血
エドが騎士になった。
それだけなら、例外で済んだ。
外国人。
元奴隷。
それでも軍務卿が半年かけて教育し、自ら推薦した。
珍しい話。
変わった王の、変わった人事。
そう片づけることもできた。
だが。
一人できたことは、
二人目にもできる。
それが問題だった。
◇
王宮の人事局に、一枚の願書が届いた。
地方の商家の次男。
読み書きができる。
計算ができる。
三年間、商会で帳簿を担当。
領地の収穫量や税額の計算にも詳しい。
希望職。
地方行政官。
不採用。
理由。
平民だから。
二枚目。
村長の娘。
読み書き。
計算。
土地台帳の作成経験あり。
希望職。
徴税官補佐。
不採用。
理由。
平民だから。
三枚目。
元兵士。
補給隊で十年勤務。
倉庫管理。
輸送計画。
物資調達。
希望職。
軍需局。
不採用。
理由。
平民だから。
四枚目。
五枚目。
六枚目。
王は途中で読むのをやめた。
「多いのう」
宰相が嫌な予感を覚えた。
「何がでしょう」
「使えそうなのに使っておらぬ者」
嫌な予感が当たった。
「陛下」
「なんじゃ?」
「その者たちは、官職に就く資格を持っておりません」
「なぜ?」
「平民だからです」
王が願書を見る。
「書いてあるのう」
「はい」
「だから、なぜじゃ?」
宰相は少し黙った。
「法で定められているからです」
「誰が決めた?」
「歴代の王です」
「我も王じゃが」
「そういう問題ではありません」
王は首を傾げた。
「ではどういう問題じゃ?」
◇
会議が開かれた。
宰相。
財務卿。
軍務卿。
内務卿。
そして王。
机の上には古い法典が積まれていた。
「官職には、それぞれ資格があります」
宰相が説明する。
「高位官職は原則として貴族。軍の指揮職は騎士階級以上。地方行政も一定以上の家格を必要とします」
「なぜ?」
またそれだった。
宰相は答える。
「教育です」
王が黙る。
「貴族の子は幼い頃から読み書き、歴史、法、外交、統治を学びます」
「うむ」
「領地を持つ家であれば、実際の行政にも触れる」
「うむ」
「騎士の家なら軍事教育を受ける」
軍務卿が頷く。
宰相は続けた。
「国を動かす仕事は、昨日今日覚えればできるものではありません」
王は少し考えた。
「なるほど」
珍しく納得した。
宰相は安心した。
「では試験をせよ」
安心した自分が馬鹿だった。
「……試験?」
「必要なことを知っておるか調べればよい」
「陛下」
「なんじゃ?」
「今申し上げたのは、その知識を得るために貴族制度が機能しているという話です」
「うむ」
「ですから」
「知っておるか調べればよいではないか」
「そういう話では」
「知らぬ貴族はどうする?」
宰相が止まった。
「……教育します」
「知っておる平民は?」
「資格がありません」
「変ではないか?」
誰も答えなかった。
◇
宰相は法典を閉じた。
「陛下」
声は静かだった。
「血統そのものに価値があるのではありません」
王が見る。
「継承されてきた責任に価値があるのです」
王は黙って聞いた。
「貴族には権利があります」
「うむ」
「同時に義務があります」
「うむ」
「戦があれば兵を出す。飢饉があれば領民を養う。治水を行い、道を維持し、争いを裁く」
宰相は法典へ手を置いた。
「そのために土地があり、財産があり、教育がある」
「うむ」
「子は幼い頃から、自分が何を背負うのか教えられます」
王は何も言わない。
「これは単なる特権ではありません」
「分かっておる」
宰相が少し驚いた。
王は続ける。
「なら責任を継げばよかろう」
「……はい?」
「よい仕組みなのじゃろ?」
「はい」
「なら残せばよい」
宰相は王を見る。
「では」
「じゃが」
来た。
「なぜ権利まで必ず一緒に継ぐのじゃ?」
宰相が黙った。
王は法典を指す。
「父親が優秀なら、息子も優秀なのか?」
「そのために教育を」
「教育して駄目なら?」
「……」
