騎士ではない男
エドは、騎士ではない。
少なくとも本人はそう思っていた。
第三訓練場へ移されてから二ヶ月。
剣ではほとんど負けなくなった。
槍も悪くない。
地図も読める。
十人なら問題なく動かせた。
二十人でもなんとかなる。
馬にも、どうにか落ちずに乗れるようになった。
問題はそれ以外だった。
「違う!」
今日も教官の声が飛ぶ。
エドは椅子から立ち上がった。
「何がです?」
「今の立ち方だ!」
「立っただけです」
「騎士はそのように立たん!」
「じゃあどう立つんです?」
「昨日教えただろう!」
昨日も教えられた。
一昨日も教えられた。
エドには違いが分からなかった。
「背筋を伸ばせ!」
伸ばす。
「胸を張れ!」
張る。
「顎を引け!」
引く。
「肩に力を入れるな!」
「無理ですよ!」
教官が額を押さえた。
周囲から笑い声。
エドはため息をついた。
剣で殴ってくれた方が、まだ楽だった。
◇
昼食。
第三訓練場の食堂では、座る場所にも何となく決まりがあった。
貴族の子弟。
騎士の家系。
地方領主の次男や三男。
その中に、一人だけ妙なのが混ざっている。
エドだった。
「なあ」
向かいの候補生がパンをちぎりながら言った。
「お前、本当に騎士になるのか?」
「知らない」
「またそれか」
「俺に聞くなよ。軍務卿に聞いてくれ」
「でも候補生名簿に入ってるぞ」
「勝手に入れられた」
「羨ましい奴だな」
「代わる?」
「嫌だ」
即答だった。
エドは笑った。
隣にいた候補生が口を挟む。
「でも、お前は剣が使えるからいいよな」
「お前も使えるだろ」
「お前ほどじゃない」
「じゃあ練習すれば?」
「簡単に言うな」
「俺は毎日やったぞ」
「お前は兵士だったからだ」
エドはパンを食べる。
「じゃあ兵士になれば?」
「話が違う」
また笑いが起きた。
最初の頃は、こんな会話はなかった。
元奴隷。
外国人。
鉱山労働者。
それだけで距離を置かれた。
だが毎日一緒に走り、殴り合い、馬から落ち、教官に怒鳴られているうちに、少しずつ変わった。
少なくとも今は、
変な奴。
くらいにはなった。
エドにとっては十分だった。
◇
午後は模擬戦だった。
二十人対二十人。
エドが片方を任された。
相手は騎士家の三男。
剣も強い。
馬も上手い。
何より教育を受けている。
開始前。
教官が地図を広げた。
中央に小さな丘。
左右に林。
相手側には騎兵が六。
こちらには三。
「始め!」
相手は真っ直ぐ丘を取った。
当然だった。
高い場所を取れば有利になる。
エドは丘へ行かなかった。
「右の林へ」
部下が驚く。
「丘を取られます!」
「いいよ」
「ですが!」
「走れ!」
全員を林へ入れた。
丘を取った相手がこちらを見る。
こちらも見る。
何も起きない。
しばらくして、相手が動いた。
丘を降りてくる。
エドはさらに林の奥へ下がった。
「逃げるぞ!」
相手の騎兵が追ってきた。
林へ入る。
馬が遅くなる。
「今」
エドの兵が左右から飛び出した。
騎兵を落とす。
残った歩兵が丘から降りてくる。
その頃には、丘には誰もいなかった。
エドは林を抜け、反対側から丘へ上がった。
「終了!」
教官の声。
勝った。
相手の候補生が泥だらけで戻ってくる。
「卑怯だぞ」
「何が?」
「普通、丘を取り合うだろ」
「なんで?」
「なんでって……高いからだ!」
「だから取らせた」
「は?」
「取ったら降りてくると思ったから」
相手が黙る。
エドは首を傾げた。
「ずっと丘にいられたら負けてたけど」
「お前……」
「降りてきたじゃん」
教官が笑いを堪えていた。
訓練場の端。
