鉄格子から始まる空論
「本はないのか」
声がした。
ルシアンが顔を上げると、鉄格子の向こうに男が立っていた。
飾りの少ない服を着ている。
その後ろには、昨夜の近衛隊長がいた。
「……持ち込みを断られました」
「そうか。何を読んでおった?」
「戦史です」
「牢で読むには、気が滅入りそうじゃのう」
「ここで起きていることも、似ていますので」
後ろの近衛隊長が眉を動かした。
男は、牢の中を見回した。
水差し。
空になった食器。
壁際に畳まれた寝具。
最後に、ルシアンを見る。
「飯は食えたか?」
「はい」
「眠れたか?」
「少しは」
「ならば、座って話そうか」
男は近衛隊長を振り返った。
「椅子を二つ、持ってきておくれ」
「陛下。お話ならば、取り調べの部屋で」
「そこには本があるのか?」
「……ございません」
「では、ここでよかろう」
ルシアンは、男を見た。
この人が、王だった。
◇
牢の内側と外側に、一脚ずつ椅子が置かれた。
王は外側の椅子に腰を下ろした。
ルシアンは、しばらく立っていた。
「座らぬのか?」
「座ってよいのでしょうか」
「そのために持ってこさせたのじゃが」
「……はい」
座ると、ちょうど王と目の高さが合った。
鉄格子が、二人の間を縦に走っている。
王は膝の上で手を組んだ。
「さて。其方は、何をしたのじゃ?」
ルシアンは少し考えた。
「本を読んでいました」
近衛隊長が口を開く。
「陛下がお尋ねなのは――」
「うむ。それは聞いた」
王は頷いた。
「その前は?」
「食事を」
「その前は?」
「家庭教師の授業を受けていました」
「なるほど」
王は近衛隊長を見た。
「どれが、牢に入れる理由じゃ?」
「いえ、それらの行動ではなく、父親の反逆への関与を調べる必要がございます」
「何を調べておる?」
「書簡や、屋敷への出入りなどを」
「何か出たか?」
「今のところは、まだ」
「そうか」
王は再びルシアンに向き直った。
「では、其方から聞こう。何かあるか?」
ルシアンは、すぐには答えなかった。
父について聞かれると思っていた。
どのような客が来たか。
何を話していたか。
西方へ向かう前に、何を言い残したか。
尋ねられれば、答えられるように考えていた。
しかし、王は待っている。
ルシアンは、膝の上の手を見た。
「……父は、まだ宰相なのでしょうか」
近衛隊長の表情が険しくなった。
王は首を傾げる。
「辞めるとは聞いておらぬな」
「退位を求めたと聞きました」
「うむ」
「それでも、ですか」
「我が辞める話と、あやつが辞める話は別であろう」
ルシアンは顔を上げた。
王は、少し困ったように続けた。
「もっとも、我が辞めた後まで仕事を頼まれても困るがのう。新しい王に頼めばよい」
「陛下」
近衛隊長が低い声を出した。
「仮の話じゃ」
王は片手を振った。
ルシアンは、その手を見つめていた。
◇
「父の筆跡だったのでしょうか」
「そう聞いておる」
「印章も?」
「うむ」
「でしたら、父が書いたのだと思います」
近衛隊長が身を乗り出した。
「何か知っているのか」
「いいえ」
「では、なぜそう言える」
「私は、その書状を見ていませんので」
「ならば――」
「見た方が、そう判断されたのではないのですか」
近衛隊長は口を閉じた。
王が小さく頷いた。
「そうじゃな」
ルシアンは続けた。
「父が書いたことを疑う理由は、私にはありません」
「うむ」
「ただ、何を書いたのかは、見てみたいと思います」
「退位せよ、改革をやめよ、ということじゃ」
「それだけでしょうか」
「細かいことも、いろいろあったのう」
「誰に宛てた書状なのですか」
「我じゃ」
「陛下に、何をしてほしかったのでしょう」
近衛隊長が息を吐いた。
「だから、退位だと申しておる」
「はい」
ルシアンは頷いた。
しかし、王は何も言わなかった。
少年を見ている。
しばらくして、尋ねた。
「父は、普段から分かりにくい手紙を書くのか?」
「分かりません。父から手紙をもらったことはありませんので」
「そうか。我には山ほど書くぞ」
「……存じています」
「読んだことがあるのか?」
「夜も、書いていました」
王は黙った。
ルシアンは、膝の上で指を組み直した。
◇
「父は、私に逃げるようにと言いました」
近衛隊長が王を見た。
王の表情は変わらなかった。
「いつじゃ?」
「西方へ向かう前です」
「どこへ逃げよと?」
「それは、聞いていません」
「誰と?」
「それも」
「ふむ」
王は少し考えた。
「難しい頼みじゃのう」
「はい」
「其方は、行く当てがあるのか?」
「ありません」
「金は?」
「自分では、使ったことがありません」
王は近衛隊長を振り返った。
「十六の子を、一人で旅に出すものなのか?」
「通常は、従者や護衛を伴います」
「そうであろうな」
ルシアンは王を見た。
「父は、逃げられると思っていたのでしょうか」
王はすぐには答えなかった。
「父に聞かねば分からぬな」
「……はい」
「其方は、どう思う?」
ルシアンは視線を落とした。
