地図にはない道
窓があった。
それだけで、同じ王宮の地下とは思えなかった。
格子のはまった小さな窓から、細い光が差し込んでいる。
部屋の中央には机が一つ。
椅子が二脚。
壁際には、何冊かの本まで置かれていた。
ルシアンは、机の上に広げられた地図を見つめていた。
今朝。
近衛隊長のローデリック・ハルトが、地下牢へやって来た。
屋敷から押収された書簡。
使用人たちの証言。
父が王都を離れるまでの、ルシアンの行動。
それらを調べた結果、反乱への関与を示すものは見つからなかったらしい。
そのため、牢からは出された。
ただし。
「嫌疑が晴れたわけではない」
ハルトは、はっきりとそう言った。
「関与した証拠が見つからなかった。それだけだ」
「同じではないのですか」
「違う」
「どう違うのでしょう」
「それを説明するのは、私の役目ではない」
そう言って、ここへ連れてこられた。
王宮の外へ出ることは許されていない。
扉の外には、今も騎士が立っている。
牢ではなくなった。
自由になったわけでもない。
ルシアンには、その違いがよく分からなかった。
ただ、地図を広げられるようになった。
それで十分だった。
◇
西方へ向かう街道は、三本あった。
もっとも太く描かれているのが、グランツ要塞へ続く王国街道。
北へ迂回する細い道。
そして、南の村々をつなぐ古い交易路。
父が自分を逃がそうとしたのなら、どれを選んだだろう。
王都から離れるだけなら、北か南。
しかし、父は行き先を告げなかった。
護衛もつけなかった。
金の用意さえ、知らされていない。
それを、逃がしたかったと言えるのだろうか。
ルシアンは、王都とグランツ要塞の間を指でなぞった。
そのとき、扉が開いた。
ハルトが姿勢を正す。
「陛下」
王が入ってきた。
その後ろには財務卿がいる。
さらにもう一人。
見知らぬ少女が、大量の書類を抱えて歩いてきた。
ルシアンより少し年上に見える。
栗色の髪をまとめ、深い赤色の上着を身につけている。
少女は王の前に出ることを恐れている様子もなく、机まで来ると、抱えていた書類を置いた。
鈍い音がした。
地図の端が、書類の下に埋もれた。
ルシアンは少女を見た。
少女も、ルシアンを見た。
値踏みするような目だった。
「ハルト」
王が近衛隊長を呼んだ。
「昨夜から、休んでおらぬのではないか?」
「問題ございません」
「問題がない者は、そのような顔をせぬ」
「生まれつきでございます」
王は少し考えた。
「そうであったかのう」
「陛下。今は、その話ではございません」
「終わったら休んでおくれ」
「……承知いたしました」
ハルトは、不承不承といった様子で頭を下げた。
王は机へ近づいた。
「地図は見られたか?」
「はい」
「何か分かったか?」
「まだ、何も」
「そうか」
王は残念そうでも、失望した様子でもなかった。
少女が、机の上の地図を覗き込む。
「あなたが、ルシアン・シルバー?」
「はい」
「思っていたより子どもね」
ルシアンは少女の顔を見た。
「あなたも、それほど変わらないように見えます」
少女の眉が動いた。
財務卿が咳払いをする。
「こちらはクラリス・ヴァレン。地方行政官登用試験で次席となり、現在は地方役所の書記官を務めている」
「次席は必要ありません」
クラリスが言った。
「一席の答案も読みました。私の方が上でした」
「採点したのは其方ではない」
「だから間違えたのでしょう」
財務卿は額を押さえた。
「シルバー卿の命で王都へ提出された街道税の帳簿を調べていた。西方へ向かう荷の流れについては、我々より詳しい」
「調べていたのではありません。間違いを直していました」
「同じことだ」
「違います」
王がクラリスを見る。
「其方が、西方の荷についてまとめたのか?」
「はい。軍が使う物と民が使う物を分けろという、財務卿からの無理難題でしたので」
「陛下からのご指示だ」
「では、陛下からの無理難題です」
ハルトの表情が険しくなった。
しかし、王は頷いた。
「難しかったか」
「面倒でした」
「できぬか?」
「できます」
答えるまでに、少しの間もなかった。
クラリスは書類の山から一枚を抜き取り、王の前へ置いた。
「穀物、塩、薬、冬用の布は止めない。鉄材、矢羽根、乾燥肉は届け先を確認する。商人には積み荷を申告させ、虚偽があれば取引資格を止めます」
「商人は従うかのう」
「従わせます」
「どうやって?」
「従った方が儲かるようにします」
王は、書類を手に取った。
その間に、クラリスの視線が地図へ戻る。
