忠誠のための裏切り
その話を聞いたのは、
昼休みだった。
「ねえ、リナ」
隣に座った娘が、
パンをちぎりながら言った。
「エド様って知ってる?」
聞き覚えのある名前だった。
というより。
忘れるはずのない名前だった。
「エド?」
「やっぱり知ってるんだ」
「うん」
「騎士のエド様。最近、結構有名なんだよ」
リナの手が止まった。
「……騎士?」
「え?」
「エド、騎士になったの?」
今度は娘の方が驚いた。
「知らなかったの?」
知らなかった。
エドが帰ったことは聞いていた。
故郷へ。
家族のところへ。
自由になって。
自分の足で。
その時は、よかったと思った。
そして。
少しだけ羨ましかった。
自分には、
帰る家がなかったからだ。
故郷はある。
村もある。
弟もいる。
叔父もいる。
けれど。
父と母がいた家には、
もう帰れない。
帰ったところで、
あの日より前の自分には戻れない。
だから。
エドには帰る場所があったのだと思った。
自分とは違う。
そう思っていた。
「でも」
同僚が言った。
「戻ってきてたんだよ」
「戻ってきた?」
「うん。ここに」
「なんで?」
「私に聞かれても知らないよ」
娘が笑った。
「この国が好きなんじゃない?」
リナは黙った。
好き。
その言葉は、
まだ少し難しかった。
この国へ来たくて来たわけではない。
両親を殺され。
知らない男に連れられ。
何をされるのかも分からないまま、
国境を越えた。
売られるのだと思っていた。
実際。
売られたのだと思っていた。
けれど。
食事が出た。
眠る場所を与えられた。
仕事を教わった。
働けば金をもらえた。
嫌なら別の仕事を選んでいいと言われた。
最初は全部、
逃げないように安心させるための嘘だと思った。
ある日。
同じ部屋にいた女が、
別の街で働きたいと言った。
翌週。
本当にいなくなった。
逃げたのだと思った。
違った。
普通に許可をもらって、
別の街へ行ったのだという。
その時。
初めて。
もしかしたら。
本当に、
ここにいてもいいのかもしれないと思った。
それでも。
この国が好きなのかと聞かれたら。
まだ。
分からない。
「エド様、格好いいよね」
「そう?」
「そうだよ」
「どこが?」
「顔」
即答だった。
リナはエドの顔を思い出した。
「……普通じゃない?」
「嘘でしょ」
「そう?」
「背も高いし。騎士だし。強いらしいし」
「へえ」
娘がじっとリナを見る。
「何?」
「本当に興味ないんだね」
「何に?」
「エド様に」
「知ってるよ?」
「そういう意味じゃなくて」
「?」
娘は諦めたようにパンを食べた。
「結構人気あるんだよ」
「エドが?」
「エド様が」
「なんで様つけるの?」
「騎士様だから」
リナには、
それが少し面白かった。
自分が知っているエドと。
この娘が知っているエドは。
どうも少し違うらしい。
「今度会ったら紹介してよ」
「いいよ」
娘が止まった。
「……いいの?」
「うん」
「本当に?」
「なんで?」
娘は何とも言えない顔をした。
「いいならいいけど」
鐘が鳴った。
二人は立ち上がる。
「でもすごいよね」
「何が?」
「外国から来て、騎士になったんでしょ?」
リナは答えなかった。
その言葉だけが、
少し残った。
仕事へ戻る。
糸を張る。
機を動かす。
布が少しずつ出来ていく。
最初は何度やっても失敗した。
今では、
新しく入った者に自分が教えることもある。
給金も増えた。
自分で買った服もある。
弟へ送る金も、
少しずつ貯めている。
いつからだったのだろう。
生き延びることだけを、
考えなくなったのは。
明日の食事ではなく。
来月。
来年。
その先を。
少しだけ考えるようになったのは。
エドは。
