王か、国か
きっかけは、一枚の布告だった。
内容は短い。
国家の官職について、
出生による制限を、さらに撤廃する。
ただし。
必要な能力。
必要な教育。
必要な実務経験。
必要な試験。
それらは従来以上に厳格にする。
貴族だから就ける職を減らす。
平民だから就けない職を減らす。
それだけだった。
だが。
その布告を読んだ宰相は、
しばらく動かなかった。
◇
「ここまでです」
王宮。
宰相が言った。
王が顔を上げる。
「何がじゃ?」
「この改革です」
机の前には宰相。
その隣に軍務卿。
二人だけだった。
王は書類を置いた。
「何か問題があったか?」
「あります」
「どこじゃ?」
宰相が布告を机へ置く。
「高位官職にまで出生制限を撤廃するおつもりですか」
「全部ではないぞ」
「分かっています」
「なら」
「そういう話ではありません」
王が黙った。
宰相は続ける。
「地方官吏への登用」
「うむ」
「下級官職への試験制導入」
「うむ」
「軍における能力登用」
「うむ」
「それらについて、私は反対しながらも受け入れてきました」
王が軍務卿を見る。
「其方も?」
「私はエドを騎士にしました」
「そうじゃったな」
軍務卿の眉がわずかに動いた。
「ですが」
宰相が言う。
「高位官職は違います」
「なぜ?」
「国家そのものを動かすからです」
「下の者は動かしておらぬのか?」
「そういう意味ではありません」
「難しいのう」
「陛下」
宰相の声が低くなる。
「これは仕事の話ではないのです」
王が首を傾げた。
「仕事であろう?」
「違います」
初めて。
宰相は王の言葉を、はっきり否定した。
「国の形の話です」
◇
軍務卿は黙っていた。
宰相が続ける。
「貴族が優秀だから国を任せるのではありません」
「そうなのか?」
「優秀であるよう育てるのです」
「うむ」
「幼い頃から、自分の人生が自分だけのものではないと教える」
王は聞いている。
「領地がある」
「うむ」
「家名がある」
「うむ」
「先祖がいる」
「うむ」
「そして子がいる」
宰相は自分の胸へ手を置いた。
「自分が失敗すれば、家名を汚す。領民を苦しめる。子へ負債を残す」
王は何も言わない。
「だから、我々は逃げられない」
その言葉だけ。
少し強かった。
「それが貴族です」
王が聞く。
「平民は逃げるのか?」
「そうは申しておりません!」
宰相の声が響いた。
静かになる。
「……申し訳ありません」
「別によい」
宰相は息を整える。
「責任を継承する仕組みなのです」
「前にも聞いたのう」
「ならばなぜ!」
また声が大きくなる。
今度は謝らなかった。
「なぜ、その仕組みを壊されるのです」
王が少し考える。
「壊しておらぬぞ?」
宰相が止まる。
「其方は宰相であろう?」
「はい」
「領地もある」
「はい」
「家名もある」
「はい」
「息子も継げる」
「はい」
「なら何がなくなった?」
宰相は答えられなかった。
王が布告を見る。
「平民が宰相になれるようになるだけではないのか?」
「それが!」
宰相は机へ手をついた。
「それが変わったのです!」
◇
長い沈黙。
軍務卿が初めて口を開いた。
「陛下」
「なんじゃ?」
「私は、エドを騎士と認めています」
「うむ」
「誰に何を言われようと、あれは騎士です」
「うむ」
「ですが」
軍務卿は王を見る。
「すべての兵士を騎士にしたいとは思いません」
「我も思っておらぬぞ?」
「では、何が騎士と兵士を分けるのです」
「試験?」
「違います」
即答だった。
「教育?」
「それだけでもありません」
「では何じゃ?」
軍務卿が止まる。
すぐに言葉が出なかった。
「……覚悟です」
ようやく答えた。
「何の?」
「背負う覚悟です」
「何を?」
「国を」
王は少し考えた。
「重そうじゃのう」
軍務卿の顔が歪んだ。
「陛下」
「なんじゃ?」
「ふざけておられますか」
王が驚く。
「いや?」
それが。
軍務卿には一番腹立たしかった。
◇
「陛下は」
宰相が言った。
「アストリアを愛しておられますか」
王が止まった。
軍務卿も王を見る。
しばらく。
返事がなかった。
王は本当に考えているようだった。
「さあのう」
宰相の目が僅かに揺れた。
「……分からないのですか」
「国を愛するとは、どういうことじゃ?」
「陛下」
「其方は愛しておるのか?」
「当然です」
「軍務卿は?」
「無論です」
王は頷いた。
「そうか」
それだけ。
宰相は拳を握った。
「では」
声が震えた。
怒りなのか。
別のものなのか。
本人にも分からなかった。
「この国のために、死ねますか」
王は即答した。
「嫌じゃ」
軍務卿が王を睨んだ。
宰相は目を閉じた。
王は二人を見る。
「お主らも死ぬなよ」
返事はなかった。
◇
二人は王の部屋を出た。
長い廊下。
誰も話さない。
途中。
若い役人とすれ違った。
一礼する。
見覚えがある。
官吏試験で登用された平民だった。
「ご苦労」
宰相が言う。
「ありがとうございます」
役人は去っていった。
仕事はできる。
問題も起こしていない。
むしろ優秀だった。
その先。
中庭では騎士たちが訓練している。
エドがいた。
若い兵に剣を教えている。
「脇!」
「はい!」
「空いてる!」
「はい!」
軍務卿が足を止めた。
エドが気づく。
「軍務卿!」
「続けろ」
「はい!」
エドはまた兵へ向き直る。
「ほら、死んだ!」
「まだ生きてます!」
