九、湯治(2)
二十分後、皆がベルクホーフの前に集合した。二台の馬車が用意されている。
馬たちも元気そうで、人懐っこく首をハンスの側に寄せていた。
「よし、諸君。無事集まったの、それでは出発じゃ!」ラダマンテュスは合図した。
「御出奔、御出奔!」シュテールは叫んだ。
「わざわざ難しく言い間違えなくても……」丁寧に友人の間違いを訂正してやっているエンゲルハルトを尻目にハンスは呟いた。
ナフタとセテム、エンゲルハルトとシュテールは一台目に、ハンス・カストルプとヨアヒム、クロコフスキーとベーレンスは二台目に乗り込んだ。
勢いよく馬車は出発した。
「二時間以上は掛かるものと思ってくれい」ベーレンスはハンスとヨアヒムに向かって声を掛けた。
「別の馬車で助かりました、ラダマンテュス。あの二人の論戦をまだ聞かされるかと思うと憂鬱になってきますからね……」とハンス。
「それだけなら同じ馬車に乗って貰っても構わんかったのじゃが、ハンス君には先ず教えねばならんことがあったからの。山を降りた途端、時間の質の変化が君を襲うじゃろう」
「それって、どういうことなんですか」
「山の上と下界では先ず時間の進み方がまったく違う。暫く山で過ごした君は、ここでの時間の進み方に慣れてしまっておる。それがいきなり下界に降りたらどうなると思う?」
「それは、凄いスピードで人が進んでいるように見えてしまうってことですか」
「そうじゃ。それだけではなく、この馬車の速度も異常なぐらいに増してしまう事になる。先に二時間ほどじゃといったが、それは下界換算で、ということじゃ。これをベルクホーフでの時間に換算すると……うーむ、計算は苦手じゃが、何分か何十秒ぐらいには短縮されるものと思われるからの」
「つまり、山から降りたらあっという間に温泉地に着いてしまうと?」ハンスは驚いた。
「そういうことじゃ。そもそも流れる時間が違いすぎるのがいかん。初めての人は度肝を抜かれるので、体調にも影響があるかもしれん。回避するのはたった一つしかないのじゃよ」
「というと?」
「身体を『水平』に保つのじゃ。いつも横臥療法で横になっている時の感覚を、今馬車の中にいるときに思い出すのじゃ。それしか凌ぐ方法がないと思われるぞい」
「で、できるのかなあ……」ハンスは当惑した。
その手がギュッと掴まれる。ヨアヒムだった。
「ハンス、大丈夫だよ。きみ(ドゥ)なら出来る。『水平状態』の感覚を思い出すんだ。それに、このことに関したらぼくの方が先輩だ。出来ないなら、ぼくがきみ(ドゥ)の分まで『水平』になってやる! だから、一切の心配は無用さ。安心しておいてよ!」
「ヨアヒム!」ハンスは初めてこのお節介ないとこの事を頼もしく感じた。
馬車が大きな下りに入った。車体が斜めに傾いだ。とうとう、下界へと降りようしているのだ。
「来るよ、ハンスっ!」
「行こう、ヨアヒムっ!」
二人は手を握り合った。
続いて襲ったのは急激な振動だった。車体が大きく揺れ、前方へ前方へと引き摺られるように進んで行く。
凄い速度だった。風がビュンビュンと唸り、馬車の窓硝子を叩いた。
馬は悲鳴を上げ、泡を吹き始めた。砂塵が舞い、二つの車体をすっかり包み込んだ。車輪がガタピシ言う音が聞こえる。今にも外れてしまわないかと不安になった。
ところが、御者たちは全く構わずに余裕の表情を浮かべて、その中で鞭を振っている。
「御者は何度も登り降りを繰り返して、『水平』の感覚を全て会得してしまっておる。あやつら以上に『水平』の達人はおらん!」ラダマンテュスが大声で説明した。
合衆国の『ローラー・コースター』なる遊園具をハンスは雑誌で知っていたが、あれに乗る感覚というのはこれに等しいものなのかと、考えていた。
