九、湯治(1)
「カストルプ君、よく考えましょう、移民は結局我らが欧羅巴にとって害悪にしかならないのです」その紫の瞳を大きく見開き、ピンと指を突き出して、ナフタはハンス・カストルプに説き聞かせた。
朝食を摂ろうと、食堂に足を運んだら、なんとそこにはナフタが待っていて、いきなり手を掴まれ連れ出されたのだった。
暫く歩いて着いた先は、ナフタの下宿だった。ベルクホーフから歩いて百メートルもないだろう。二階建ての、余り広くない建物で、庭には僅かばかりの木々が植えられている程度だった。
管理人は外出しているようで、人気は感じられなかった。ナフタはハンスの手を引いて階段を駆け上がった。
今、二人はテーブルを挟んで相対していた。
「移民の中で尤も害悪な極まるもの、それは『契約の一族』でしょう。連中が我らの主を殺めたことは、君も知る通りです。その後、彼奴らは故郷を追われ、あろう事かこの欧州の大地に移民として流れ込んだのです。以後、千年近くに渡って、連中は奢侈に溺れ、淫蕩に耽り、富を貪り、それだけではなく、欧州人と混血して、我が欧州の金甌無欠を根底から蚕食しようと絶えず狙っています。彼奴らを何とかしなければならないのです。この大地から追い出さなければなりません」口角泡を飛ばして、排外論を叫んだ。
ハンス・カストルプはうんざりした。同じような内容の話はハーンブルクの街頭で幾らでも耳にしたことがあるからである。
しかし、突然考えが頭に閃いて、
「でも、ナフタさん」と相手に声を掛けた。
「何でしょうか?」いきなり語りを遮られたナフタは、ハンスを見詰める。
「あなた、『契約の一族』ですよね?」
この単純な青年は皮肉を言おうとしたのではなく、素朴な疑問を抱いただけなのだ。
ナフタの顔が笑顔のまま、固まっている。
その額には冷や汗が浮かんでいる。
「な、なぜ、そう思ったんです?」声が震えている。
「その綺麗な黒髪と、んんと、黄色? の肌を見れば分かります。ぼくは『契約の一族』の人たちって美しいなって思いますよ。ナフタさんがそうであるように」と言いながら、流石にハンスも顔を赤らめた。
何を言っているのだと内心で自分を責めた。素直に思っているところを述べたまでなのだが、女性と話し慣れていないためか、思わず本音が漏れてしまったのだ。
確かにナフタは黙っていれば美人だった。
しかし、今、その顔は真っ赤に染まっていた。両指で耳の端を摘まんで、落ち着きを取り戻そうとしている。唇はわなわなと震えていた。
「な、な、なにを……」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです。そもそもこんなに近くで女の人と話したことはそんなになくて、そっ、それは……、い、いきなり連れてこられたからです。先日ああいう感じで知り合って、凄く緊張してたんです。怖い人なのかなって思ってて、でもよく顔を見たら、こんな綺麗な人なんで、ぼく、どぎまぎしちゃって……だから、それで……差し出がましいですけど、もっと、ぼくはナフタさんに自信を持って欲しかったんです。じ、自分で自分を貶すような真似をして欲しくないんです」
ナフタの眼は見張られており、睫毛が震えていた。
「そっ、そんなー、わたしはべっつにー、そんな意味でいったんじゃ……あくまで、だいさんしゃてきにみてのはなしですよお」
明らかに嘘を付いている。単純な青年でもそれぐらいは見抜けた。
「ナフタぁ!」
突然大声が響いた。セテムブリーニの声だ。 階段を素早く走り昇る音が聞こえた。
部屋の扉をこじ開けたセテムブリーニの頭にシルクハットはなかった。ステッキも手には握られていなかった。
取るものも取りあえずベルクホーフから駆けつけたといった風情である。
「お前、ハンスに何をしたっ!」
ナフタは驚いて起ち上がったが、瞬く間に余裕の顔付きを取り戻し、相手を鋭く睨み付けた。
「ですから、カストルプ君はあなたの所有物じゃありませんよ!」
「き、許可もなく、サナトリウムから連れ出すなんて、ど外道のやり口だ」
「わたしは、カストルプ君から許可を貰って来て貰ったんですよ、ねー」
ナフタは流し目でハンスを見た。動揺を隠すためか、凄く怖い目付になっていたので、ハンス・カストルプは身震いした。
