宰相家の愚息
宰相シルバーは、王国で最も忙しい男だった。
少なくとも、三年前までは。
「……またか」
執務室に届いた書類を見て、シルバーは眉間に皺を寄せた。
地方行政官の登用に関する報告書。
その末尾には、見慣れた筆跡があった。
国王の承認である。
「陛下は、また平民を登用なされたのか」
「はい。北部の徴税官に、商人組合出身の者が任命されました」
補佐官が答える。
「従来の慣例では、あの職は地方貴族の推薦によって決められておりましたが……」
「成果は?」
「……は?」
「その者の成果を聞いている」
補佐官は慌てて書類をめくった。
「試験的に任された二つの郡では、徴税に要する日数が三割ほど短縮され、不正な徴収も減少しております」
「ならば、問題あるまい」
「しかし、貴族たちからは不満が……」
「不満で税が集まるなら、いくらでも聞いてやる」
補佐官は口を閉じた。
シルバーは報告書に署名する。
判断に迷いはなかった。
能力のある者を登用する。
成果を上げた者を評価する。
それは、行政を預かる者として当然のことだった。
そして、それこそが。
今の王が進めている改革だった。
◇
シルバー家は、代々アストリア王国の宰相を務めてきた。
王が代わっても、宰相はシルバー家から選ばれる。
その伝統は、幾世代にもわたって続いていた。
王は国の象徴。
宰相は国を動かす者。
先王の時代も、その関係は変わらなかった。
しかし、今の王は違う。
「シルバーよ」
ある日の御前会議。
王は、提出された人事案を眺めながら尋ねた。
「この者は、なぜ候補から外れておる?」
「家格が不足しております」
「家格?」
「はい。慣例上、この官職には一定以上の家柄が求められます」
「ふむ」
王は候補者の経歴を見た。
「しかし、この者が最も仕事ができそうじゃが」
「……そのとおりでございます」
「ならば、この者でよかろう」
「陛下」
シルバーは静かに進言した。
「官職には、実務能力だけでなく、周囲の信頼も必要でございます」
「そうじゃな」
王は頷く。
「では、仕事をさせて信頼を得てもらおう」
「……」
「家柄は仕事をしてくれぬからのう」
王は笑った。
御前会議にいた者たちも、つられて笑う。
シルバーも微笑んだ。
実際、王の判断は正しかった。
その人物は期待以上の成果を上げ、地方行政の改善に貢献した。
だが、シルバーの胸には、小さな棘が残った。
家柄は仕事をしてくれぬ。
それは、確かに正しい。
ならば。
シルバー家という家柄にも、意味はないのだろうか。
◇
「父上」
夕刻。
屋敷へ戻ったシルバーを、一人の少年が迎えた。
ルシアン・シルバー。
十六歳。
シルバー家の嫡男であり、唯一の子である。
「……何をしている」
「本を読んでいました」
「それは見れば分かる」
少年の手には、古びた書物があった。
「今日は家庭教師が来ていたはずだな」
「はい」
「どうだった」
「……普通でした」
シルバーは眉をひそめた。
「普通とは何だ」
「いつもと同じです」
「何を学んだ」
「歴史です」
「何についてだ」
「王朝の交代について」
「ならば、説明してみよ」
ルシアンは少し考えた。
「……何をでしょう」
「授業の内容に決まっている!」
少年は口を閉じた。
シルバーは額を押さえる。
「もうよい。下がれ」
「はい」
ルシアンは頭を下げ、部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、シルバーは深く息を吐いた。
◇
翌日。
家庭教師が、シルバーのもとを訪れた。
「ご子息のことで、ご相談がございます」
「またか」
「……申し訳ございません」
家庭教師は困り果てた顔をしていた。
「知識がないわけではないのです」
「では、何が問題なのだ」
「質問に、まともに答えてくださらないのです」
「具体的には?」
「昨日、先の王朝が滅びた理由を尋ねました」
「それで?」
「ご子息は、『滅びたというのは誰の記録ですか』と……」
シルバーは眉をひそめた。
「意味が分からん」
「私もそう申し上げました。すると、『王が替わっただけなら、そこで暮らす者たちにとっては同じ国ではありませんか』と」
「……」
「さらに、正統な王家が滅びたのだと説明しますと、『正統かどうかは、次の王が決めるのでは』と」
家庭教師は肩を落とした。
「議論になりません。問いに答えず、問いそのものを変えてしまうのです」
シルバーは黙って聞いていた。
「歴史の知識はあるのでしょう。しかし、あれでは宮廷での議論に参加できません」
「……そうか」
「社交の場でも同じです。相手が求める答えを返せない。貴族の子弟として、少々問題が……」
「分かった」
シルバーは話を遮った。
「指導を続けてくれ」
