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愚王と呼ばれておりますが、だいたい予定通りです  作者: 綾城式部
第三章 境界を知らぬ愚王

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王か、国か

きっかけは、一枚の布告だった。


内容は短い。


国家の官職について、


出生による制限を、さらに撤廃する。


ただし。


必要な能力。


必要な教育。


必要な実務経験。


必要な試験。


それらは従来以上に厳格にする。


貴族だから就ける職を減らす。


平民だから就けない職を減らす。


それだけだった。


だが。


その布告を読んだ宰相は、


しばらく動かなかった。


◇


「ここまでです」


王宮。


宰相が言った。


王が顔を上げる。


「何がじゃ?」


「この改革です」


机の前には宰相。


その隣に軍務卿。


二人だけだった。


王は書類を置いた。


「何か問題があったか?」


「あります」


「どこじゃ?」


宰相が布告を机へ置く。


「高位官職にまで出生制限を撤廃するおつもりですか」


「全部ではないぞ」


「分かっています」


「なら」


「そういう話ではありません」


王が黙った。


宰相は続ける。


「地方官吏への登用」


「うむ」


「下級官職への試験制導入」


「うむ」


「軍における能力登用」


「うむ」


「それらについて、私は反対しながらも受け入れてきました」


王が軍務卿を見る。


「其方も?」


「私はエドを騎士にしました」


「そうじゃったな」


軍務卿の眉がわずかに動いた。


「ですが」


宰相が言う。


「高位官職は違います」


「なぜ?」


「国家そのものを動かすからです」


「下の者は動かしておらぬのか?」


「そういう意味ではありません」


「難しいのう」


「陛下」


宰相の声が低くなる。


「これは仕事の話ではないのです」


王が首を傾げた。


「仕事であろう?」


「違います」


初めて。


宰相は王の言葉を、はっきり否定した。


「国の形の話です」


◇


軍務卿は黙っていた。


宰相が続ける。


「貴族が優秀だから国を任せるのではありません」


「そうなのか?」


「優秀であるよう育てるのです」


「うむ」


「幼い頃から、自分の人生が自分だけのものではないと教える」


王は聞いている。


「領地がある」


「うむ」


「家名がある」


「うむ」


「先祖がいる」


「うむ」


「そして子がいる」


宰相は自分の胸へ手を置いた。


「自分が失敗すれば、家名を汚す。領民を苦しめる。子へ負債を残す」


王は何も言わない。


「だから、我々は逃げられない」


その言葉だけ。


少し強かった。


「それが貴族です」


王が聞く。


「平民は逃げるのか?」


「そうは申しておりません!」


宰相の声が響いた。


静かになる。


「……申し訳ありません」


「別によい」


宰相は息を整える。


「責任を継承する仕組みなのです」


「前にも聞いたのう」


「ならばなぜ!」


また声が大きくなる。


今度は謝らなかった。


「なぜ、その仕組みを壊されるのです」


王が少し考える。


「壊しておらぬぞ?」


宰相が止まる。


「其方は宰相であろう?」


「はい」


「領地もある」


「はい」


「家名もある」


「はい」


「息子も継げる」


「はい」


「なら何がなくなった?」


宰相は答えられなかった。


王が布告を見る。


「平民が宰相になれるようになるだけではないのか?」


「それが!」


宰相は机へ手をついた。


「それが変わったのです!」


◇


長い沈黙。


軍務卿が初めて口を開いた。


「陛下」


「なんじゃ?」


「私は、エドを騎士と認めています」


「うむ」


「誰に何を言われようと、あれは騎士です」


「うむ」


「ですが」


軍務卿は王を見る。


「すべての兵士を騎士にしたいとは思いません」


「我も思っておらぬぞ?」


「では、何が騎士と兵士を分けるのです」


「試験?」


「違います」