軍務卿だけは笑っていなかった。
じっとエドを見ていた。
◇
夕方。
エドは呼び出された。
軍務卿の執務室。
机の上に、模擬戦の報告書。
「なぜ丘を捨てた」
「騎兵が少なかったので」
「それだけか」
「相手が丘を取ると思ったからです」
「なぜそう思った」
「みんな丘を取れって習ってるから」
軍務卿の眉が少し動いた。
「お前も習っただろう」
「はい」
「ではなぜ従わなかった」
エドは困った。
「取ったら負けそうだったので」
軍務卿が黙った。
「教えられたことを無視したのか」
「違います」
「何が違う」
「丘が大事だって教わりました」
「うむ」
「だから相手も大事だと思うだろうなって」
軍務卿はしばらく何も言わなかった。
「……なるほど」
それだけ言った。
報告書に何かを書き込む。
エドは立ったまま待った。
「エド」
「はい」
「騎士とは何だと思う」
また始まった。
最近よく聞かれる。
「馬に乗ってる人」
「真面目に答えろ」
「剣を持ってる人」
「帰れ」
「すみません」
エドは考えた。
「偉い兵士?」
軍務卿がため息をついた。
「違う」
「じゃあ何です?」
「責任を負う者だ」
エドは黙る。
「戦場で兵を率いる。民を守る。命令を受け、時には命令を下す。部下の命を預かる」
軍務卿は机の上の報告書を見る。
「剣が強いだけなら兵士でよい」
「はい」
「指揮が上手いだけでも足りん」
「はい」
「騎士が逃げれば、後ろにいる兵も逃げる」
「はい」
「騎士が間違えば、部下が死ぬ」
「……はい」
「だから教育が必要だ」
エドはようやく少し分かった。
礼儀作法。
軍法。
歴史。
地理。
読み書き。
ずっと、剣とは関係ないと思っていた。
「家柄も?」
エドが聞いた。
軍務卿が止まった。
「何?」
「前に、騎士には家柄も必要だって言ってましたよね」
「……言った」
「それも責任に必要なんですか?」
軍務卿はすぐには答えなかった。
「騎士の家に生まれた者は、幼い頃からそれを教えられる」
「責任を?」
「そうだ」
「じゃあ」
エドは少し考えた。
「俺みたいなのは、大人になってから教わるんですね」
軍務卿がエドを見る。
「そうなる」
「大変ですね」
「誰のせいだと思っている」
「王様?」
軍務卿は目を閉じた。
「帰れ」
◇
数日後。
王宮。
軍務卿は王の前に立っていた。
「どうじゃ?」
「何がでしょう」
「騎士」
「まだです」
「そうか」
王は書類を読んでいた。
話は終わったらしい。
軍務卿は動かなかった。
王が顔を上げる。
「何じゃ?」
「陛下」
「うむ」
「なぜエドを騎士にしようと思われたのです」
「強いのであろう?」
「それだけでは騎士にはなれぬと申し上げました」
「うむ」
「軍法も、歴史も、礼節も必要です」
「うむ」
「指揮官としての責任も理解させねばなりません」
「うむ」
「それには時間がかかります」
「うむ」
軍務卿は苛立った。
「そして彼は、騎士の家に生まれておりません」
「知っておる」
「では!」
王が顔を上げた。
「其方が教えておるのであろう?」
「……はい」
「ならよいではないか」
軍務卿は言葉を失った。
王は本当に分かっていないのかもしれない。
騎士というものが何百年かけて作られてきたのか。
家があり。
血があり。
教育があり。
誇りがあり。
責任がある。
親から子へ。
子から孫へ。
そうして受け継がれてきた。
「陛下」
軍務卿は静かに言った。
「騎士とは、一代で作るものではありません」
王が首を傾げた。
「最初の騎士はどうしたのじゃ?」
軍務卿の口が止まった。
王は書類へ目を戻した。
