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愚王と呼ばれておりますが、だいたい予定通りです  作者: 綾城式部
第四章 捨てられた愚王

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鉄格子から始まる空論

「本はないのか」


声がした。


ルシアンが顔を上げると、鉄格子の向こうに男が立っていた。


飾りの少ない服を着ている。


その後ろには、昨夜の近衛隊長がいた。


「……持ち込みを断られました」


「そうか。何を読んでおった?」


「戦史です」


「牢で読むには、気が滅入りそうじゃのう」


「ここで起きていることも、似ていますので」


後ろの近衛隊長が眉を動かした。


男は、牢の中を見回した。


水差し。


空になった食器。


壁際に畳まれた寝具。


最後に、ルシアンを見る。


「飯は食えたか?」


「はい」


「眠れたか?」


「少しは」


「ならば、座って話そうか」


男は近衛隊長を振り返った。


「椅子を二つ、持ってきておくれ」


「陛下。お話ならば、取り調べの部屋で」


「そこには本があるのか?」


「……ございません」


「では、ここでよかろう」


ルシアンは、男を見た。


この人が、王だった。


◇


牢の内側と外側に、一脚ずつ椅子が置かれた。


王は外側の椅子に腰を下ろした。


ルシアンは、しばらく立っていた。


「座らぬのか?」


「座ってよいのでしょうか」


「そのために持ってこさせたのじゃが」


「……はい」


座ると、ちょうど王と目の高さが合った。


鉄格子が、二人の間を縦に走っている。


王は膝の上で手を組んだ。


「さて。其方は、何をしたのじゃ?」


ルシアンは少し考えた。


「本を読んでいました」


近衛隊長が口を開く。


「陛下がお尋ねなのは――」


「うむ。それは聞いた」


王は頷いた。


「その前は?」


「食事を」


「その前は?」


「家庭教師の授業を受けていました」


「なるほど」


王は近衛隊長を見た。


「どれが、牢に入れる理由じゃ?」


「いえ、それらの行動ではなく、父親の反逆への関与を調べる必要がございます」


「何を調べておる?」


「書簡や、屋敷への出入りなどを」


「何か出たか?」


「今のところは、まだ」


「そうか」


王は再びルシアンに向き直った。


「では、其方から聞こう。何かあるか?」


ルシアンは、すぐには答えなかった。


父について聞かれると思っていた。


どのような客が来たか。


何を話していたか。


西方へ向かう前に、何を言い残したか。


尋ねられれば、答えられるように考えていた。


しかし、王は待っている。


ルシアンは、膝の上の手を見た。


「……父は、まだ宰相なのでしょうか」


近衛隊長の表情が険しくなった。


王は首を傾げる。


「辞めるとは聞いておらぬな」


「退位を求めたと聞きました」


「うむ」


「それでも、ですか」


「我が辞める話と、あやつが辞める話は別であろう」


ルシアンは顔を上げた。


王は、少し困ったように続けた。


「もっとも、我が辞めた後まで仕事を頼まれても困るがのう。新しい王に頼めばよい」


「陛下」


近衛隊長が低い声を出した。


「仮の話じゃ」


王は片手を振った。


ルシアンは、その手を見つめていた。


◇


「父の筆跡だったのでしょうか」


「そう聞いておる」


「印章も?」


「うむ」


「でしたら、父が書いたのだと思います」


近衛隊長が身を乗り出した。


「何か知っているのか」


「いいえ」


「では、なぜそう言える」


「私は、その書状を見ていませんので」


「ならば――」


「見た方が、そう判断されたのではないのですか」


近衛隊長は口を閉じた。


王が小さく頷いた。


「そうじゃな」


ルシアンは続けた。


「父が書いたことを疑う理由は、私にはありません」


「うむ」


「ただ、何を書いたのかは、見てみたいと思います」


「退位せよ、改革をやめよ、ということじゃ」


「それだけでしょうか」


「細かいことも、いろいろあったのう」


「誰に宛てた書状なのですか」


「我じゃ」


「陛下に、何をしてほしかったのでしょう」


近衛隊長が息を吐いた。


「だから、退位だと申しておる」


「はい」


ルシアンは頷いた。


しかし、王は何も言わなかった。


少年を見ている。


しばらくして、尋ねた。


「父は、普段から分かりにくい手紙を書くのか?」


「分かりません。父から手紙をもらったことはありませんので」


「そうか。我には山ほど書くぞ」


「……存じています」


「読んだことがあるのか?」


「夜も、書いていました」


王は黙った。


ルシアンは、膝の上で指を組み直した。


◇


「父は、私に逃げるようにと言いました」


近衛隊長が王を見た。


王の表情は変わらなかった。


「いつじゃ?」


「西方へ向かう前です」


「どこへ逃げよと?」


「それは、聞いていません」


「誰と?」


「それも」


「ふむ」


王は少し考えた。


「難しい頼みじゃのう」


「はい」


「其方は、行く当てがあるのか?」


「ありません」


「金は?」


「自分では、使ったことがありません」


王は近衛隊長を振り返った。


「十六の子を、一人で旅に出すものなのか?」


「通常は、従者や護衛を伴います」


「そうであろうな」


ルシアンは王を見た。


