帰ってきた男
エドは、三日前にアストリアへ戻ってきた。
妙な話だった。
三年前は、ここから故郷へ帰ることばかり考えていた。
今は、その故郷を出て、自分の足で戻ってきたのである。
◇
三年前、エドは売られた。
その頃、アストリアでは制度が変わっていた。
最初は鉱山。
その後、兵士になった。
給金をもらい、住む場所を与えられた。
仕事を辞めてもよかった。
故郷へ帰ってもよかった。
それが本当だと分かるまでには、少し時間がかかった。
初めて帰ったのは、去年だった。
三週間の帰省だった。
国境を越え、懐かしい道を歩き、見覚えのある丘を越えた。
家はまだあった。
扉を叩くと、母が出てきた。
最初、母はエドだと分からなかった。
家を離れている間に背が伸びた。
肩幅も広くなった。
髪も短くなった。
何より、もう生きて帰ってくるとは思っていなかったらしい。
「……エド?」
母がそう言った。
エドは、
「ただいま」
と言った。
それから母は泣いた。
エドも泣いた。
父は泣かなかった。
泣かなかったが、その日の夕食で酒を三杯飲んだ。
三週間は、あっという間だった。
アストリアへ戻る日、母は何度も帰り道を確かめた。
どの街道を通るのか。
何日かかるのか。
次は、いつ帰れるのか。
エドは、答えられることだけ答えた。
◇
そして今回。
同じ道を歩き、同じ丘を越え、同じ扉を叩いた。
母はすぐにエドだと分かった。
「おかえり」
それだけ言って、家へ入れてくれた。
荷物を置く場所も、食卓の席も、去年と同じだった。
「今度は、どれくらいいられるの?」
母が聞いた。
「まだ決めてない」
「そう」
母は少し嬉しそうに、夕食の支度へ戻った。
父は畑から帰ってくると、
「手があるなら、明日は手伝え」
と言った。
弟は、またエドの剣を触りたがった。
妹はもう、母の後ろに隠れなかった。
代わりに、土産はないのかと聞いてきた。
エドは笑った。
全部、帰りたかった場所だった。
◇
一ヶ月ほど、故郷にいた。
畑を手伝った。
屋根を直した。
薪を割った。
弟に剣の持ち方を教えた。
妹ともようやく話せるようになった。
母の料理を食べた。
父と酒を飲んだ。
何も不満はなかった。
だから困った。
ある朝。
母が聞いた。
「いつまでいられるの?」
エドは答えられなかった。
別に期限はなかった。
誰にも帰ってこいとは言われていない。
アストリア軍との契約も、一度終わっている。
ここに住み続けてもいい。
畑は狭いが、食えないほどではない。
父も母もいる。
弟も妹もいる。
ずっと帰りたかった家だ。
「……分からない」
そう答えた。
母は少し寂しそうに笑った。
「そう」
それだけだった。
◇
翌日、町へ行った。
仕事を探した。
荷運び。
日雇い。
農作業。
何でもよかった。
三年前より身体は強くなっている。
兵士もやった。
読み書きも少し覚えた。
仕事には困らないと思っていた。
困った。
仕事そのものが少なかった。
「今は人が余ってる」
最初の店で言われた。
二軒目では、
「兵隊上がりか。うちじゃ使わんな」
三軒目では、
「一日なら」
と言われた。
働いた。
日暮れまで荷物を運んだ。
もらった金を見た。
アストリアで兵士をしていた頃の給金を思い出した。
比べるのをやめた。
帰り道。
町の端で見覚えのある顔を見つけた。
昔、一緒に遊んだ男だった。
「エド?」
「久しぶり」
男は痩せていた。
話を聞くと、仕事がなく、隣町まで働きに出ているという。
「お前はいいよな」
「何が?」
「アストリアに行ったんだろ」
エドは返事をしなかった。
行ったのではない。
売られたのだ。
だが男は続けた。
「向こう、仕事あるんだろ?」
「まあ」
「給金もいいって聞いた」
「まあ」
「俺も行けねえかな」
エドはまた返事をしなかった。
三年前。
自分はここへ帰りたかった。
今。
ここにいる男は、アストリアへ行きたがっている。
変な話だった。
◇
一ヶ月と十二日目。
エドは荷物をまとめた。
母が見ていた。
「行くの?」
「うん」
「アストリアへ?」
「うん」
母は少し黙った。
「嫌なの?」
エドが聞いた。
「嫌よ」
即答だった。
エドは笑った。
母も笑った。
「でも」
母は荷物の紐を結び直した。
「帰ってこられるんでしょう?」
「うん」
「ならいいわ」
父は何も言わなかった。
出発するとき、袋を一つ渡した。