「も、もちろんそうですっ!」
「いいや、脅して連れてきたんだ。あの大人しいハンスがお前の下宿なんかにいくはずがない! またくっだらない排外主義を吹き込んでいたんだろう。今、欧州の国々が一国主義を保って他所からの移民の流入を止めれば、居場所を失った彼らはどうなるのだ? 先進国の務めとしてわたしたちは彼らを受け容れなければならない。それが高貴なる者の使命だ!」セテムブリーニは早口で捲し立てる。
「高貴なる者の使命ってねえあなた」と、ナフタは両手を上げて肩を竦め、呆れるポーズを取ってから、「馬鹿も休み休みいってくださいよ。一体今の欧州にそれほどの許容量があるとお思いですか? 皆自分の事で精一杯なんですよ。個人がそうであれば、国家だって同じくです。あー何か、大きな戦争が起こらないものでしょうか。そうすれば先ず特需が見込める訳でして、何処の国もぶくぶく肥え太ることができるのですからね。もちろんわたしなどからすれば、それも所詮破滅への糸口にしか過ぎないと思えるのですけどね。セテムさんの言ってることに従ってもまた破滅するので、どちらでもいいっちゃ良いとは言える訳なんですが……」とニヤニヤしながら言った。
「君はとことん不真面目だな。だからわたしは君が大嫌いなんだ。どちらでもいいだと! わたしは君の言う通りになんかしたら欧羅巴は多様性を失ってしまうと考えるよ。人は一人だけで生きてるんじゃないんだ。欧州だけじゃなく世界全体を見通した大きな組織の構成が必須だ。それは連盟なり連合なりといった名前で呼ばれるだろう。戦争は絶対に防がなければならない。ハンス、わたしは宣言するよ。今日からわたしが君の先生になる、そして君をこういうナフタみたいな奴から徹底的に守り抜くことを誓うよ!」
セテムブリーニはハンスの肩を掴んで、情熱的に揺さぶった。その瞳がハンスの姿を写している。ハンスはどうすることも出来ず、そのまま固まっていた。
危機を救ったのは、ラダマンテュスとヨアヒムである。
二人は連れ立って部屋に入ってきた。ベーレンスは穏やかに微笑んでいたが、ヨアヒムは心配そうな顔をしていた。
「おお、矢張りここにおったか。朝からまたハンスが見えんとヨアが大騒ぎだったんじゃ。やはり、戦争に巻き込まれたと見えるの。この二人は会うと常に論戦を交わしておるんじゃ。結局平行線で終わりがない争いじゃ、やるなら二人だけでやってくれと言っておるんじゃが、人前で平気におっ始めおる。厄介なことこの上なくての」
「ハンスー、こいつらやばいよっ。帰ろうよー」とヨアヒムは半泣きになってハンスに縋り付いてきた。
「突然だが、今日は朗報じゃ。馬車でアルバネオにいくぞい。湯治じゃ」
この予期せぬ発表はヨアヒムを当惑させたようである。
「と、湯治って……」おろおろと周りを見回す。
「アルバネオはタヴォスから南西にある一番近い温泉地じゃ。本当ならば、サン・モリーツに行きたいんじゃが、ここからだと数日はかかる。とても長い間ベルクホーフを留守にできんからのぅ……、残念残念。まあ、結核は湯治で治る様な病気ではないがの。じゃがずっと横臥してるよりは刺激になるじゃろ。人員はわしとドクトル・クロコフスキーが付き添い、新入りのハンス君、ヨア、シュテール、エンゲルハルト、セテムでいこうと考えておるが、ナフたんも、もしかしてくるかね」
「タダでと言われるのならばもちろんご一緒させて頂きます」ナフタは胸に手を当てて言った。
「ちょっと待った、なぜこいつが来るんだ! そもそも患者じゃないだろ」セテムブリーニは腕組みをして不平を漏らす。
「セテムとナフたんは二人揃わんとな。ハンス君も行く訳じゃから、これは面白い物が見られるわい、うしししし」とダブダブのローブから出した手で口を隠して笑った。
「ぼ、ぼく、付いていくことになってるんですか……」ハンスは当惑した。
「なんじゃ、残念じゃなあ。温泉にいくと女人連はみんな水着に着換えるぞい。それを見たくないのか」
「行きます、ぼく行きます!」ハンスは興奮して叫んだ。
まことに単純な青年である。
「ヨアももちろん行くじゃろ?」
「えっ、う、うん……もちろん」不安そうに周りを見回して、ヨアヒムは言った。




