買う国
城壁が見えた。
リナがそれを見つけたのは、馬車に乗せられてから四日目の昼だった。
「あれが国境だ」
御者台の男が言った。
高い石壁。
その中央に巨大な門が開いている。
門の前には何台もの馬車が並んでいた。
荷物を積んだ馬車。
家畜を積んだ馬車。
商人らしい男たち。
旅人。
そして、人を積んだ馬車。
リナは顔を上げた。
自分と同じだった。
荷台に何人もの人間が座っている。
若い男。
女。
子供。
老人までいる。
「……みんな、売られるの?」
「そうだ」
男は楽しそうだった。
「最近はすげえぞ。前なんて一人売るのに買い手を探して何日もかかった。それが今じゃ、ここまで連れてくりゃ国が買ってくれる」
リナは答えなかった。
「しかも現金払いだ」
男は笑う。
「いい王様だよ」
リナは遠くの城壁を見た。
いい王様。
その言葉が、ひどく気持ち悪かった。
◇
「次!」
門の前で役人が叫んだ。
男の馬車が進む。
「何人だ」
「一人」
「年齢」
「十三」
「性別」
「見りゃ分かるだろ」
「答えろ」
「女」
役人が紙に何かを書いた。
「健康状態は?」
「健康だ」
「持病」
「ない」
「技能」
「知らん」
「読み書き」
「たぶんできねえ」
「計算」
「知らんって」
役人が顔を上げた。
「お前は何を知っている」
「若くて健康だってことだ」
「それだけか」
「十分だろ?」
男は笑った。
役人は笑わなかった。
「降ろせ」
「ここでいいのか?」
「ああ」
男が荷台を叩いた。
「ほら」
リナは動けなかった。
「降りろ」
足が震える。
「早くしろ」
リナが馬車から降りる。
地面に足がついた。
四日ぶりに、自分の意思で立った気がした。
だが、どこへ行けばいいのか分からない。
「こっちだ」
女の役人がリナの肩に手を置いた。
リナはびくりと身体を縮めた。
女はすぐに手を離した。
「触られるのは嫌か?」
リナは小さく頷いた。
「分かった。では、ついてきて」
リナは女の後を歩いた。
「おい」
人買いの男が声を上げた。
「金は?」
「査定後だ」
「ちゃんと払えよ」
「規定通り支払う」
「若いんだから高いだろ?」
リナは振り返った。
男は笑っていた。
◇
連れていかれたのは、小さな部屋だった。
机。
椅子が二つ。
窓。
それだけだった。
「座って」
リナは椅子に座った。
女の役人が向かいに座る。
「名前は?」
「……リナ」
「姓は?」
「ありません」
「年齢は?」
「十三」
「出身は?」
リナが村の名前を答える。
女は紙に書いていく。
「父親の名前」
リナは答えた。
「母親は?」
答える。
「兄弟は?」
「弟がいます」
女の筆が止まった。
「弟は今どこに?」
「叔父さんのところです」
「そう」
また書く。
「では、ここから少し大事なことを聞く」
女が紙を一枚めくった。
「あなたは、自分の意思でここへ来た?」
リナは顔を上げた。
「……違います」
「誰かに連れてこられた?」
「はい」
「外にいる男?」
「はい」
「あなたの両親は、あなたをあの男に売った?」
「違います!」
初めて大きな声が出た。
「お父さんは断った!」
女は驚かなかった。
「分かった」
「売ってない」
「うん」
「お父さんは、私を売らないって」
「分かったから」
優しい声だった。
「続きを聞いてもいい?」
リナは唇を噛んだ。
頷く。
「あの男は、どうやってあなたを連れてきたの?」
リナは答えられなかった。
あの夜が戻ってくる。
暗い部屋。
床。
父。
白い寝間着。
口を塞ぐ手。
「ゆっくりでいい」
女は待った。
「……夜」
「うん」
「起きたら」
「うん」
「お父さんが、倒れてて」
声が震える。
「お母さんも」
女は何も言わない。
「あの人がいた」
「外の男?」
頷く。
「その男が、ご両親に何をしたか見た?」
リナはしばらく黙っていた。
やがて。
「見ました」
女の目がわずかに変わった。
「何を?」
リナの指が震える。
「あの人が」
息を吸う。
「あの人が、お父さんを殺しました」
女の筆が止まった。
「お母さんも」
沈黙。
「殺しました」
女はリナを見た。
「間違いない?」
「はい」
「あなた自身が見た?」
「はい」
「分かった」