中には干し肉が入っていた。
弟は、
「今度は剣を持ってきて」
と言った。
妹は、
「またね」
と言った。
エドは、
「またな」
と答えた。
三年前は言えなかった言葉だった。
◇
国境では、兵士に止められた。
「目的は?」
「仕事」
「アストリアに家族は?」
「いません」
「以前の滞在歴は?」
「三年くらい」
書類を見せた。
兵士が確認する。
「元鉱山労働者?」
「はい」
「その後、軍?」
「はい」
兵士がエドを見る。
「戻るのか?」
「はい」
「なんで?」
エドは少し考えた。
「仕事があるので」
兵士は肩をすくめた。
印を押した。
それだけだった。
アストリアへ入った。
三年前。
鎖をつけられて越えた国境だった。
今回は歩いて越えた。
特に何も起きなかった。
鐘も鳴らない。
誰も迎えに来ない。
王もいない。
ただ道が続いていた。
エドはその道を歩いた。
◇
王都へ着いた翌日。
エドは軍の詰所へ行った。
「入隊したいんですが」
受付の兵士が顔を上げた。
「経験は?」
「あります」
「どこで?」
「ここで」
「ここ?」
以前の記録を出した。
兵士が読む。
「ああ」
少し驚いた顔。
「お前、帰国した奴か」
「はい」
「なんで戻ってきた?」
また聞かれた。
「仕事があるので」
「故郷は?」
「あります」
「家族も?」
「います」
「帰れたんだろ?」
「帰れました」
「じゃあ、なんで」
エドは困った。
みんな同じことを聞く。
そんなにおかしいことなのだろうか。
「だから」
少し考える。
「仕事があるので」
兵士はしばらくエドを見ていた。
「……まあいい」
書類を渡された。
名前。
年齢。
出生地。
過去の所属。
得意な武器。
エドは一つずつ書いた。
最後。
国籍。
手が止まった。
当然、故国を書く。
そういうものだ。
書いて提出した。
兵士は受け取ると、
「明日から来い」
と言った。
それで終わった。
◇
軍へ戻って一ヶ月。
エドは以前とは違う部隊に配属された。
朝から訓練。
昼も訓練。
夕方まで訓練。
懐かしかった。
「お前、外国人なんだって?」
同じ部隊の兵士に聞かれた。
「そうだけど」
「なんでアストリア軍にいるんだ?」
「仕事だから」
「そればっかりだな」
笑われた。
エドも笑った。
「じゃあ、お前はなんでいるんだ?」
「俺?」
男が考える。
「親父も兵士だったからかな」
「ふうん」
「あと給金」
「同じじゃん」
「一緒にするな」
笑った。
それだけだった。
別の日。
模擬戦があった。
エドは三人を倒した。
四人目に負けた。
翌日は五人倒した。
その次は隊を任された。
十人対十人。
エドの隊が勝った。
また勝った。
三度目も勝った。
やがて上官が訓練場の端に立つ男を気にするようになった。
軍務卿だった。
何日か、何も言わず見ていた。
ある日。
エドが呼ばれた。
「お前がエドか」
「はい」
「鉱山にいたそうだな」
「はい」
「その後、軍に」
「はい」
「一度帰国した」
「はい」
「それで戻ってきた」
「はい」
軍務卿が眉を寄せた。
「なぜだ」
エドは少しだけうんざりした。
この国の人間は、本当にこれが好きらしい。
「仕事があるので」
軍務卿が黙った。
怒らせたかと思った。
やがて、
「そうか」
と言った。
「明日から第三訓練場へ来い」
「第三?」
「士官候補の訓練場だ」
エドは目を瞬いた。
「俺が?」
「嫌か」
「いや……」
「なら来い」
軍務卿はそれだけ言って去った。
エドはしばらく、その背中を見ていた。
◇
翌朝。
第三訓練場へ行くと、明らかに場違いだった。
装備が違う。
立ち方が違う。
言葉遣いまで違う。
何より。
「誰だ、あれ」
「外国人らしい」
「元奴隷だと」
聞こえてくる。
エドは聞こえないふりをした。
教官が名簿を見る。
「エド」
「はい」
「軍務卿推薦となっている」
ざわめいた。
エド自身が一番ざわめきたかった。
訓練が始まった。
剣。
槍。
騎乗。
指揮。
地図。
軍法。
剣と槍は問題なかった。
騎乗は苦手だった。
指揮はできた。
地図も読めた。
軍法は眠かった。
礼法はもっと酷かった。
「違う!」
何度怒鳴られたか分からない。
「騎士に頭を下げる角度ではない!」
「すみません」
「歩き方!」
「はい」
「座り方!」
「はい」
「食器!」
「はい」
夕方。
エドは剣の訓練より疲れていた。
