抜け落ちたページⅡ
世界は一冊の書物からなっている。
物心付いた頃からルドウィナは父である石工党員ジョゼッペ・セテムブリーニにそう説き聞かされて育ってきた。
この世界は既に全て書き著されたページの中にあり、人間はそれをただ辿ることしか出来ない存在なのであると。
欧羅巴を分断する大戦争が起こった時も、だから、父は特に気にしていなかった。これは一つの世界のことである、と嘯いて。
しかし、具体的にそれがどういうことを指しているのか、ルドウィナは教えて貰えなかった。
父が書物を執筆し始めたのは、ルドウィナが五歳の時だった。シュヴァイツに二人で移住したすぐ後のことである。
何時間も部屋に閉じこもって、決して娘をその中に入れようとはしないのだった。ルドウィナは幾度も入りたがったが、絶対に入れて貰えなかった。
父親が世界で一つしかない本を作りあげているのだ。
タイトルだけは教えて貰えた。
『魔の山』
すぐに少女はそれがイタリー語ではないことが分かった。シュヴァイツに移り住んでから、隣国の言葉を習得していたので、意味はよく分かったが。
「よく聞くんだ。ここに一つの世界がある」父は自分で造本したページを捲りながら、説明して見せた。
「読ませて」少女は懇願したが、父は頑なに拒んだ。
「今はダメだ。君が大人になったら読ませてあげる」
「主人公は誰なの?」少女はそれでも本について知りたくて、聞いてみた。
「ハンス・カストルプだよ。君の友達さ」
「ハンス・カストルプ! ハンス・カストルプ!」ルドウィナは騒ぎ始めた。
少女は病弱で同年代の友達がいなかった。シュヴァイツに住んでからはなおさらだ。学校も通わずに、父から教育を受けていた。
そこで、架空の友達を思い付いた。
ハンス・カストルプ。
どこから思い付いた名前なのだろう。それは覚えていなかったが、自然といつも隣りにいる弟のような少年の存在を生み出したのだ。 何かあれば話し掛け、実際には存在しないその少年がその場にいるかのように振る舞った。食卓ではもう一人分、食器を用意させていた。
父はとても快く少年の存在を認めた。家族の一員として温かく迎えたのである。
そして、とうとうその少年を主人公にした物語を書き始めたと言うのだ。
少女は狂喜乱舞した。内容をどうしても読みたかったが、父は外出する時も不思議と原稿を少女には分からない場所に隠して置くのだった。少女は落胆した。
しかもその落胆は続いた。
父は自分とほとんど年の変わらない少女を突然連れてきた。黒い髪の無口な娘である。ルドウィナは途端に頬を膨らまして相手を睨んだ。
「あなた、誰?」
「新しい家族だよ、レオナと言うんだ」父は言った。
黒い髪の少女は返事をしない。
少女は無視して、ハンス・カストルプと話し始めた。
ところが、その名前を聞いた途端、レオナが突然、
「ハンス・カストルプ! ハンス・カストルプ!」と叫んだのだ。
「ハンスはわたしのものなの!」ルドウィナはそれを聞いて驚いて、相手に噛み付いた。
「ハンス、遊びましょ」ところがレオナはそれを無視して、誰もいない場所へと手をやり、そのままハンスを引いていく素振りを見せるのだった。
「ハンス、ハンスを連れ行かないで!」ルドウィナは泣き出した。
レオナは聞く耳を持たない。
「こらこら、ハンスは二人のものだろ」父親が見かねて介入する。「ルドウィナも少しは大人になりなさい。レオナも、独り占めにしないで」
「は……い……」レオナは小さな声で返事をした。
「ハンスは、わたしのものなのっ!」ルドウィナは不服だった。
「『魔の山』が完成すれば、ルドウィナもレオナもその中でハンスと暮らしてくことが出来るんだよ」父は優しく言う。「それまでの辛抱だ」
相手に飛びかかりたい気持ちを抑えながら、ルドウィナは終始うつむき加減だった。