「今のは死んでる!」
「理不尽です!」
笑い声。
軍務卿は歩き出した。
宰相もついていく。
「間違っていたか?」
宰相が聞いた。
「何が」
「エドだ」
軍務卿はすぐに答えた。
「違う」
「そうか」
「私は間違っていない」
それだけだった。
◇
夜。
二人は酒を飲んでいた。
以前と同じ部屋。
以前と同じ席。
だが。
話は違った。
「陛下は国を愛していると思うか」
軍務卿が聞いた。
宰相は答えない。
「私は」
しばらくして言った。
「分からなくなった」
「俺もだ」
軍務卿は杯を見る。
「民を見ている」
「うむ」
「よく見ている」
「うむ」
「兵が死ぬのも嫌がる」
「そうだな」
「飢える者も放っておかない」
「そうだ」
「ならなぜ」
軍務卿は顔を上げる。
「国を愛していると言えない」
宰相は少し考えた。
「陛下にとって」
言葉を探す。
「国とは、何なのだろうな」
軍務卿は答えない。
窓の外。
王都の灯り。
以前より増えた。
外国から来た者も住んでいる。
元罪人も働いている。
平民も王宮へ入る。
元奴隷も騎士になった。
「全部」
以前。
王はそう言った。
窓の外を指して。
全部。
それが何を意味していたのか。
二人には分からなかった。
◇
数日後。
王はさらに一つの命令を出した。
高位官職についても、
出生だけを理由とした任用制限を、
段階的に撤廃する。
ただし。
宰相。
軍務卿。
財務卿。
内務卿。
その他、国家中枢に関わる職については、
直ちに全面開放しない。
教育制度。
試験制度。
実務経験。
監督。
それらを整えた後、
順次検討する。
急進的ではなかった。
むしろ慎重だった。
だからこそ。
宰相には分かった。
これは思いつきでは終わらない。
一つずつ。
準備して。
進めるつもりだ。
止まる気がない。
◇
その夜。
宰相の屋敷。
机の上には一枚の古い地図があった。
アストリア西部。
国境。
山脈。
街道。
そして。
西の要害。
王都へ通じる主要街道を押さえる城塞。
古くから、
アストリアの盾と呼ばれてきた場所。
宰相は地図を見ていた。
扉が開く。
軍務卿が入ってきた。
「呼んだか」
「ああ」
軍務卿が地図を見る。
何も言わない。
「西の守備状況は」
宰相が聞く。
軍務卿の表情が変わった。
「何を考えている」
「確認だ」
「何の」
宰相は答えなかった。
軍務卿が地図から目を離す。
「宰相」
「なんだ」
「俺は陛下に不満がある」
「知っている」
「だが」
低い声だった。
「剣を向けるつもりはない」
宰相が軍務卿を見る。
「私もない」
「では何だ」
宰相は地図を指でなぞる。
「聞きたいのだ」
「何を」
「王と国が」
指が止まる。
「違うものになった時」
軍務卿は黙った。
「我々は、どちらに仕えるべきなのか」
答えはなかった。
◇
数日後。
軍務卿はエドを呼んだ。
訓練場。
夕方。
二人だけだった。
「エド」
「はい」
「お前は、なぜアストリアに戻ってきた」
エドは笑った。
「またですか?」
「答えろ」
「仕事があるからです」
「それだけか」
エドは少し考えた。
「最初は」
「今は?」
「分かりません」
軍務卿は黙る。
エドが聞く。
「なんでです?」
「聞きたかっただけだ」
「変なの」
「お前に言われたくない」
エドは笑った。
軍務卿は笑わなかった。
「エド」
「はい」
「もし」
言葉が止まる。
「王と国のどちらかを選ばねばならなくなったら、どうする」
エドは眉を寄せた。
「なんで別なんです?」
軍務卿は答えられなかった。
エドは少し考える。
「難しいですね」
「ああ」
「軍務卿は?」
聞き返された。
軍務卿は遠くを見る。
夕暮れの王都。
城壁。
家々。
煙。
歩く人。
「だから」
静かに言った。
「困っている」
◇
その夜。
王は一人で夕食を食べていた。
宰相はいない。
軍務卿もいない。
財務卿が書類を持ってきた。
「珍しいですね」
「何がじゃ?」
「お二人ともいらっしゃらないのが」
王は肉を食べる。
「忙しいのであろう」
「何かあったのでは?」
「何が?」
財務卿は王を見る。
王は普通だった。
いつも通り。
何も知らないのか。
知っているのか。
分からない。
「陛下」
「なんじゃ?」
「もし、あの二人が陛下に逆らったらどうなさいます?」
王は肉を噛みながら考えた。
「いつも逆らっておるではないか」
「そういう意味ではありません」
「ではどういう意味じゃ?」
財務卿は答えなかった。
王も追及しなかった。
「まあ」
王は次の肉を取った。
「好きにすればよい」
「……よろしいのですか」
「嫌なものを無理にやらせても仕方なかろう」
財務卿は眉を寄せた。
「それで国が割れたら?」
王の手が止まった。
ほんの少し。
「割れるのか?」
「仮定です」
王は考えた。
そして。
「困るのう」
それだけだった。
◇
翌朝。
軍務卿は王都を出た。
名目は、
西部軍の視察。
毎年行われる、
ごく普通の軍務だった。
同行する騎士も、
いつもより少し多いだけだった。
数日後。
宰相も王都を離れた。
名目は、
西部諸侯との行政調整。
こちらも、
不自然ではなかった。
王都の門は、
何の問題もなく二人を通した。
誰も止めなかった。
王命もなかった。
兵も動かなかった。
ただ。
西へ向かう二つの馬車を、
城壁の上から財務卿だけが見ていた。
そして。
そのさらに上。
王の部屋の窓は、
閉じたままだった。