「最初から騎士の家に生まれたのか?」
「それは……」
「変な話じゃのう」
軍務卿は答えられなかった。
王はもう次の書類を読んでいた。
◇
それから訓練は厳しくなった。
なぜか。
ものすごく厳しくなった。
「遅い!」
「はい!」
「判断が甘い!」
「はい!」
「部下を見ろ!」
「はい!」
「自分で戦うな!」
「はい!」
軍務卿自身が訓練場へ来るようになった。
エドは毎日怒鳴られた。
地図を読まされた。
軍法を暗記させられた。
過去の戦争を調べさせられた。
敗戦の記録まで読まされた。
「なぜ負けた」
「補給が切れたからです」
「なぜ切れた」
「輸送路を守らなかったから」
「誰の責任だ」
「指揮官」
「違う」
「え?」
「指揮官だけの責任にするな。なぜ誰も進言しなかった」
エドは考える。
「言えなかった?」
「なぜだ」
「……偉い人だったから?」
「そうだ」
軍務卿が地図を叩く。
「覚えておけ。上官に従うことと、上官に何も言わぬことは違う」
「はい」
「間違っていると思えば言え」
「軍務卿にも?」
「当然だ」
「王様にも?」
軍務卿が止まった。
少しだけ間があった。
「当然だ」
エドは頷いた。
その言葉だけは、よく覚えた。
◇
三ヶ月後。
模擬戦。
今度は五十人を任された。
相手も五十。
開始からしばらくして、エドの部隊は押された。
右翼が崩れた。
中央も下がる。
教官たちが見ている。
軍務卿もいる。
エドは前へ出ようとした。
剣を抜く。
その瞬間。
三ヶ月前の言葉を思い出した。
自分で戦うな。
剣を戻した。
「右翼、下がれ!」
兵が驚く。
「下がるんですか!」
「下がれ!」
右翼を下げる。
敵が追う。
中央も下げる。
さらに追う。
左翼だけ残す。
敵の陣形が伸びた。
「今!」
左翼を回した。
敵の側面へ。
中央が止まる。
右翼も反転。
三方向から挟んだ。
「終了!」
勝った。
歓声が上がった。
エドは息を吐いた。
自分では一人も倒していなかった。
妙な気分だった。
軍務卿が近づいてきた。
「なぜ前へ出なかった」
「出ようと思いました」
「なぜやめた」
「怒られると思ったので」
周囲で笑いが起きた。
軍務卿は笑わなかった。
「それだけか」
エドは少し考えた。
「俺が一人倒すより」
兵たちを見る。
「こいつら五十人をちゃんと動かした方が強いので」
軍務卿は何も言わなかった。
エドは不安になる。
「違いました?」
「いや」
短い返事だった。
軍務卿は踵を返した。
「今日は終わりだ」
「はい」
数歩進んで止まる。
「エド」
「はい」
軍務卿は振り返らなかった。
「明日から礼法の時間を減らす」
エドの顔が明るくなる。
「本当ですか!」
「その代わり軍法を増やす」
「最悪だ!」
今度こそ。
軍務卿は笑った。
◇
その夜。
軍務卿は一人で訓練記録を読んでいた。
剣術。
優。
槍術。
優。
騎乗。
良。
地理。
良。
軍法。
良。
礼法。
可。
最後の欄。
指揮。
筆が止まる。
やがて。
優。
そう書いた。
その下には、別の欄があった。
騎士叙任推薦。
空欄。
軍務卿はしばらくそこを見ていた。
エドは強い。
兵を見ている。
命令もできる。
間違いを認める。
学ぶ。
そして。
軍務卿に対しても平気で質問する。
騎士に必要なものを、少しずつ身につけている。
問題は一つ。
エドは騎士ではない。
騎士の家に生まれていないからだ。
軍務卿は筆を置いた。
少し考える。
また筆を取った。
推薦欄には書かなかった。
その代わり。
訓練継続。
そう記した。
まだだ。
だが。
もう、
無理だとは思っていなかった。




