十二、ティーナッペル嬢(2)
「で」とペーペルコルン。「なんで私が、こんな見も知らない人を下まで運んでいかないといけない訳?」
ナフタと二人、向かい合って担架の両端を持ち、緩やかな山道を降りていた。毛布で巻かれたティーナッペル嬢が、相変わらず放心状態でその上には寝かされていた。
ペーペルコルンからすると、これぐらいの重さのものを運ぶのは難しいことではなかったが、一応人間を扱っているのだし、細心の注意を傾けねばならないことを面倒に感じていた。ナフタも不気味であまり近寄りたくないのが実情だった。
「非病人で、手頃に請け合ってくれそうなのがわたしとあなたしかおらず、しかもわたしは力がありませんのでねえ」
「そ、そんな理由で? ラダマンテュスかクロコフスキーが運べばいいじゃない。何で私が」
「あの二人は一応職員ですからねえ。この人は患者でも何でもない。なので、監督責任もないといったところなのでしょう」
「そ、それだけで、こんな……」
「カストルプ君が頭を下げたら二つ返事でオーケーしたのは、どこのどなたでしたでしょうかねえ」
「そ、それは、別にカストルプが好きな訳じゃないし……」
「あれっ、わたしはあなたがカストルプ君を好きかどうかなんて一言も問うていませんよ? 語るに落ちるとはまさにこのことですよね」
「く、くそおっ!」
担架が大きく揺すられ、ティーナッペル嬢の身体が横にズレて放り出されそうになった。慌ててペーペルコルンは担架を止めさせ、それを元の場所に直した。
「ふー、危なかった」
「あなたが動かすからでしょう」ナフタは冷ややかな視線で相手を見た。
「な、お、おまえっ、ここで、殺してやろうか」思わずペーペルコルンは本音を漏らした。
「おやおや、殺していいんでしょうか? 見たところ、とても手慣れておられるようですが」
ペーペルコルンは相手を鋭い目で睨み付けた。
「あなたの身体から硝煙と血の臭いがプンプンするんですよ。引き金を対象に向かって引くことを躊躇わない証拠でしょう。うん、それ、人殺しの顔ですね」ナフタは表情一つ変えずに宣うた。
「だから、何だって?」少女はドスを効かせた。
険悪な雰囲気を余所に、ティーナッペル嬢はまだ口をぽかんと開け、正気に戻ることはなかった。
「ま、ここで喧嘩は止めましょうよ。お互い両手が塞がっている訳ですし。まあ、貴方と喧嘩してもわたしは瞬殺されますからね。ところで」
「何よ!」
「カストルプ君とツィームセン君、仲良いですよね」
「ふ、それがどうしたの。男同志でいとこ同志でしょ」
「男同志でも恋愛関係にある場合はありますよ。ましてや、ツィームセン君は女性ですからね」
「ええっ!」ペーペルコルンは驚いて担架の棒を取り落としそうになった。
「二人は仲良いですよ、ずっと昔から。あなたが知るずっと前から」ゾッとするような冷たい声でナフタは囁き掛けた。「まあ、よく注視していて見ていなさいよ。二人がどれだけ強い絆で結ばれ合っているか、あなたも知ることになるでしょう。そもそもー、カストルプ君があなたに頼んだとき、側に居たのは誰だったでしょうかー?」
ペーペルコルンは青い顔になっていた。両手がぶるぶると震えている。横を向いて、小さく囁いた。
「そ、そうなの、ふ、ふーん、でも、私には関係ないし……」
それから後は一言の会話も交わされなかった。
数時間後、ハンス・カストルプは夕方の散歩に出かけた。日課という訳ではないが、時々は行うのである。大叔母が無事下界に戻ったようなので、今日の苦難は過ぎ去ったものだとすっかり安心していた。足どりは自然と軽やかになる。
ところが、目の前に現れたのはその大叔母であった。馬車も使わず、徒歩で山道を辿り返してきたようだ。おろし立てのドレスはよれよれになってしまっている。
「ハンス」大叔母は静かな声で言った。何かを決断する時、ティーナッペル嬢はいつもこんな声になる。「もう、キミはハーンブルクへ戻る気はないのね」
「……うん」
「こんなところに長く居ると、頭がおかしくなる。なので、私はこれで帰るけど、ほんとーに、ほんとーに帰る気はないのね」
「はい、ぼくはここに居たい」ハンスは決然と言った。
「そう」大叔母は黙った。リップを塗った唇をしっかりと閉じている。
長い沈黙だった。永遠かと思われるほどだった。
「じゃあ、これでお別れね」
「うん、さようなら」ハンスは少しだけ名残惜しくなった。
「さようなら」ティーナッペル嬢はそう言い捨てると、後ろを向きすたすたと歩き去って行った。
その背中を西日が照らし出し、酷く寂しげに見せていた。
なぜか、大叔母とはこれが今生の別れになるだろうな、とハンス・カストルプは思った。