それだけだった。
女は紙に何かを書いた。
リナは顔を上げる。
「……捕まえる?」
女は答えなかった。
「ねえ」
「私は、あなたの話を記録する役目です」
「じゃあ誰が捕まえるの?」
「それは私が決めることではない」
「でも、人を殺したんだよ?」
「うん」
「お父さんとお母さんを」
「うん」
「だったら!」
扉が開いた。
別の役人が入ってきた。
女に小さな紙を渡す。
女はそれを読む。
「リナ」
「……何?」
「あなたを別の施設へ移す」
「どこ?」
「今夜眠る場所。食事も出る」
「牢屋?」
「違う」
「じゃあ私はどうなるの?」
「それをこれから決める」
女は立ち上がった。
「私は奴隷になるの?」
女が止まる。
リナを見る。
「誰から聞いたの?」
「あの人」
「そう」
女は少し考えた。
「少なくとも」
言葉を選ぶ。
「あなたを買った者は、あなたの所有者ではない」
「……?」
「行こう」
意味が分からなかった。
◇
建物を出たところで、リナは男を見つけた。
まだいた。
役人と話している。
机の上に金貨が並べられていた。
一枚ずつ数えられている。
「若年者一名。健康状態良好」
役人が言った。
「基準額に年齢加算を含める」
「おお」
男が笑う。
「いくらだ?」
金額を聞いた男の顔がさらに緩んだ。
「こりゃいい」
リナは立ち止まった。
金貨。
昨日、家の机に置かれていたものと同じだった。
父が拒絶した金。
母の薬が買えると言われた金。
その金を。
今度は王国が男へ払っている。
「どうしたの?」
女の役人が尋ねる。
リナは答えなかった。
男が金貨を革袋へ入れる。
じゃらり。
音がした。
リナの中で何かが切れた。
「なんで!」
男が振り返る。
「なんでその人にお金を払うの!」
周囲の人間が見る。
「あの人、殺したんだよ!」
男の顔から笑みが消えた。
「お父さんとお母さんを殺した!」
役人たちは動かなかった。
「私、言ったよね!?」
女を見る。
「言ったよね!?」
「聞いた」
「だったら!」
男が一歩下がった。
しかし兵士は来ない。
誰も剣を抜かない。
役人は淡々と金貨を数え終えた。
袋を男へ渡す。
「確かに」
男はそれを受け取った。
リナは信じられなかった。
「なんで……?」
男はリナを見た。
一瞬だけ怯えたような顔をした。
だが、何も起きないと分かると笑った。
「商売だからだよ」
革袋を腰につける。
「いい国だろ?」
男は門へ向かった。
「待って!」
リナが走ろうとする。
女の役人が前に立った。
「どいて!」
「リナ」
「あいつが!」
「分かってる」
「じゃあなんで!」
「行こう」
「嫌!」
「リナ」
女は静かに言った。
「あなたは、もうあの男についていく必要はない」
リナが止まった。
門の向こう。
男は自由に歩いていく。
誰も追わない。
誰も捕まえない。
そして王国の金を持っている。
「……この国、おかしいよ」
リナが呟いた。
女は答えなかった。
◇
その日の夕方。
国境管理所から王都へ、一日の報告書が送られた。
移入者、四十七名。
男、二十五名。
女、二十二名。
未成年者、九名。
技能保有者、十四名。
家族単位、六組。
通常の数字が並ぶ。
その中に、一件だけ赤い印のついた記録があった。
十三歳。
女児。
本人の同意なし。
両親との売買契約なし。
連行者による父母殺害の目撃証言あり。
連行者氏名。
出身。
特徴。
受領金額。
国境通過時刻。
すべて記録されていた。
その紙は他の書類とは別の封筒に入れられた。
「これは?」
若い役人が尋ねた。
女は封蝋を押した。
「王都行き」
「どこの部署です?」
女は封筒の表を見る。
そこには部署名がなかった。
宛名が一つだけ書かれている。
若い役人がそれを読もうとした。
女は封筒を裏返した。
「あなたには関係ない」
封筒が箱へ入れられる。
蓋が閉まった。
その夜。
リナを売った男は、王国の金貨を数えながら酒を飲んでいた。
次はどの村へ行こうか。
若い女なら高い。
子供も悪くない。
家族ごとなら、もっと儲かる。
男は笑った。
こんなに楽な商売はない。
なにしろ、この国の王は。
人間なら何でも買う。
そう信じていた。