ルシアンが指でなぞった跡を見た。
「何を調べていたの?」
「父が私を逃がすつもりだったとすれば、どの道を使わせたのかと」
「それで?」
「この三本かと」
ルシアンが街道を示した。
クラリスは地図を見た。
次に、ルシアンを見る。
「あなた、バカ?」
部屋が静かになった。
ハルトが一歩動く。
財務卿は目を閉じた。
王だけが、何も言わなかった。
ルシアンはクラリスを見返した。
「理由を聞いても?」
「道の長さしか見ていないでしょう」
「地図ですから」
「地図に線が引いてあれば、馬が勝手に走ると思っているの?」
クラリスは王都と要塞の間にある宿場を指した。
「王国街道には馬を替えられる宿場がある。でも北の道にはない。南の交易路にはあるけれど、荷馬車用だから遠回りになる」
「一人で逃げるなら、荷馬車は必要ありません」
「食料は? 水は? 夜はどこで寝るの?」
「……」
「ほら。何も考えていない」
ルシアンは口を閉じた。
話すのが面倒になった。
クラリスは勝ち誇ったように顎を上げる。
しかし、ルシアンはもう一度地図を見た。
「では、書状はどうでしょう」
「何が?」
「反逆の書状は、グランツ要塞から届いたと聞きました」
「そうね」
「どの道を通ったのでしょう」
クラリスの表情が止まった。
ルシアンは王国街道を指す。
「この道なら、馬を替えられる」
「ええ」
「ですが、要塞が占拠されたという知らせと、反逆の書状は、ほとんど同時に王都へ届いています」
財務卿が顔を上げた。
クラリスは地図へ目を落とす。
先ほどまでの勝ち誇った表情が消えていた。
「……出発した時刻が違う」
「はい」
「それか、出発した場所が違う」
「はい」
クラリスは、しばらく地図を見ていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「先にそれを言いなさいよ」
「尋ねられませんでしたので」
クラリスは、悔しそうにルシアンを睨んだ。
王が二人の間から地図を覗き込む。
「つまり、この書状は要塞が奪われる前に出されたのか?」
「まだ、分かりません」
ルシアンとクラリスの声が重なった。
二人は、互いを見た。
王は少し笑った。
「そこは同じなのじゃな」
◇
「遊んでいる場合ではございません」
財務卿が言った。
「反乱軍は、今この瞬間にも兵を集めております」
「遊んではおらぬぞ」
王は答えた。
「二人とも、真面目に話しておる」
財務卿は何か言いかけたが、諦めたように口を閉じた。
代わりに、懐から折りたたまれた紙を取り出す。
「反逆文書の写しでございます」
紙が、ルシアンの前へ置かれた。
父の名があった。
グレイス・シルバー。
その隣には、ウィリアム・ゴルドー。
見慣れた父の筆跡だった。
ルシアンは、最初から読み始めた。
国王の退位。
一連の改革の撤回。
西方諸侯の権利回復。
捕らえられた者たちの解放。
要求を受け入れない場合、王国軍に対して武力をもって抵抗する。
簡潔な文章だった。
一度、読む。
もう一度、読む。
父の書いた報告書とは違った。
しかし、何が違うのかを言葉にできなかった。
横からクラリスが紙を覗き込む。
「何よ、これ」
「何かおかしいですか」
「全部よ」
クラリスは、文書の一節を指で叩いた。
「改革を撤回するって、どの改革を撤回するの?」
「一連の、と書かれています」
「だから、どこからどこまでよ。人事制度? 徴税方法? 鉱山の契約? 軍の登用基準?」
誰も答えなかった。
クラリスは続ける。
「役人を元に戻すなら、今いる役人をどうするの。徴税方法を戻すなら、集めた税の扱いは? すでに結んだ契約は? 撤回するだけで済むわけがないでしょう」
財務卿が眉をひそめた。
「これは行政文書ではない。反乱軍からの要求書だ」
「書いたのは宰相でしょう」
「今は反逆者だ」
「反逆したら、急に仕事ができなくなるんですか?」
財務卿が黙った。
クラリスは鼻を鳴らす。
「この程度の文書、役所に持ってきたら書き直しです」
ハルトが低い声を出した。
「言葉を慎め」
「では、丁寧に申し上げます。書き直しです」
ほとんど変わっていなかった。
ルシアンは、文書へ目を戻した。
父は夜遅くまで書類を書いていた。
一つの制度を変えるとき、何が必要になるのか。
誰に命じるのか。
いつまでに行うのか。
その間に止まる仕事はないか。
ルシアンは内容を読んだことがない。
ただ、父が何度も紙を直していたことは覚えている。