即答だった。


「教育?」


「それだけでもありません」


「では何じゃ?」


軍務卿が止まる。


すぐに言葉が出なかった。


「……覚悟です」


ようやく答えた。


「何の?」


「背負う覚悟です」


「何を?」


「国を」


王は少し考えた。


「重そうじゃのう」


軍務卿の顔が歪んだ。


「陛下」


「なんじゃ?」


「ふざけておられますか」


王が驚く。


「いや?」


それが。


軍務卿には一番腹立たしかった。


◇


「陛下は」


宰相が言った。


「アストリアを愛しておられますか」


王が止まった。


軍務卿も王を見る。


しばらく。


返事がなかった。


王は本当に考えているようだった。


「さあのう」


宰相の目が僅かに揺れた。


「……分からないのですか」


「国を愛するとは、どういうことじゃ?」


「陛下」


「其方は愛しておるのか?」


「当然です」


「軍務卿は?」


「無論です」


王は頷いた。


「そうか」


それだけ。


宰相は拳を握った。


「では」


声が震えた。


怒りなのか。


別のものなのか。


本人にも分からなかった。


「この国のために、死ねますか」


王は即答した。


「嫌じゃ」


軍務卿が王を睨んだ。


宰相は目を閉じた。


王は二人を見る。


「お主らも死ぬなよ」


返事はなかった。


◇


二人は王の部屋を出た。


長い廊下。


誰も話さない。


途中。


若い役人とすれ違った。


一礼する。


見覚えがある。


官吏試験で登用された平民だった。


「ご苦労」


宰相が言う。


「ありがとうございます」


役人は去っていった。


仕事はできる。


問題も起こしていない。


むしろ優秀だった。


その先。


中庭では騎士たちが訓練している。


エドがいた。


若い兵に剣を教えている。


「脇!」


「はい!」


「空いてる!」


「はい!」


軍務卿が足を止めた。


エドが気づく。


「軍務卿!」


「続けろ」


「はい!」


エドはまた兵へ向き直る。


「ほら、死んだ!」


「まだ生きてます!」


「今のは死んでる!」


「理不尽です!」


笑い声。


軍務卿は歩き出した。


宰相もついていく。


「間違っていたか?」


宰相が聞いた。


「何が」


「エドだ」


軍務卿はすぐに答えた。


「違う」


「そうか」


「私は間違っていない」


それだけだった。


◇


夜。


二人は酒を飲んでいた。


以前と同じ部屋。


以前と同じ席。


だが。


話は違った。


「陛下は国を愛していると思うか」


軍務卿が聞いた。


宰相は答えない。


「私は」


しばらくして言った。


「分からなくなった」


「俺もだ」


軍務卿は杯を見る。


「民を見ている」


「うむ」


「よく見ている」


「うむ」


「兵が死ぬのも嫌がる」


「そうだな」


「飢える者も放っておかない」


「そうだ」


「ならなぜ」


軍務卿は顔を上げる。


「国を愛していると言えない」


宰相は少し考えた。


「陛下にとって」


言葉を探す。


「国とは、何なのだろうな」


軍務卿は答えない。


窓の外。


王都の灯り。


以前より増えた。


外国から来た者も住んでいる。


元罪人も働いている。


平民も王宮へ入る。


元奴隷も騎士になった。


「全部」


以前。


王はそう言った。


窓の外を指して。


全部。


それが何を意味していたのか。


二人には分からなかった。


◇


数日後。


王はさらに一つの命令を出した。


高位官職についても、


出生だけを理由とした任用制限を、


段階的に撤廃する。


ただし。


宰相。


軍務卿。


財務卿。


内務卿。


その他、国家中枢に関わる職については、


直ちに全面開放しない。


教育制度。


試験制度。


実務経験。


監督。


それらを整えた後、


順次検討する。


急進的ではなかった。


むしろ慎重だった。


だからこそ。


宰相には分かった。


これは思いつきでは終わらない。


一つずつ。


準備して。


進めるつもりだ。