同じ候補生が笑った。
「お前、本当に騎士になる気あるのか?」
「ないよ」
「は?」
「兵士になりに来たんだ」
「じゃあなんでここにいる」
エドは遠くを見る。
訓練場の端に、軍務卿がいた。
「俺が聞きたい」
◇
数日後。
王宮。
軍務卿が報告書を置いた。
「エドという兵士ですが」
王が菓子を食べながら顔を上げた。
「誰じゃ?」
軍務卿が一瞬黙った。
「以前、国外から買い入れられた者です。鉱山勤務を経て軍に所属。その後、制度変更に伴い帰国しております」
「帰ったのか」
「はい」
「よかったではないか」
「戻ってきました」
王の手が止まった。
「なぜじゃ?」
「仕事があるからだそうです」
王は少し考えた。
「そうか」
菓子を食べた。
「それで?」
「兵として優秀です。実戦経験もあり、指揮能力もある。士官教育にも適応しつつあります」
「なら偉くすればよいではないか」
「現在、そのための教育を」
「騎士にするのか?」
軍務卿が止まった。
「いえ」
「なぜじゃ?」
「……陛下」
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
「騎士とは、兵士が強ければなれるものではございません」
「そうなのか?」
「当然です」
「では何がいる?」
「家柄、教養、礼節、忠誠。そして何より、騎士としての誇りです」
王は頷いた。
「なるほど」
軍務卿は少し安心した。
「では教えればよい」
安心した自分を殴りたくなった。
「家柄は教えられません」
「そうじゃな」
「彼は外国人です」
「そうじゃな」
「元奴隷でもあります」
「そうじゃな」
「ですから」
王が首を傾げた。
「今もか?」
軍務卿は黙った。
「……いいえ」
「では何の話じゃ?」
「過去の話です」
「うむ」
王は菓子をもう一つ取った。
「では、今の話をせよ」
軍務卿は何も言わなかった。
王は菓子をかじる。
「強いのじゃろ?」
「……はい」
「兵を率いられる?」
「はい」
「軍法は?」
「現在教育中です」
「忠誠は?」
軍務卿は少し考えた。
「分かりません」
「そうか」
王は特に困らなかった。
「なら聞けばよいではないか」
「誰にです」
「本人に」
「陛下」
軍務卿は深く息を吐いた。
「忠誠とは、尋ねて確認するものではありません」
「面倒じゃのう、騎士というのは」
「ええ」
軍務卿は珍しく即答した。
王は笑った。
「なら任せた」
「何をです」
「騎士にするかどうか」
軍務卿が王を見る。
「私が決めてよろしいのですか」
「其方の方が詳しいのであろう?」
「……そうですが」
「では其方が決めよ」
王はまた菓子を食べ始めた。
話は終わったらしい。
軍務卿は一礼して退出した。
◇
その日の夕方。
第三訓練場。
エドは馬から落ちた。
今日三度目だった。
「痛え……」
仰向けになって空を見る。
誰かが近づいてきた。
軍務卿だった。
エドは慌てて起き上がる。
「そのままでいい」
「はい」
軍務卿が隣に立った。
「エド」
「はい」
「お前は騎士になりたいか」
「いいえ」
即答した。
軍務卿がエドを見る。
「なぜだ」
「なれると思ってないので」
「そうではない。なれるとしたらだ」
エドは考えた。
騎士。
子供の頃、遠くから見たことがある。
綺麗な鎧。
立派な馬。
貴族。
自分とは違う人間。
鉱山で石を運んでいた頃など、同じ生き物だとも思っていなかった。
「分かりません」
「そうか」
軍務卿はそれ以上聞かなかった。
去ろうとする。
エドが呼び止めた。
「あの」
軍務卿が振り返る。
「俺、なれるんですか」
少し間があった。
「今は無理だ」
「ですよね」
「だが」
軍務卿は地面に転がった木剣を拾い、エドへ投げた。
「それを決めるのは、お前が奴隷だったことではない」
エドは木剣を受け取った。
軍務卿は歩いていく。
「明日は落ちるな」
「無茶言わないでください」
「騎士は馬から落ちん」
「じゃあやっぱり無理ですよ」
返事はなかった。
だが。
軍務卿の肩が、ほんの少し揺れていた。
笑ったのかもしれない。
エドは木剣を肩に乗せた。
三年前。
自分は商品だった。
一ヶ月前。
外国人だった。
昨日まで、ただの兵士だった。
そして今。
騎士になれるかもしれないらしい。
「……変な国だな」
エドは呟いた。
それでも。
帰ろうとは思わなかった。