一枚の書類を書くために、別の書類を何枚も調べていた。
けれど、この書状には何もない。
「父は、このとおりに実行できると思っていたのでしょうか」
財務卿が答えた。
「要求を突きつけることが目的だ。実務の手順まで書く必要はない」
「相手が実行できなくても?」
「反乱軍の要求とは、そういうものだ」
「では、受け入れられないことを前提に書いたのでしょうか」
財務卿は答えなかった。
ルシアンは王を見る。
「陛下は、これを読んで、どう思われましたか」
「仕事が増えると思った」
「ほかには?」
「シルバーらしくないと思った」
ルシアンの指が止まった。
財務卿とハルトも王を見る。
王は文書を覗き込んだ。
「我に何かさせたいとき、あやつは嫌になるほど細かく書く。いつまでに誰を呼べ、どの書類に目を通せ、誰に反対されるから先に話しておけとな」
「……はい」
「ところが、これは何も書いておらぬ」
「それを、いつから?」
財務卿が尋ねた。
「最初からじゃ」
「なぜ、仰らなかったのです!」
「シルバーらしくないことと、シルバーが書いていないことは別であろう」
王は、さも当然のことのように答えた。
「我は、あやつが反乱を起こしたことがないから、反乱のときにどのような文を書くのか知らぬ」
財務卿は言葉を失った。
ルシアンは、もう一度署名を見る。
父が書いたことを疑う理由はない。
父の筆跡。
父の印章。
しかし。
父は、実行させるための書き方をしていない。
「陛下に、要求を受け入れてほしくなかったのでしょうか」
口に出してから、違うと思った。
それなら、書かなければよい。
署名もしなければよい。
だが、書かないことが許されなかったのなら。
「無理に書かされた、と申すのか」
ハルトが尋ねる。
「分かりません」
「先ほどから、そればかりだな」
「分からないものを、分かるとは言えません」
ハルトは、ルシアンを見た。
厳しい顔だった。
しかし、それ以上は責めなかった。
◇
クラリスは文書を手に取った。
窓から入る光に透かす。
裏返す。
紙の端を指でなぞる。
「紙は王都でも使われている物ね」
「分かるのですか」
「商家の帳簿と同じよ。珍しい物ではないけれど、西方だけの物でもない」
「つまり?」
「どこで書いたかは分からないということ」
クラリスは文書を机へ戻した。
「分からないことが増えたわね」
「はい」
「嬉しそうに言わないで」
「そのように見えましたか」
「見えないから腹が立つのよ」
ルシアンは黙った。
やはり、話すのが面倒だった。
王がハルトを見る。
「書状を運んできた者は、どうしておる?」
「王都から西へ二つ目の宿場で、旅人に託されたとのことでございます」
「旅人?」
「行商人です。宿で声をかけられ、王都の門衛へ渡すよう金を渡されたと」
「渡した者は?」
「外套で顔を隠していたと申しております」
クラリスが呆れたように息を吐いた。
「よくある話ね」
「怪しいのですか」
ルシアンが尋ねる。
「逆よ。荷物を運ぶ商人なら、何度も頼まれる。手紙一通で金がもらえるなら、いちいち中身なんて聞かないわ」
「では、その者からは分からない」
「手紙についてはね」
クラリスは地図へ手を伸ばした。
王都から西へ二つ目の宿場。
その場所を指す。
「でも、手紙を渡した人間は、ここまで来た」
「その前に、どこを通ったか」
「宿の者なら、馬を見ているかもしれない。泥のつき方、荷物、食べさせた餌。馬を替えたなら、記録が残っている」
ハルトが首を振った。
「相手が記録を残すとは限らない」
「宿が残すのよ」
クラリスは即座に返した。
「馬は何も食べずに走らない。餌を出せば金を取る。金を取れば帳簿に書く」
ルシアンは、地図の宿場を見た。
線だけでは分からなかったもの。
誰が通ったか。
どこで休んだか。
何を食べたか。
地図には書かれていない。
しかし、人が道を通れば、何かが減り、何かが残る。
「調べられますか」
「誰に聞いているの?」
「クラリス殿に」
「殿はいらないわ」
「では、クラリスさん」
「それも気持ち悪い」
「何と呼べばよいのでしょう」
「クラリスでいいわよ!」
「分かりました。クラリス」
クラリスは、なぜかさらに不機嫌そうな顔をした。
王が笑いをこらえるように口元へ手を当てた。
財務卿は天井を見ていた。
◇
「私が宿場へ行きます」
ハルトが言った。
「門衛と騎士を連れ、帳簿と証言を確認いたします」
王はハルトを見る。
「其方は休むのではなかったか?」
「この状況で、休んでいる場合ではございません」
