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愚王と呼ばれておりますが、だいたい予定通りです  作者: 綾城式部
第一章 人を買う愚王

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金貨一袋の娘

「娘さんを売ってくれませんかね」


 男は、天気の話でもするように言った。


 父は何も答えなかった。


 古びた木の机の上に、小さな革袋が置かれている。


 男が紐をほどくと、金貨が見えた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 数える必要もない。


 この家では、一年働いても見ることのない金額だった。


「これだけあれば、借金は全部返せますよ」


 男は笑った。


「畑の種も買える。冬を越す麦だって十分だ。奥さんの薬も買えるでしょう」


 部屋の奥で、母が小さく咳をした。


 少女は母の隣に座っていた。


 名をリナという。


 十三歳だった。


「向こうは人手が足りないんです」


 男は続ける。


「若い人間なら高く買う。特に健康な子供はね」


 父の拳が震えた。


「帰れ」


「お父さん」


「帰れと言った」


 男は笑顔を崩さない。


「悪い話じゃありませんよ」


「娘は売らん」


「ですがね」


「聞こえなかったか!」


 父が机を叩いた。


 金貨が跳ねた。


 母が怯えたようにリナの肩を抱く。


 男はしばらく父を見ていた。


 やがて、ゆっくり革袋の紐を結んだ。


「分かりました」


 意外にも、あっさりしていた。


 男は金貨を懐へ戻す。


「無理強いするつもりはありません」


「二度と来るな」


「ええ」


 男は立ち上がった。


 扉へ向かう。


 その途中で一度だけリナを見た。


「残念です」


 それだけ言って、男は家を出ていった。


 扉が閉まる。


 父はしばらく動かなかった。


「あなた……」


「大丈夫だ」


「でも借金が」


「何とかする」


「どうやって?」


「何とかする!」


 母が黙った。


 父も黙った。


 リナも何も言えなかった。


 窓の外では、痩せた畑が風に揺れていた。


 今年は雨が少なかった。


 去年も少なかった。


 村の井戸は日に日に浅くなっている。


 それでも税は変わらない。


 借金も消えない。


 隣の家は先月、畑を手放した。


 その隣は一家で村を出た。


 どこへ行ったのかは知らない。


「お父さん」


「なんだ」


「私、売られてもいいよ」


 父が振り返った。


「何を言っている」


「だって」


「二度と言うな」


「でも、お母さんの薬が」


「リナ」


 父の声が低くなった。


 少女は口を閉じた。


 父は近づいてきて、リナの頭に手を置いた。


「お前は物じゃない」


 大きな手だった。


「金貨何枚積まれたって、売るものか」


 リナは俯いた。


「ごめんなさい」


「謝るな」


 父は笑った。


「来年になれば雨も降る」


「本当?」


「ああ」


「どうして分かるの?」


「父ちゃんだからな」


「何それ」


 リナが笑う。


 母も少しだけ笑った。


 その夜は、三人で薄い豆のスープを食べた。


 肉は入っていなかった。


 パンも一枚を三人で分けた。


 それでもリナは幸せだった。


 父がいて。


 母がいて。


 自分がいる。


 それだけでよかった。


     ◇


 翌朝。


 村の広場に人が集まっていた。


「また来たぞ」


「誰が?」


「人買いだよ」


 昨日とは別の男だった。


 馬車が二台。


 荷台には誰も乗っていない。


 男は広場に立つと、大きな声を上げた。


「働き手を募集している!」


 リナは水桶を抱えながら足を止めた。


「十五以上! 健康なら男女は問わん! 職人なら年齢不問! 家族持ちも歓迎だ!」


 人買いというより、行商人のようだった。


「行き先は?」


 村人の一人が聞いた。


「東だ!」


「どこだよ」


「アストリア王国!」


 ざわめきが起こった。


 リナもその名を知っている。


 東の国。