家庭教師が退出すると、シルバーは椅子に深く腰掛けた。
王朝の交代。
正統性。
勝者が書き残す歴史。
どれも、宰相家の嫡男が学ぶべき事柄だった。
しかし、問われたことに答えられないのでは意味がない。
宮廷とは、正しい知識を持つだけで務まる場所ではない。
相手の意図を読み、必要な言葉を選び、時には答えを伏せる。
そうした振る舞いができなければ、どれほど本を読んでも政治家にはなれない。
シルバーは、そう考えていた。
◇
その夜。
屋敷では、小さな晩餐会が開かれていた。
招かれたのは、シルバー家と長く付き合いのある貴族たちである。
ルシアンも同席していた。
「ルシアン殿は、将来どのようなお仕事を?」
客の一人が、穏やかに尋ねた。
少年は答えない。
「もちろん、父君のように宰相を目指されるのでしょうな」
別の客が笑う。
「シルバー家のご嫡男ですからな」
ルシアンは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく答える。
「……分かりません」
場が静まった。
「ははは。まだお若いですからな」
客は笑って取り繕った。
しかし、シルバーの表情は硬かった。
「ルシアン」
「はい」
「皆様に失礼だろう」
「……申し訳ありません」
「将来のことくらい、考えておきなさい」
「はい」
少年は、それ以上何も言わなかった。
晩餐会が終わる頃には、シルバーの機嫌はすっかり悪くなっていた。
◇
深夜。
シルバーは、屋敷の廊下を歩いていた。
壁には、歴代当主の肖像画が並んでいる。
王国を支えた宰相たち。
戦乱を収めた者。
財政を立て直した者。
外交によって領土を守った者。
彼らは皆、シルバー家の名を次代へつないできた。
シルバーは、足を止めた。
自分の代で、この歴史が終わるのだろうか。
いや。
家がなくなるわけではない。
財産も領地も残る。
しかし、宰相家としてのシルバー家は終わるかもしれない。
そして、それは王国にとって、何の問題でもないのかもしれない。
王は、有能な者を登用する。
貴族であろうと平民であろうと関係ない。
ならば、ルシアンが宰相になれないのは当然だ。
それどころか。
自分が宰相であり続ける理由すら、いつか失われる。
「……陛下」
シルバーは、誰もいない廊下で呟いた。
王は間違っていない。
それが、何よりも恐ろしかった。
◇
廊下の奥から、かすかな灯りが漏れていた。
ルシアンの部屋だった。
シルバーは扉を叩く。
「起きているか」
「はい」
部屋に入ると、少年は机に向かっていた。
積み上がった書物。
広げられた地図。
書きかけの紙。
「また本か」
「はい」
「明日も家庭教師が来るのだろう」
「はい」
「ならば、早く寝なさい」
「……はい」
シルバーは机の上に目をやった。
古い戦史。
王朝の系譜。
国境の変遷を記した地図。
そして、擦り切れた革表紙の一冊。
亡き妻が、かつて愛読していた本だった。
シルバーは、その本を手に取った。
「……まだ読んでいるのか」
「はい」
「もう何度も読んだだろう」
「はい」
「ならば、別の本を読めばよい」
ルシアンは少し考えた。
「……同じ本でも、読むたびに違いますので」
「何が違う」
「読む私が、前とは違います」
シルバーは息子を見た。
少年は、いつもと変わらない表情で座っていた。
何を考えているのか、分からない。
シルバーは本を机に戻した。
「……明日は、もう少し家庭教師の質問に答えるように」
「はい」
「お前は、シルバー家の嫡男なのだから」
「……はい」
シルバーは部屋を出た。
扉が閉まる。
ルシアンは、机の上の本を開いた。
◇
執務室へ戻ったシルバーは、一通の書状を取り出した。
西方の諸侯から届いたものだった。
王の改革によって、地方貴族の権限が次々に縮小されている。
長年王国に尽くしてきた家々が、正当な評価を受けていない。
このままでは、アストリアの伝統が失われる。
そのような訴えが、丁寧な文面で記されていた。
シルバーは、書状を机に置いた。
改革は成果を上げている。
民の暮らしは改善している。
王国の財政も安定しつつある。
それは、宰相である自分が誰よりも理解していた。
しかし。
その王国に、シルバー家の居場所はあるのだろうか。
シルバーは、廊下の向こうにある息子の部屋を思い浮かべた。
ルシアンは、父の後を継げないかもしれない。
自分が死ねば、あの子を守る者はいなくなるかもしれない。
そして、王は。
そのことを、少しも問題だと思わないのだろう。
シルバーは書状を折りたたんだ。
まだ返事を書くつもりはなかった。
ただ、引き出しの奥へしまうこともできなかった。
机の上に置かれたままの書状を、長い間見つめていた。
【人物紹介】
ルシアン・シルバー。宰相の嫡男・16歳