「平民が自分で学んで優秀なら?」
「……」
王は本当に分からないようだった。
「責任を負える者に責任を負わせればよいのではないか?」
宰相はしばらく答えなかった。
「それでは」
ようやく言った。
「国の形が変わります」
王は首を傾げた。
「形?」
「誰が国を支えるのかという形です」
「今は誰が支えておる?」
「貴族です」
王が窓の外を見る。
城下。
市場。
工房。
道。
遠くの畑。
「……多くないか?」
「何がです」
「支えておる者」
宰相は窓を見なかった。
◇
数日後。
軍務卿が宰相の執務室を訪れた。
「聞いた」
「何を」
「官職を平民へ開くそうだな」
「まだ決まっていない」
「陛下ならやる」
宰相は否定しなかった。
軍務卿が椅子へ座る。
「騎士も同じになるか」
「既になっているだろう」
軍務卿が黙った。
エド。
自分で教えた。
自分で試した。
自分で推薦した。
「後悔しているか?」
宰相が聞く。
「していない」
即答だった。
「エドは騎士だ」
「なら何が問題だ」
軍務卿はしばらく考えた。
「エドは半年かけた」
「うむ」
「私が教えた」
「うむ」
「試験もした」
「うむ」
「だから認めた」
「それを官吏にもやろうとしている」
「分かっている」
「なら」
軍務卿が遮った。
「一人と制度は違う」
宰相は黙った。
「エド一人なら、私が見られる」
軍務卿は言う。
「百人なら?」
返事はない。
「千人なら?」
宰相が窓を見る。
「だから制度が必要になる」
「そして制度を変えれば、国が変わる」
二人とも黙った。
◇
王宮の一室。
なぜかノアが呼ばれていた。
「試験を作れ」
王に言われた。
「嫌です」
王が驚いた。
「なぜじゃ?」
「俺、試験なんて作ったことないですよ」
「書類には詳しいであろう?」
「偽造にです」
「似たようなものではないか?」
「全然違います」
財務卿が笑った。
王は机に願書を並べる。
「では、不正できぬ試験にせよ」
ノアは止まった。
「そっちですか」
「貴族だから合格、平民だから不合格では意味がないのであろう?」
「まあ」
「金を払ったら合格も困る」
「それはそうですね」
「答えを買うのも困る」
「困りますね」
「偽造した合格証を持ってくる奴もおるかもしれぬ」
ノアは少し考えた。
「それなら得意です」
「ほれ」
王が満足そうに頷いた。
「似たようなものではないか」
「……なんか腹立つな」
「何か言ったか?」
「いいえ」
こうして。
元文書偽造犯が、
国家試験の不正防止に関わることになった。
◇
制度は、思ったより地味だった。
貴族制は廃止されなかった。
爵位も残った。
領地も残った。
財産も残った。
相続もできた。
ただ。
一部の官職から、
「貴族であること」
という条件が消えた。
代わりに。
読み書き。
計算。
法。
行政。
職種ごとの知識。
試験と実務経験が求められた。
貴族も受ける。
平民も受ける。
外国生まれでも、国民となり条件を満たせば受けられる。
元犯罪者については、職種ごとに制限が設けられた。
誰でも何でもできるわけではない。
ただ。
生まれた瞬間に、
できないことが決まる範囲が、
少し減った。
◇
最初の試験の日。
会場には奇妙な人間が集まった。
貴族の三男。
商人の娘。
元兵士。
村長の息子。
職人。
地方役人の助手。
服装も違う。
言葉遣いも違う。
座り方も違う。
試験官が紙を配る。
「開始」
一斉に書き始めた。
数時間後。
結果が出た。
一位。
地方貴族の次男。
二位。
商家の娘。
三位。
伯爵家の三男。
四位。
村長の息子。
五位。
子爵家の長男。
王は結果表を見た。
「貴族、強いではないか」
宰相が答える。
「当然です」
少し誇らしげだった。
「幼い頃から教育を受けています」
「なら問題ないではないか」
宰相は黙った。
王が続ける。
「優秀なのであろう?」
「はい」
「なら受かる」
「はい」
