騎士エド
エドが第三訓練場へ来て、半年が過ぎた。
剣術。
優。
槍術。
優。
騎乗。
良。
地理。
優。
軍法。
良。
礼法。
可。
指揮。
優。
そして。
騎士叙任推薦。
空欄。
ずっと空欄だった。
エドは知らなかった。
別に知りたくもなかった。
本人は最近、騎士になることより軍法試験に落ちないことの方が重要だった。
「第十二条。交戦中、民間の家屋を徴用する場合」
「指揮官の許可を得る」
「不足」
「ええと……記録を残す」
「不足」
「あと……」
教官が腕を組んでいる。
エドは天井を見る。
「勝手に食べ物を取らない」
「言い方!」
「徴発を行わない」
「それから?」
「後日、補償する」
「誰が?」
「国」
「そのために?」
「記録を残す」
「最初に戻ったな」
「難しいんですよ!」
教官がため息をつく。
「お前は五十人を動かせるのに、なぜ十二条が覚えられん」
「五十人は喋るからです」
「法律も書いてあるだろう」
「紙は返事しません」
「黙って覚えろ」
「はい」
騎士への道は、敵より紙の方が強かった。
◇
数日後。
訓練場に軍務卿が現れた。
最近では珍しくない。
候補生たちも慣れた。
「エド」
「はい」
「来い」
連れて行かれた先には、小さな会議室があった。
机を挟んで軍務卿。
教官が二人。
エド。
机の上には紙が一枚。
「座れ」
座る。
嫌な予感がした。
「試験だ」
もっと嫌な予感がした。
軍務卿が聞く。
「お前の部隊が敵地へ入った」
「はい」
「補給が遅れている。三日分の食料しかない」
「はい」
「近くの村には食料がある」
「はい」
「どうする」
「買います」
「村人が売らない」
「困ります」
「困っている場合ではない」
「じゃあ別の村を探します」
「ない」
「……面倒ですね」
教官が咳払いした。
軍務卿は表情を変えない。
「五日後に補給が来る。食料は三日分だ」
エドは考える。
「半分にします」
「兵が弱る」
「でも二日なら持つ」
「敵が来たら?」
「戦います」
「空腹の兵で?」
「村から奪うよりは」
軍務卿が聞く。
「なぜ奪わない」
「軍だからです」
「答えになっていない」
エドは少し考えた。
「俺、昔」
言葉を選ぶ。
「食べ物を取られる側だったので」
部屋が静かになった。
「軍が来るたびに食料を持っていかれたら、村の人間はどっちが敵か分からなくなると思います」
軍務卿は黙って聞いている。
「それに」
「それに?」
「次に通った時、誰も助けてくれなくなる」
軍務卿の眉が少し動いた。
「情ではなく利でもあると?」
「両方じゃ駄目なんですか?」
今度は教官二人が軍務卿を見た。
軍務卿はしばらく黙っていた。
「次だ」
◇
試験は続いた。
部下が命令に違反した。
どうする。
敵兵が降伏した。
どうする。
上官から無謀な突撃命令が出た。
どうする。
味方の貴族が略奪した。
どうする。
最後。
軍務卿が聞いた。
「王から、民を犠牲にすれば勝てる命令が出た」
エドは固まった。
「……王様から?」
「そうだ」
「本当に?」
「仮定だ」
「しなさそうですけど」
「仮定だ!」
「はい」
エドは考えた。
長かった。
「反対します」
「王命だぞ」
「反対します」
「それでも命じられたら」
エドは困った。
「軍務卿に相談します」
「私も賛成している」
「最悪ですね」
教官の一人が下を向いた。
肩が揺れている。
軍務卿が睨む。
「笑うな」
「申し訳ありません」
エドは腕を組んだ。
「じゃあ」
少し考えて。
「やりません」
「命令違反になる」
「はい」
「騎士位を失うかもしれん」
「まだ持ってません」
「仮定の話だ!」
「はい!」
軍務卿が額を押さえた。
「理由は」
エドは答える。
「民を守るのが騎士なんでしょう?」
軍務卿の手が止まった。
「ずっとそう教えられました」
エドは不思議そうに続ける。
「それなのに王様が言ったら変わるんですか?」
誰も答えなかった。
軍務卿が椅子にもたれる。
「……もういい」
「落ちました?」
「出ていけ」
「やっぱり?」
「早く出ていけ!」
エドは肩を落として部屋を出た。
扉が閉まる。
教官の一人が尋ねた。
「いかがなさいますか」
軍務卿は机の上の答案を見る。
「礼法は?」
「ぎりぎりです」
「軍法」
「合格です」
「歴史」
「合格」
「指揮」
「文句ありません」
「騎乗」
「もう落ちません」
軍務卿は目を閉じた。
「そうか」
「推薦されますか」
しばらく返事はなかった。
やがて。
軍務卿は筆を取った。
半年間、空欄だった場所。
騎士叙任推薦。
そこへ自分の名を書いた。
◇
「嫌です」
王が言った。
軍務卿は固まった。
「……は?」
「嫌じゃ」
「なぜです!」
王は机の上の推薦書を見ている。
「面倒そうじゃから」
「陛下!」
「騎士にするだけであろう?」
「叙任式が必要です!」
「やはり面倒ではないか」
軍務卿は拳を握った。
「そもそも!」
声が大きくなる。
「エドを騎士にしろと言い出したのは陛下でしょう!」
「そうじゃったか?」
「そうです!」
「其方が決めよと言った気がする」
「ですから決めました!」
「なら騎士なのでは?」
「陛下の承認が必要なのです!」