昨夜から、考えていた。
父は、何かを恐れていた。
それなら、なぜ自分を連れていかなかったのか。
なぜ、家に残したのか。
「父が何をするのか、私は知りませんでした」
「うむ」
「どこへ逃げればよいかも、誰を頼ればよいかも、知りません」
「うむ」
「知らなければ、話せません」
近衛隊長の顔つきが変わった。
ルシアンは続けた。
「私が捕まることまで、考えていたのかもしれません」
王は黙っていた。
「父は、私を逃がしたかったのではなく、何も知らないままにしておきたかったのかもしれません」
口にすると、ひどく不確かな考えだった。
父の言葉は、確かに「逃げろ」だった。
それを、自分に都合のよい意味に変えているだけかもしれない。
ルシアンは、組んだ指に力を込めた。
「……分かりませんが」
「そうじゃな」
王は頷いた。
「それでは、其方が困る」
ルシアンは顔を上げた。
「はい?」
「父が何を考えておったとしても、其方は何も分からぬまま、逃げるか残るか決めねばならぬ」
「……はい」
「難儀なことじゃ」
父の考えが正しいとも、間違っているとも言わなかった。
ただ、困ると言った。
自分が。
ルシアンは、少しの間、返す言葉を見つけられなかった。
◇
「陛下は、父が裏切ったと思われますか」
初めて、王に答えを求めた。
王は椅子に座り直した。
「困っておる」
「……何にでしょう」
「仕事が進まぬ」
ルシアンは、王を見た。
「シルバーのところで止まっておった書類が、まとめて我のところへ来た。ゴルドーがおらぬから、軍の話も進まぬ」
「反逆したことではなく?」
「それも困る」
「では」
「じゃが、要塞が奪われたことと、其方の父が何をしたかは、別々に調べておる」
近衛隊長が静かに姿勢を正した。
「要塞は、待ってはくれぬからな。王都の守りも固めねばならぬ。商人も農民も、二人の返事を待ってはおれぬ」
「父の返事を、お待ちになるのですか」
「聞きたいことがある」
「戻らなければ?」
王は、少しだけ目を細めた。
「それが困ると言うておる」
ルシアンは黙った。
王は、父を信じているとは言わなかった。
裏切り者とも言わなかった。
父が帰る場所を、まだ片づけていない。
ルシアンには、そう聞こえた。
「……父は、戻れるのでしょうか」
王は答えず、少年を見た。
問い方が変わったことに、ルシアン自身も気づいていた。
戻るのか。
戻らないのか。
そういう話ではなかった。
父は、西方へ行った。
自分には、逃げろと言った。
そして今、父自身からの知らせは一つもない。
「そのためにも、何があったか知らねばならぬな」
王の声は、先ほどまでと同じだった。
◇
しばらくして、王が立ち上がった。
「では、今日はこのくらいにしよう」
ルシアンも立つ。
近衛隊長が椅子を引いた。
「その子について、今分かっておることをまとめておくれ」
「承知いたしました」
「父のことと、混ぜぬようにな」
「……はっ」
王は歩き出しかけて、振り返った。
「そうじゃ。本は何がよい?」
ルシアンは少し考えた。
「地図を、お願いできますか」
「本ではなく?」
「はい」
「どこの地図じゃ」
「西方の。街道と、宿場が分かるものを」
近衛隊長が眉をひそめた。
王は尋ねた。
「父の行き先を調べるのか?」
「父が私を逃がすつもりだったのなら、どこへ行かせるつもりだったのか、考えてみたいのです」
「なるほど」
「それと」
「うむ?」
ルシアンは、鉄格子の向こうの王を見た。
「反逆の書状も、読ませていただけますか」
近衛隊長が口を開きかけた。
その前に、王が尋ねた。
「何を見る?」
「父は、仕事の手紙をたくさん書いていました」
「そうじゃな」
「陛下に何かをしていただくために、書いていたのだと思います」
王は黙って聞いていた。
「でしたら、今回も」
ルシアンは言葉を探した。
「退位のほかに、陛下にさせようとしていることがあるのかもしれません」
地下牢の奥で、水の滴る音がした。
王は、しばらくルシアンを見ていた。
やがて、近衛隊長に言った。
「写しを一通、用意しておくれ」
「陛下、よろしいので?」
「我も読んだが、仕事を増やすことしか書いておらなんだ」
王は顔をしかめた。
「ほかの読み方があるなら、聞いてみたいではないか」
◇
足音が遠ざかっていった。
ルシアンは椅子に座った。
向かいの壁には、相変わらず何も書かれていない。
父の言葉を思い返す。
何かあれば、逃げろ。
父は、その「何か」を言わなかった。
書状には、書いてあるだろうか。
あるいは、そこにも書かなかったのだろうか。
廊下の向こうで、王の声がした。
「ところで、あの子をどこへ移す?」
「拘束を解かれるので?」
「調べた結果を見てからじゃ。じゃが、ここでは地図を広げるにも暗かろう」
「取り調べの部屋でしたら」
「窓はあるか?」
「ございます」
「では、まずはそこでよい。本も置いておくれ」
ルシアンは、顔を上げた。
今度は、尋ねられれば話せることがありそうだった。