「平民より優秀なら?」
「受かります」
「なら何も奪っておらぬではないか」
宰相の表情が少し変わった。
「陛下」
「なんじゃ?」
「優秀でなければ?」
王は結果表から顔を上げる。
「落ちるのでは?」
あまりにも当然のように言った。
宰相は目を閉じた。
「それが、変わったのです」
王は分からない顔をした。
◇
その夜。
宰相は屋敷へ帰った。
書斎には古い肖像画が並んでいる。
祖父。
曾祖父。
その前。
何代も。
国に仕えた者たち。
戦争で死んだ者。
飢饉の年に私財を放出した者。
外交交渉をまとめた者。
王を諫めて蟄居させられた者。
その家に生まれるということは、
幼い頃から彼らを見上げて育つということだった。
父に言われた。
お前はこの家を継ぐ。
だから学べ。
だから耐えろ。
だから国に仕えろ。
好き嫌いではない。
生まれたからだ。
宰相は、その仕組みを嫌いではなかった。
むしろ。
自分を作ったものだった。
机の上には、新しい試験制度の書類。
二位。
商家の娘。
宰相はその答案も読んでいた。
優秀だった。
法の理解。
計算。
文章。
どれも申し分ない。
落とす理由はなかった。
だから。
余計に困った。
◇
翌日。
王宮。
宰相が王へ尋ねた。
「陛下」
「なんじゃ?」
「もし」
少し間を置く。
「私より優秀な平民が現れたら、どうなさいますか」
王は書類から顔を上げた。
「宰相にする」
即答だった。
宰相は黙った。
王が不思議そうに聞く。
「嫌か?」
「……分かりません」
「そうか」
王はまた書類へ戻った。
「まあ、其方より優秀なら相当じゃのう」
宰相が顔を上げる。
王は普通に書類を読んでいた。
褒めたのか。
馬鹿にしたのか。
分からなかった。
「陛下」
「なんじゃ?」
「私は、宰相家に生まれました」
「うむ」
「幼い頃から、この国に仕えるために育てられました」
「うむ」
「それを誇りに思っています」
王が顔を上げる。
「よいことではないか」
「では」
宰相は少し強く言った。
「それに価値はないのですか」
王は首を傾げた。
「あるであろう?」
宰相が止まる。
「其方が今、役に立っておる理由の一つなのであろう?」
「……はい」
「なら価値がある」
「では、なぜ」
「じゃが」
王が言った。
「其方の息子が役に立つかは、まだ分からぬであろう?」
宰相は何も言えなかった。
王は悪意なく続ける。
「其方の父が立派だったことも」
一枚書類をめくる。
「其方が立派であることも」
もう一枚。
「其方の息子が立派であることも」
そして。
「別の話ではないのか?」
宰相は王を見ていた。
王はもう書類へ戻っている。
それだけだった。
◇
その頃。
軍務卿は訓練場にいた。
エドが若い兵士を怒鳴っている。
「自分で前に出るな!」
「はい!」
「お前が倒れたら誰が指示する!」
「はい!」
「地図見ろ!」
「はい!」
軍務卿は腕を組んで見ていた。
自分が言った言葉だった。
少し腹が立った。
同時に。
少しだけ嬉しかった。
隣の騎士が言う。
「よく育ちましたね」
軍務卿は答えない。
エドがこちらに気づいた。
「軍務卿!」
「なんだ」
「こいつ、指揮官なのに前に出るんですよ!」
「お前も昔やった」
「だから駄目だって分かるんです!」
軍務卿は言葉に詰まった。
周囲が笑う。
エドも笑っていた。
軍務卿は笑わなかった。
その胸には騎士の徽章。
血では渡らなかったものが、
教えたことで、
確かに渡っていた。
◇
その年。
アストリアから貴族は消えなかった。
平民も消えなかった。
爵位も。
家名も。
領地も。
歴史も。
残った。
ただ。
一つだけ。
少し曖昧になった。
生まれた家が、
その人間の最初の場所であることと。
最後の場所であることは、
同じではなくなった。
そして。
それを最も喜んでいたのが誰なのか。
それを最も恐れていたのが誰なのか。
まだ。
誰にも分からなかった。