 少し前に若い王が即位した国だ。


「いくらだ?」


 誰かが聞いた。


「成人なら銀貨三十枚から!」


「三十!?」


「技能があれば上乗せする! 鍛冶、木工、石工は特に高いぞ!」


 人が集まり始める。


 男は紙を広げた。


「それから向こうでも給金が出る!」


「嘘つけ!」


「本当だ! 俺だって最初は嘘だと思った!」


 笑いが起きる。


「売られた上に金までもらえるのか?」


「そういう決まりらしい!」


「なんだそりゃ!」


「知らねえよ! 王様が馬鹿なんだろ!」


 また笑いが起きた。


 リナだけは笑わなかった。


 昨日の男を思い出していた。


 夕方。


 村から三人がいなくなった。


 鍛冶屋の次男。


 妻を亡くした農夫。


 そして、十七歳の少女。


 だが誰も攫われてはいない。


 家族が金を受け取り、本人たちは自分の足で馬車に乗った。


「元気でな!」


「手紙書けよ!」


「向こうで稼いでくる!」


 まるで出稼ぎだった。


 馬車が遠ざかっていく。


 リナは不思議な気持ちでそれを見送った。


「売られたのに……」


 隣にいた老婆が笑った。


「最近は珍しくないよ」


「怖くないのかな」


「さあね」


 老婆は腰を伸ばした。


「でも、向こうへ売られた連中から金が届くって話は聞くね」


「売られた人から?」


「ああ」


「どうやって?」


「知らないよ」


 老婆は歩いていった。


 リナは馬車が消えた道を見ていた。


     ◇


 その夜。


 リナは物音で目を覚ました。


 何かが落ちた音だった。


「……お母さん?」


 返事がない。


 隣を見る。


 いつも母が眠っている場所に誰もいなかった。


 リナは身体を起こした。


「お父さん?」


 暗い。


 月明かりだけが窓から差し込んでいる。


 裸足で床に降りる。


 冷たかった。


「お母さん?」


 また返事がない。


 居間へ向かう。


 そこで足が止まった。


 床に何かが落ちている。


 暗くてよく見えない。


 大きな何か。


「お父……」


「静かに」


 背後から声がした。


 口を塞がれた。


「んっ!」


 暴れようとした。


 だが男の腕は強かった。


「騒ぐな」


 聞いたことのある声だった。


 昨日。


 この家で。


 金貨を机に並べた男。


「大丈夫」


 男は耳元で囁いた。


「悪いようにはしない」


 リナの目が暗闇に慣れていく。


 床。


 倒れている父。


 その少し向こう。


 母の白い寝間着。


「……っ!」


 声を出そうとした。


 さらに強く口を塞がれた。


「見るな」


 男が言った。


 リナの視界が布で覆われる。


 何も見えなくなった。


     ◇


 馬車が揺れている。


 どれくらい経ったのか分からない。


 リナは荷台の隅で膝を抱えていた。


 手は縛られていない。


 足も自由だった。


 それでも逃げられなかった。


 知らない道。


 知らない森。


 どこにいるのかも分からない。


 男は御者台にいる。


「……おじさん」


「なんだ」


「お父さんは?」


 返事がない。


「お母さんは?」


 馬車だけが進む。


「ねえ」


 返事はなかった。


「帰りたい」


 男がようやく振り返った。


「帰れないよ」


「どうして?」


 男は少し黙った。


 そして前を向いた。


「お前はこれから、東へ行く」


「東……?」


「ああ」


「どこ?」


 男が答えた。


「アストリア王国」


 リナは昨日の広場を思い出した。


 笑って馬車に乗った三人。


 家族に手を振っていた少女。


 自分も同じ馬車に乗っている。


 なのに。


 何かが違う。


「私……売られるの?」


「ああ」


 男は平然と答えた。


「高く売れるぞ」


 リナは膝に顔を埋めた。


 御者台で男が笑った。


「喜べ」


「……?」


「あの国の王様はな」


 馬車が国境へ続く街道へ入る。


「人間なら、何でも買ってくれるらしい」

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