顔立ちである。先程までの笑顔がすっかり消えてしまっていた。
ああ、単純な、鈍感な青年よ! やはり君の根はさほど変わってはいなかったのだ。
気まずくなってハンスは二人から離れて歩いた。
「なんなんだ、二人とも、ちょっとおかしいよ。ぼくは思っていたことを言ったまでじゃないか」ハンスは小さく誰にも聞こえないように悪態を吐いた。
「おや、何か仰りましたか」
「うわっ!」ハンスはまた驚いた。後ろからぐっと肩を掴まれる。クロコフスキーだと気付いた。
「ああ、なんだ。クロコフスキーさんですか。あなたも来てたんですね」ハンスは言った。
「ええ、院長一人だけでは、心配ですので」
――どこまで信用されていない院長なんだろう。
当人はと言えば病人たちの一番前に立って意気揚々と先導している。
「さあ、みんな、後もう少しじゃ、フリューエラ渓谷が見えるぞい!」
「ああいう人の相手は大変ですね」ハンスは肩を竦めた。
「いえ、あれでやるときはちゃんとやる人なんです」白銀の髪を掻き上げながら、クロコフスキーはクールに言う。
「そ、そうなんですか?」
「はい。私を引き上げてくださったのも院長ですからね」
「ええっ、そんなことを?」ハンスは驚いて問い返した。
「当時私は抜け出すことの出来ない泥濘の中にありましたからね」
「泥濘ですか」ハンスはよく分からず、ただ相手の発言を繰り返すばかりである。
「ところで、カストルプさん」
「はい、何でしょう」
「あのペーペルコルンという少女、私は少し気になります」
「えっ、どういう意味で?」
「あの少女からは昔の私と似たものを感じてしまいまして」
「そ、そうなんですか……?」
「どこか影がある。そしてその殺気立ったところです。もちろん、そういうニオイもしますね」曖昧な言い方である。
「ぼくは別に、普通の子だと思いましたけど」
「ま、気のせいかも知れません。ただ、何かあったら、言ってくださいね」クロコフスキーは微笑んだ。そう言えばこの人とこんなに話すのはこれが初めてだ。
道に敷き詰められた針葉樹の濡れた落ち葉が、森の奥に進むにつれて少しづつ変化していくのが分かった。
地衣類の一種が土を覆っており、モウセンゴケがあちらこちらから顔を覗かせている。
とてもエキゾチックな雰囲気だ。ハンスは心して進んで行った。
小さな山峡を回ると、滝が見えてきた。大きな音を立てて、下の渓谷へと水が雪崩れ込んでいく。凄い勢いだった。瀑布からはかなり離れているにも拘わらず、こちらにまでしぶきが飛んでくる。
「うわーっ」
ハンスは思わず叫んでしまった。実を言うと腰を抜かしそうになっていたのだが、すんでのところで踏み留まったのだ。
「まさに絶景じゃろ、ほれほれ、どうよ」とラダマンテュスが自慢げに言う。
――何を自慢するところがあると言うのか。
一同は多少瀑布から身を離し、草の上にランチョンマットを敷いて昼食を取り始めた。ヨアヒムは固い皮のパンにバターを塗ってそのまま齧り付いていた。
強い歯茎である。ハンスは血が出そうなのでナイフで切り分けた。脇に置いたパンの切れをぱっとペーペルコルンが奪っていく。
「あっ、酷いよー」ハンスは不満げに言う。
「貰えるものは貰って置くのがモットーよ」ペーペルコルンが言った。まだ機嫌は悪そうだったが、心なしかハンスのパンを取ったことにご満悦のようである。
「これこれ、にゃかよくしんさい」そう言いながらベーレンスは生ハムにしゃぶりついていた。
比較的和やかな雰囲気で昼食の時間は過ぎていった。