「『水平状態』だっ、『水平』だっ!」ハンスは目を瞑り、何度も祈りを唱えるように繰り返した。
いつも寝椅子で横になっている時の感覚を思い出そうと、過去へ向かって、記憶の糸をたぐり寄せていく。
と、そこに一人の少年の顔が浮かんだ。
「プリービスラフ・ヒッペ君!」ハンスは心の中で叫んだ。
後ろを向いていた栗毛色の髪がこちらへと振り返る。途端にヒッペの顔は、クローディア・シャウシャットのものへと変わった。
「でも、きっと鉛筆は返してよね」二人の声が重なった。
「もちろん、約束するよっ!」ハンスは声に出して叫んでいた。
その瞬間、何度も車輪を軋らせながら、馬車は急停止した。大きな揺れが車体を襲った後、なお前後に傾ぎながらゆっくりと静かになっていった。ハンスはほっと息を吐いた。
とうとう、アルバネオに辿り着いたのだ。
そこは、余り人のいない温泉町だった。道路を凄いスピードで人々が往き来しているのが、馬車の窓から見えた。
「まだ、この感覚に慣れるのは時間が掛かりそうじゃな」とラダマンテュスは優しく言った。
「患者の負担を考えて下さい」今まで黙っていたクロコフスキーが横から口を挟んだ。僅かに怒気を含ませた声である。
「し、しかし、全く刺激がない、というのもまた患者を不安にさせるのじゃよ」ラダマンテュスは言った。
「限度があります。いきなりの下界への移動で身体的、精神的負担を掛けてしまえば、患者の死亡率を高め、寿命を縮める可能性もあります」
「これこれ、患者の目の前で死亡率とか寿命とかの話をするでない。その方が下手すると脅えさせてしまうかもしれんぞい。全くフモールというもんを全く解すことができんのが君の難点じゃの、クロコフスキー。そんな調子で精神科医が勤まるんかいの。わしの分野じゃないので別に構わんが」
ハンスとヨアヒムはと言えば、この会話は耳に入らず、揺れのショックでぽかんと口を開けたままでいたのだが。
「患者を客体として冷静に観察することが必要なのです。ですから、一切の感情を表出するのは避けるようにしています」クロコフスキーは両腕を組み、静かに言った。
「なんじゃ、つれないのお、こーんな胸しておってもそーんな態度じゃ男がよりつかなあああああああっ」
長いボサボサ髪が根本から鷲掴みにされ、ラダマンテュスはクロコフスキーに持ち上げられた。
「さっさと行きますよ」
ぱっとクロコフスキーが馬車から降り、続いて髪を掴まれたままのラダマンテュスの身体がぬるりと滑り降りていった。
暫く身体を落ち着かせた後で、ハンス・カストルプとヨアヒムも外へ降りることにした。 すぐさまセテムブリーニと、ナフタに取り囲まれる。二人とも今か今かとハンスが出てくるのを待ち構えていたようで、飢えた眼をしている。
ヨアヒムは身構えた。
「カストルプ君は、わたしが美味しく頂きますよ」とナフタが先陣を切った。
「何が『頂き』だ。ハンスは人だ、人には生得的に固有の人権があって……」セテムブリーニはまた小難しいことを言い始めた。
「あらあら、本人の同意も得ないままに、『ハンスは自分の弟子にする』とか叫んでたのは、どこのどなたでしょうかねえ。ほんとは自分が一番カストルプ君を独占したくて溜まらないんでしょう、セテムブリーニさんったら。怒りを我慢しちゃって、可愛いお顔が台無しですよおっ」ともかく際限なくナフタはセテムを煽る作戦らしい。
「さっきからなんなんだよ。いい加減にしろよ! お前ら二人とも黙れ!」ヨアヒムは怒鳴った。その声には悲痛な響きがあり、顔が真っ青になっている。ハンス・カストルプは慌てて、いとこの側に寄った。
「カストルプ君のいとこですよね。ほんとに、カストルプ君はモテますね、因みに年齢は? 一応聞くのは、これが最初のはずです」