「父は、逃げられると思っていたのでしょうか」


王はすぐには答えなかった。


「父に聞かねば分からぬな」


「……はい」


「其方は、どう思う?」


ルシアンは視線を落とした。


昨夜から、考えていた。


父は、何かを恐れていた。


それなら、なぜ自分を連れていかなかったのか。


なぜ、家に残したのか。


「父が何をするのか、私は知りませんでした」


「うむ」


「どこへ逃げればよいかも、誰を頼ればよいかも、知りません」


「うむ」


「知らなければ、話せません」


近衛隊長の顔つきが変わった。


ルシアンは続けた。


「私が捕まることまで、考えていたのかもしれません」


王は黙っていた。


「父は、私を逃がしたかったのではなく、何も知らないままにしておきたかったのかもしれません」


口にすると、ひどく不確かな考えだった。


父の言葉は、確かに「逃げろ」だった。


それを、自分に都合のよい意味に変えているだけかもしれない。


ルシアンは、組んだ指に力を込めた。


「……分かりませんが」


「そうじゃな」


王は頷いた。


「それでは、其方が困る」


ルシアンは顔を上げた。


「はい?」


「父が何を考えておったとしても、其方は何も分からぬまま、逃げるか残るか決めねばならぬ」


「……はい」


「難儀なことじゃ」


父の考えが正しいとも、間違っているとも言わなかった。


ただ、困ると言った。


自分が。


ルシアンは、少しの間、返す言葉を見つけられなかった。


◇


「陛下は、父が裏切ったと思われますか」


初めて、王に答えを求めた。


王は椅子に座り直した。


「困っておる」


「……何にでしょう」


「仕事が進まぬ」


ルシアンは、王を見た。


「シルバーのところで止まっておった書類が、まとめて我のところへ来た。ゴルドーがおらぬから、軍の話も進まぬ」


「反逆したことではなく?」


「それも困る」


「では」


「じゃが、要塞が奪われたことと、其方の父が何をしたかは、別々に調べておる」


近衛隊長が静かに姿勢を正した。


「要塞は、待ってはくれぬからな。王都の守りも固めねばならぬ。商人も農民も、二人の返事を待ってはおれぬ」


「父の返事を、お待ちになるのですか」


「聞きたいことがある」


「戻らなければ?」


王は、少しだけ目を細めた。


「それが困ると言うておる」


ルシアンは黙った。


王は、父を信じているとは言わなかった。


裏切り者とも言わなかった。


父が帰る場所を、まだ片づけていない。


ルシアンには、そう聞こえた。


「……父は、戻れるのでしょうか」


王は答えず、少年を見た。


問い方が変わったことに、ルシアン自身も気づいていた。


戻るのか。


戻らないのか。


そういう話ではなかった。


父は、西方へ行った。


自分には、逃げろと言った。


そして今、父自身からの知らせは一つもない。


「そのためにも、何があったか知らねばならぬな」


王の声は、先ほどまでと同じだった。


◇


しばらくして、王が立ち上がった。


「では、今日はこのくらいにしよう」


ルシアンも立つ。


近衛隊長が椅子を引いた。


「その子について、今分かっておることをまとめておくれ」


「承知いたしました」


「父のことと、混ぜぬようにな」


「……はっ」


王は歩き出しかけて、振り返った。


「そうじゃ。本は何がよい?」


ルシアンは少し考えた。


「地図を、お願いできますか」


「本ではなく?」


「はい」


「どこの地図じゃ」


「西方の。街道と、宿場が分かるものを」


近衛隊長が眉をひそめた。


王は尋ねた。


「父の行き先を調べるのか?」


「父が私を逃がすつもりだったのなら、どこへ行かせるつもりだったのか、考えてみたいのです」


「なるほど」


「それと」


「うむ?」


ルシアンは、鉄格子の向こうの王を見た。


「反逆の書状も、読ませていただけますか」


近衛隊長が口を開きかけた。


その前に、王が尋ねた。


「何を見る?」


「父は、仕事の手紙をたくさん書いていました」


「そうじゃな」


「陛下に何かをしていただくために、書いていたのだと思います」


王は黙って聞いていた。


「でしたら、今回も」


ルシアンは言葉を探した。


「退位のほかに、陛下にさせようとしていることがあるのかもしれません」


地下牢の奥で、水の滴る音がした。


王は、しばらくルシアンを見ていた。


やがて、近衛隊長に言った。


「写しを一通、用意しておくれ」


「陛下、よろしいので?」


「我も読んだが、仕事を増やすことしか書いておらなんだ」


王は顔をしかめた。


「ほかの読み方があるなら、聞いてみたいではないか」


◇


足音が遠ざかっていった。


ルシアンは椅子に座った。


向かいの壁には、相変わらず何も書かれていない。


父の言葉を思い返す。


何かあれば、逃げろ。


父は、その「何か」を言わなかった。


書状には、書いてあるだろうか。


あるいは、そこにも書かなかったのだろうか。


廊下の向こうで、王の声がした。


「ところで、あの子をどこへ移す?」


「拘束を解かれるので?」


「調べた結果を見てからじゃ。じゃが、ここでは地図を広げるにも暗かろう」


「取り調べの部屋でしたら」


「窓はあるか?」


「ございます」


「では、まずはそこでよい。本も置いておくれ」


ルシアンは、顔を上げた。


今度は、尋ねられれば話せることがありそうだった。

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