もっと先へ行ったらしい。
帰る場所があった。
一度は帰った。
それでも。
自分でここへ戻ってきた。
そして。
騎士になった。
元奴隷が。
外国で生まれた男が。
この国の騎士に。
「リナ」
「何?」
向かいの娘が言った。
「また笑ってる」
「そう?」
「今日変だよ」
リナは頬に触れた。
別に。
自分に何かいいことがあったわけではない。
なのに。
少しだけ嬉しかった。
エドが戻ってきたことが。
エドが騎士になったことが。
帰る場所があるのに。
この国へ戻ってきたことが。
この国は。
もしかしたら。
いい国なのかもしれない。
いや。
そうだったらいい。
そう思いたかった。
まだ、
信じ切ることはできない。
けれど。
エドはここへ戻ってきた。
ここで生きてもいいと。
自分の先には、
まだ何かあると。
そう思ったのかもしれない。
自分もいつか。
そんなふうに。
自分の先を信じられたらいい。
リナはもう一度、
機を動かした。
◇
その頃。
王宮では。
財務卿が笑っていた。
「気持ち悪いのう」
王が言った。
「何ですか!」
「さっきからずっと笑っておる」
「笑いますよ!」
財務卿は分厚い帳簿を机へ置いた。
「見てください!」
「嫌じゃ」
「見てください!」
「数字ばかりではないか」
「帳簿ですから!」
王は仕方なく覗いた。
「どこを見るのじゃ」
「ここです」
「どこじゃ」
「ここ!」
財務卿が指を置く。
「税収」
「うむ」
「増えています」
「そうか」
「そうか!?」
財務卿が顔を上げた。
「陛下! 増えているんですよ!」
「聞いた」
「もっと喜んでください!」
「其方が二人分くらい喜んでおるからよかろう」
財務卿は無視した。
「人口増加。就業者も増加。商取引も増加。新規事業者も増加」
「うむ」
「税収増加!」
王が財務卿を見る。
「最後だけ声が大きくないか?」
「重要です!」
「現金なやつだのう」
「何がですか!」
「人が増え始めた時は、住居が足りぬ、食料が足りぬ、仕事が足りぬ、治安が悪くなる、金がかかる」
王が指を折る。
「全部其方が言った」
「当然でしょう!」
「今は?」
「税収が増えています!」
王は少し身を引いた。
「悪人みたいじゃ」
「財務卿です!」
「似たようなものでは?」
「違います!」
財務卿は咳払いした。
「それと。出生数も増加傾向です」
王が紙を見る。
「赤子からも税を取るのか?」
「取りません!」
「ならなぜ嬉しい」
「将来の納税者です」
王が固まった。
財務卿も固まった。
「……今のは」
「悪人じゃ」
「違います!」
「完全に悪人じゃ」
「労働人口の話です!」
「赤子を見て税を思い浮かべた」
「言い方!」
王は笑った。
財務卿は顔を赤くした。
「この増収があるから、陛下の好き勝手にも金を出せているんですよ!」
「好き勝手とは何じゃ」
「商人への投資です。鍛冶屋、鋳物師、木工職人、火薬職人、加工工房。それにレオン」
「必要じゃろ」
「何を作っているのか、財務まで細かく知らされていませんが」
「いろいろじゃ」
「その『いろいろ』に、いくら出していると思っているのです」
「知らぬ」
「知ってください!」
王は笑った。
「其方、反対しておったではないか」
「しますよ。金になるか分からなかったんですから」
「今は?」
財務卿は帳簿を見る。
「……予算を増やしてもよいかと」
王が指を差した。
「ほれ。現金」
「成果が出ているのですから当然でしょう!」
「そういうのを現金というのじゃ」
「財務とはそういうものです!」
外から、
小さな笑い声がした。
扉が開く。
外務卿だった。
「楽しそうですね」
「助けてくれ」
財務卿が言った。
「陛下が財務という仕事を理解しません」