ヨアヒムは最初無視しようとしていたが、生来の律儀さからか、
「十九。もうすぐはたち。それが何か?」と冷たく返した。腕を組んで相手を睨む。
「ほお、わたしはレオナ・ナフタと申します。十九です。同い年ですね。セテムが十八歳ですから、皆十七歳のカストルプ君よりちょっと年上と言うことになりましょう。つまり、カストルプ君は年上キラーと」
「ぐ、偶然なそうなだけだろっ!」ヨアヒムは焦ってギュッと両の拳を腰の上で浮かせた。少し元気を取り戻したらしく、頬に赤みが戻ってきていた。
「いえいえ、実は先日も大人っぽい女性がベルクホーフに来訪してまして、守衛さんにカストルプ君の名前を告げるのを、わたし、偶然見たんですけど」と、ナフタは眼を細めていった。
ヨアヒムは言葉を詰まらせた。
「な、なんだと、そんなやつ、これまで見たことないぞ!」セテムブリーニは完全に面食らっているようだった。
「どうやら『今回』は色々と勝手が違うようですね、セテムブリーニ」
何を言っているのか、ハンス・カストルプは理解出来なかったが、最初険悪だった雰囲気が徐々に和らいだので、内心ほっとしていた。意外にナフタはムードメーカーな側面もあるのかも知れない。
「おーい、皆、準備が出来たぞ! こっちへくるのじゃー」
遠くに煉瓦作りの大きな建物が見えた。ラダマンテュスの姿が現れ、手を振って声を掛けているのが分かった。湯治と言っていたから、温泉が中にあるのだろう。
「うわおおおいっ、統治、統治!」カロリーネ・シュテールはそれを聞いた途端勢い切って飛び跳ねた。
……なぜ、この娘は間違えなくてもいい単語を間違えるのだろうか。ハンス・カストルプは意図的にやっているのではないかと疑った。
「約一年ぶりですね、楽しみですわ」エンゲルハルトが言った。
「前にも何度か行ったことあるんですか?」ハンスは聞いた。
「はい、私とカロリーネと、セテムさん、ナフタさんは何回かあるんですよ。ヨアヒムさんは今回が初めてですけど」
それを聞いた途端、恥ずかしそうにヨアヒムは顔を逸らした。
物凄い速度で道を行く人々を出来るだけ見ないようにして、六人はその建物まで歩いて行った。
「コツさえ掴めば、どうってことないですわ。自分とは全く別の時間に生きてる人たちだと言うことをよく考えて、線引をして移動すれば、少しも気にならなくなるんです」エンゲルハルトは言った。
「泳ぎみたいなものです。時間を遊泳する感じですの」
「うーん、難しい」
「ハンス、手を貸して」とヨアヒムが言った。
ハンスが手を差し出すと、スイスイと前に引っ張られて、気付くと他の連中を早くも後ろ側に追い越していた。ラダマンテュスが側に立っている。
「ヨアは運動神経がいいからのぅ。案外こう言うことも、すぐできてしまうんじゃ。ハンス、持つべきものはいとこじゃのう」
ぽんと背中が叩かれた。ハンスは妙に照れくさく思った。
「あいつら、タヴォスのサナトリウムの連中か」
どこからか声が聞こえてきた。建物から出て来た客が、皆こちらの方を見てがやがやと話し合っている。
「ええっ、結核患者じゃないの?」
「何でここに来るんだよ!」
「オーナーさんが特別に許可してるらしいよ」
「いやだあ、伝染されるじゃない!」
「怖いっ! もうここには近寄らないようにしよう」
ハンス・カストルプの気分は暗くなった。ヨアヒムも俯いている。
「ま、気にせんことじゃの。確かに、今のところ結核は不治の病じゃ。世間の連中が、わしらを蔑んだ眼で見よるのはある程度我慢しなければならん。病気と言うだけでいきなり差別されて、業腹な気持ちはよく分かるがの」ラダマンテュスはしんみりと言った。