「昨夜から働いておる者に、正しい判断ができるのか?」
「できます」
「クラリスと同じことを言うのう」
ハルトが黙る。
クラリスは不満そうに王を見た。
「私はできます」
「其方は寝たのか?」
「三時間ほど」
「できぬ側ではないか?」
「ハルト隊長よりは寝ています」
「比べる相手を間違えておる」
王は小さく息を吐いた。
それから、ハルトへ向き直る。
「信頼できる者はおらぬのか?」
「おります」
「では、その者に任せてみよ」
「しかし」
「おらぬのなら、其方が行くしかないが」
「……おります」
「ならば、その者に頼んでおくれ」
ハルトは、しばらく動かなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「承知いたしました」
「報告を聞くまでが其方の仕事じゃ。倒れるまで働くことではない」
「はっ」
短い返事だった。
その声には、まだ納得していないものが残っていた。
それでも、ハルトは扉へ向かう。
「ハルト」
王が呼び止めた。
近衛隊長が振り返る。
「昨夜は、ルシアンのことを見てくれてありがとう」
ハルトは目を瞬いた。
「私は、命じられた務めを果たしただけでございます」
「うむ。だから礼を言うておる」
ハルトは何も答えなかった。
もう一度頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
その足音が遠ざかってから、財務卿が口を開いた。
「陛下は、あの者を甘やかしすぎです」
「休ませることがか?」
「礼など言わずとも、ハルトは務めを果たします」
「知っておる」
王は答えた。
「言わなくても働く者に、言わなくてよい理由にはならぬであろう」
財務卿は黙った。
クラリスも、先ほどまでとは違う目で王を見ていた。
◇
机の上には、地図と書状が並んでいた。
ルシアンは二つを見比べる。
書状には、父の名がある。
地図には、父の居場所がない。
反逆を認めれば、すべては簡単だった。
父は王を裏切った。
ゴルドー卿も加わった。
二人は西方の旧貴族を集め、要塞を奪った。
書状を送り、王に退位を迫った。
そう考えれば、話はつながる。
ただ。
つながりすぎていた。
父は、自分に何も知らせなかった。
逃げる場所さえ教えなかった。
実行できない要求を書いた。
書状は、要塞陥落の知らせとほとんど同時に届いた。
どれも小さな違和感だった。
一つだけなら、間違いかもしれない。
だが、いくつも重なっている。
「陛下」
「何じゃ?」
「この書状は、陛下に退位していただくために書かれたものではないのかもしれません」
財務卿の顔が険しくなる。
クラリスは黙ってルシアンを見た。
王だけが、いつもと変わらない声で尋ねた。
「では、何のためじゃ?」
ルシアンは、すぐには答えなかった。
父が何を考えたのか。
まだ分からない。
誰が父に書かせたのか。
それも分からない。
ただ、一つだけ。
父がこの書状を読ませたかった相手は、反乱軍でも、西方の諸侯でもない。
署名された書状は、王へ届けられた。
「陛下に、考えていただくためです」
「何をじゃ?」
ルシアンは文書を見た。
退位。
改革の撤回。
実行する方法の書かれていない要求。
父ならば、書かなかったはずの文書。
「この書状に書かれていないことを」
「ずいぶん都合のいい考えね」
クラリスが言った。
「私には、そうは見えないわ」
ルシアンは、クラリスを見る。
否定する言葉を探した。
けれど。
見つからなかった。
「否定はしません」
「しないの?」
「はい」
ルシアンは、もう一度父の署名を見た。
「私は、父を信じたいだけなのかもしれません」
財務卿が眉をひそめる。
「そのようないい加減な理由で――」
「よい」
王が遮った。
財務卿が振り返る。
「しかし、陛下」
「真実は、見てみねば分からぬであろう」
王はクラリスを見た。
「クラリス。苦労をかけるが、よろしく頼む」
クラリスは一瞬、目を見開いた。
それから、仕方がないとでも言うように息を吐く。
「……仕方ありませんね」
声は呆れていた。
しかし、書類を集める手は、先ほどより少しだけ速かった。
窓から入る光が、地図の上を横切っていた。
そこには三本の道が描かれている。
しかし、父のいる場所へ続く道は、まだどこにも描かれていなかった。
【人物紹介】
クラリス・ヴァレン。第三章で官吏試験二位となり、シルバーが起用した商家の娘。
ローデリック・ハルト。王都の警備を預かる近衛隊長。