王が嫌そうな顔をした。
「面倒な制度じゃのう」
軍務卿は、半年間の苦労を思い出していた。
剣を教えた。
軍法を教えた。
歴史を教えた。
騎乗を教えた。
礼法まで教えた。
何度も怒鳴った。
何度もやり直させた。
そしてようやく。
自分で認めた。
その最後にいる男が、
面倒。
と言っている。
「陛下」
軍務卿が低い声で言った。
「明日、叙任式を行います」
「明日?」
「はい」
「予定が」
「ありません」
「なぜ分かる」
「確認しました」
王が逃げ道を探す。
「体調が悪くなるかもしれぬ」
「医師を待機させます」
「雨かもしれぬ」
「室内です」
「……腹が痛く」
「医師を待機させます」
王は黙った。
軍務卿が一礼する。
「明日です」
「はい」
なぜか王が返事をした。
◇
翌日。
エドは人生で最も居心地の悪い場所にいた。
王宮の大広間。
磨かれた床。
並ぶ騎士。
貴族。
役人。
候補生。
全員、正装。
エドも正装。
首が苦しい。
「これ、締まりすぎじゃないですか」
小声で言う。
隣の騎士が囁く。
「黙れ」
「息できないんですけど」
「死にはしない」
「本当に?」
「静かにしろ」
前を見る。
王がいた。
その横に軍務卿。
儀式が始まった。
名前を呼ばれる。
「エド」
「はい!」
声が大きすぎた。
少し笑いが起きる。
エドは前へ出た。
跪く。
この姿勢は練習した。
昨日だけで二十回やった。
王が剣を持つ。
エドの肩へ当てる。
右。
左。
また右。
「其方をアストリア王国の騎士として認める」
王が言った。
エドは教えられた通り答える。
「この剣と命をもって、王国とその民に仕えることを誓います」
一瞬。
王が止まった。
「命はいらぬぞ」
「……はい?」
広間が静まり返った。
軍務卿の顔が引きつった。
王が続ける。
「死なれても困る」
「陛下」
軍務卿が小声で制する。
「そういう文言です」
「そうなのか?」
「そうです」
「では仕方ないのう」
エドは跪いたまま困っていた。
「続けていいですか?」
「うむ」
エドは咳払いする。
「この剣と命をもって、王国とその民に仕えることを誓います」
王が頷く。
「うむ。できれば生きて仕えよ」
今度は笑いが起きた。
軍務卿だけ笑わなかった。
額を押さえていた。
◇
儀式の後。
エドは庭で首元を緩めていた。
「苦しい……」
ようやく息ができる。
そこへ軍務卿が来た。
エドは慌てて姿勢を正す。
「軍務卿」
「騎士になったのだから、もう少しまともに立て」
「はい」
背筋を伸ばす。
胸を張る。
顎を引く。
肩の力を抜く。
半年かけて、ようやくそれらしくなった。
軍務卿が見る。
「まあいい」
「ありがとうございます」
少し沈黙。
エドが聞く。
「本当に、俺でいいんですか」
軍務卿は眉を寄せる。
「何がだ」
「騎士」
「今さら何を言っている」
「でも俺、外国人だし」
「知っている」
「奴隷だったし」
「知っている」
「鉱山にもいました」
「知っている」
「騎士の家でもありません」
「それも知っている」
エドは頭を掻く。
「じゃあ、なんで」
軍務卿がエドを見る。
「お前は半年間、何をしていた」
「訓練です」
「誰が教えた」
「軍務卿です」
「誰が試験した」
「軍務卿です」
「誰が推薦した」
エドは少し笑った。
「軍務卿です」
「なら私に聞くな」
軍務卿は歩き出した。
エドがその背中へ声をかける。
「ありがとうございます」
軍務卿は止まらなかった。
ただ片手を上げた。
それだけだった。
◇
翌朝。
エドはいつもの食堂へ行った。
いつもの席。
いつものパン。
向かいの候補生が言った。
「騎士様」
「やめろ」
「エド卿」
「殴るぞ」
「騎士がそんなことしていいのか?」
エドは拳を下ろした。
「……面倒だな、騎士」
笑いが起きる。
食事を終え、訓練場へ向かう。
途中。
門番の兵士がエドを見る。
胸元の徽章に気づいた。
敬礼する。
「おはようございます、エド卿」
エドは慌てて敬礼を返した。
歩きながら、自分の胸を見る。
小さな徽章。
それだけだった。
身体は昨日と同じ。
生まれた場所も変わっていない。
過去も消えていない。
売られたことも。
鉱山で働いたことも。
国へ帰ったことも。
そして。
もう一度ここへ戻ってきたことも。
何一つ変わっていない。
なのに昨日まで、
外国人で。
元奴隷で。
ただの兵士だった男が。
今日から騎士だった。
エドは少し考えた。
そして。
「まあ、いいか」
訓練場へ歩いていった。
◇
その頃。
軍務卿の執務室には、エドの訓練記録が残っていた。
剣術。
優。
槍術。
優。
騎乗。
良。
地理。
優。
軍法。
良。
礼法。
可。
指揮。
優。
最後。
騎士叙任推薦。
そこには軍務卿自身の署名がある。
半年前。
そこは空欄だった。
騎士とは、一代で作るものではない。
そう言ったのは自分だった。
軍務卿はその紙をしばらく見ていた。
やがて書類を閉じる。
間違っていたとは思わなかった。
騎士には教育が必要だ。
責任が必要だ。
誇りが必要だ。
その考えは今も変わらない。
ただ一つ。
それらを受け継ぐ方法が、
血だけではなかった。
それだけだった。