「財務卿が赤子から税を取ろうとしておる」
「取ろうとしていません!」
外務卿が少し考える。
「それは悪人ですね」
「外務卿!」
王が笑った。
しばらく。
部屋には笑い声があった。
国は。
少なくとも数字の上では。
少しずつ豊かになっていた。
人が増えた。
働く者が増えた。
店が増えた。
物が動いた。
金が動いた。
子供も増え始めた。
問題がなくなったわけではない。
それでも。
以前より。
明日の話をする者が増えていた。
「ところで」
外務卿が持っていた書類を机へ置いた。
「少し気になる報告があります」
財務卿が帳簿から顔を上げた。
「何だ」
「西国です」
王の笑顔が少し消えた。
「また揉めたか?」
「まだ揉めてはいません」
地図が広げられた。
「兵糧の集積が増えています」
外務卿が一点を指す。
「こちらでは馬の徴発。国境付近の部隊交代。街道の補修」
財務卿が眉を寄せた。
「戦争か?」
「断定はできません」
「だが?」
「戦をする国が、その前にやることとよく似ています」
部屋の空気が、
少しだけ変わった。
王が聞く。
「こちらへ来るのか?」
「分かりません。他国かもしれません。演習の可能性もあります」
財務卿がため息をつく。
「せっかく税収が増えたというのに」
王が見る。
「やはりそこなのか?」
「戦争は金がかかるのです!」
「民より?」
「民を守るのにも金がいるのです!」
王が少し考える。
「それはそうじゃな」
「でしょう!」
「嬉しそうじゃのう」
外務卿が苦笑する。
王は地図を見る。
「西の守りは?」
「現状では問題ありません」
「要害は?」
「健在です」
「兵は?」
「十分です」
「西部軍は?」
「異常なし」
財務卿が書類を確認する。
「軍務卿も視察で西部に入っているはずです」
「そうか」
王が頷く。
「念のため、国境監視を増やします」
外務卿が言った。
「西部軍にも警戒を」
「頼む」
「王都軍は?」
王は少し考えた。
「まだよかろう」
「私も同意見です。こちらが大軍を動かせば、西国への刺激になります」
「では様子を見るか」
「はい」
話は。
それで終わるはずだった。
外務卿が地図を畳む。
財務卿はまた帳簿へ手を伸ばした。
「では陛下。先ほどの予算の件ですが」
「まだやるのか?」
「当然です」
「帰ってよいぞ」
「私の部屋です!」
「そうじゃった」
その時だった。
廊下を走る音がした。
衛兵の声。
何かを制止する声。
扉が開いた。
騎士だった。
泥にまみれていた。
片方の肩当てがない。
頬に血がついている。
剣も持っていない。
部屋へ入るなり、
膝をついた。
「陛下」
王が騎士を見る。
「どうした」
騎士が息を吸う。
一度では足りなかった。
もう一度。
「西の要害が」
声が掠れた。
「陥落しました」
外務卿が立ち上がった。
「西国軍か!」
「違います」
「では誰だ」
騎士は、
すぐには答えなかった。
財務卿も立ち上がる。
「誰に落とされた」
騎士の手が震えていた。
「我が軍です」
意味を理解するまで。
少し時間がかかった。
「……何?」
「守備隊の一部が呼応。城門を制圧しました」
「誰が指揮した」
騎士は俯いた。
「誰だ」
返事がない。
「申せ!」
騎士は懐から、
一通の書状を出した。
「城塞より。これを」
王が受け取った。
封を切る。
読む。
誰も喋らない。
現王に退位を求める。
一連の改革の停止を求める。
そして。
王への忠誠よりも。
アストリア王国への忠誠を選ぶ。
財務卿が呟いた。
「……叛逆」
王は黙ったまま、
最後まで読む。
一番下。
二つの署名。
王国宰相。
シルバー。
王国軍務卿。
ゴルドー。
その日。
二人は初めて。
自らの名で。
アストリアの歴史に立った。