止まる気がない。


◇


その夜。


宰相の屋敷。


机の上には一枚の古い地図があった。


アストリア西部。


国境。


山脈。


街道。


そして。


西の要害。


王都へ通じる主要街道を押さえる城塞。


古くから、


アストリアの盾と呼ばれてきた場所。


宰相は地図を見ていた。


扉が開く。


軍務卿が入ってきた。


「呼んだか」


「ああ」


軍務卿が地図を見る。


何も言わない。


「西の守備状況は」


宰相が聞く。


軍務卿の表情が変わった。


「何を考えている」


「確認だ」


「何の」


宰相は答えなかった。


軍務卿が地図から目を離す。


「宰相」


「なんだ」


「俺は陛下に不満がある」


「知っている」


「だが」


低い声だった。


「剣を向けるつもりはない」


宰相が軍務卿を見る。


「私もない」


「では何だ」


宰相は地図を指でなぞる。


「聞きたいのだ」


「何を」


「王と国が」


指が止まる。


「違うものになった時」


軍務卿は黙った。


「我々は、どちらに仕えるべきなのか」


答えはなかった。


◇


数日後。


軍務卿はエドを呼んだ。


訓練場。


夕方。


二人だけだった。


「エド」


「はい」


「お前は、なぜアストリアに戻ってきた」


エドは笑った。


「またですか?」


「答えろ」


「仕事があるからです」


「それだけか」


エドは少し考えた。


「最初は」


「今は?」


「分かりません」


軍務卿は黙る。


エドが聞く。


「なんでです?」


「聞きたかっただけだ」


「変なの」


「お前に言われたくない」


エドは笑った。


軍務卿は笑わなかった。


「エド」


「はい」


「もし」


言葉が止まる。


「王と国のどちらかを選ばねばならなくなったら、どうする」


エドは眉を寄せた。


「なんで別なんです?」


軍務卿は答えられなかった。


エドは少し考える。


「難しいですね」


「ああ」


「軍務卿は?」


聞き返された。


軍務卿は遠くを見る。


夕暮れの王都。


城壁。


家々。


煙。


歩く人。


「だから」


静かに言った。


「困っている」


◇


その夜。


王は一人で夕食を食べていた。


宰相はいない。


軍務卿もいない。


財務卿が書類を持ってきた。


「珍しいですね」


「何がじゃ?」


「お二人ともいらっしゃらないのが」


王は肉を食べる。


「忙しいのであろう」


「何かあったのでは?」


「何が?」


財務卿は王を見る。


王は普通だった。


いつも通り。


何も知らないのか。


知っているのか。


分からない。


「陛下」


「なんじゃ?」


「もし、あの二人が陛下に逆らったらどうなさいます?」


王は肉を噛みながら考えた。


「いつも逆らっておるではないか」


「そういう意味ではありません」


「ではどういう意味じゃ?」


財務卿は答えなかった。


王も追及しなかった。


「まあ」


王は次の肉を取った。


「好きにすればよい」


「……よろしいのですか」


「嫌なものを無理にやらせても仕方なかろう」


財務卿は眉を寄せた。


「それで国が割れたら?」


王の手が止まった。


ほんの少し。


「割れるのか?」


「仮定です」


王は考えた。


そして。


「困るのう」


それだけだった。


◇


翌朝。


軍務卿は王都を出た。


名目は、


西部軍の視察。


毎年行われる、


ごく普通の軍務だった。


同行する騎士も、


いつもより少し多いだけだった。


数日後。


宰相も王都を離れた。


名目は、


西部諸侯との行政調整。


こちらも、


不自然ではなかった。


王都の門は、


何の問題もなく二人を通した。


誰も止めなかった。


王命もなかった。


兵も動かなかった。


ただ。


西へ向かう二つの馬車を、


城壁の上から財務卿だけが見ていた。


そして。


そのさらに上。


王の部屋の窓は、


閉じたままだった。

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