神に仕える娘
アストリア暦四一二年、七月。
セラム村には、鐘が一つしかなかった。
朝を告げる鐘。
祈りを告げる鐘。
そして、人が死んだことを告げる鐘。
最近は、三つ目のために鳴ることが多い。
カァン。
カァン。
乾いた音が、痩せた畑の向こうへ消えていく。
「……昨日の、お爺さん?」
小さな男の子が聞いた。
エルナは答えなかった。
代わりに、木椀へ薄い粥をよそう。
「今日は少し多いですよ」
「ほんと?」
「ええ」
嘘だった。
量は昨日と同じ。
ただ、底の浅い椀を選んだだけだった。
少年は嬉しそうに受け取った。
「神様のおかげ?」
「はい」
エルナは笑った。
「神様のおかげです」
少年は椀を両手で抱え、教会の壁際へ走っていった。
そこには同じような子供たちが並んでいる。
痩せた子。
咳をしている子。
親を亡くした子。
親はいるが、食べるものがない子。
誰がどちらなのか。
最近では、エルナにも分からなくなってきた。
二十歳になったばかりの彼女は、三年前からこの小さな教会で働いていた。
朝は祈り。
その後は炊き出し。
病人の世話。
孤児の着替え。
洗濯。
畑仕事。
夜になれば、文字を習いたい子供たちに聖典を使って読み書きを教える。
給金はない。
必要もないと思っていた。
寝る場所がある。
食事もある。
そして何より。
人を救うことができる。
それで十分だった。
「エルナ!」
奥から声が飛んできた。
「はい!」
「粉袋、あといくつある!」
倉へ走る。
数えるまでもなかった。
「三袋です!」
「……三つか」
年老いた司祭が天井を見た。
今日。
明日。
明後日。
その先。
「薄めましょうか?」
「もう薄い」
「では、一回の量を」
「減らせば子供が倒れる」
二人とも黙った。
外では粥を食べ終えた子供が椀の底を舐めている。
昨年の凶作だけなら、まだ耐えられた。
だが春からの長雨で橋が落ちた。
街道も崩れた。
荷馬車が来なくなった。
来ても、運賃を上乗せされた穀物は高すぎて買えない。
村で作った物も外へ運べない。
金がない。
物がない。
仕事がない。
少しずつ。
村そのものが痩せていた。
それでも教会には、人が来る。
「司祭様」
老婆が、小さな布袋を差し出した。
「これを」
中には銅貨が数枚。
「いけません。これは取っておきなさい」
「でも、教会には助けてもらってるから」
「だからこそです」
「神様に」
老婆は笑った。
「神様に返すんです」
司祭はしばらく布袋を見つめた。
そして両手で押し返した。
「なら、元気になってから返しなさい」
老婆は泣いた。
エルナも少し泣いた。
神はいる。
そう思った。
少なくとも。
人が誰かを助けようと思う場所には。
きっといる。
◇
昼過ぎ。
一台の馬車が村へ入ってきた。
子供たちが集まる。
最近、村へ馬車が来るだけで珍しい。
白地に金の紋章。
教会の馬車だった。
「王都からです!」
エルナは走った。
馬車から降りてきた聖職者が、司祭へ書状を渡す。
封蝋には、教会の印。
司祭が読む。
途中で、その手が止まった。
「……司祭様?」
「王が、協力すると」
「王様が?」
「教会からの願いを受け入れられたそうだ」
エルナの顔が明るくなった。
「では、橋を直していただけるのですか?」
「それだけではないらしい」
「え?」
司祭は書状へ目を戻した。
「王国から調査の者が来る。橋、街道、井戸、農地……必要なものを調べるそうだ」
「よかった……」
思わず声が漏れた。
これで助かる。
冬までに道が通れば、食糧を運べる。
種籾も買える。
薬も来る。
何より。
もう、鐘を鳴らさずに済むかもしれない。
「神様が、王様のお心を動かしてくださったのでしょうか」
エルナが言った。
司祭は微笑んだ。
「そうかもしれんな」
だが。
書状には、妙なことも書かれていた。
司祭は眉を寄せる。
「商人……?」
「商人?」
「商業組合と職人組合も、事業へ参加するらしい」
エルナは首を傾げた。
「なぜです?」
「分からん」
教会が村を救う。
王国がそれを助ける。
そこまでは分かる。
だが。
なぜ商人がいる。
「商人が、貧しい村を助けるのですか?」
司祭は少し考えた。
「商売になるならな」
「……ここで?」
二人で村を見た。
壊れた橋。
泥だらけの道。
痩せた畑。
半分閉まった鍛冶場。
空っぽの市場。
「ならんだろうな」
「ですよね」
それで話は終わった。
少なくとも。
そのときの二人には。
◇
三日後。
村が騒がしくなった。
馬車が七台。
荷車が十二台。
石工。
大工。
鍛冶職人。
測量をする者。
荷運び人。
そして、商人たち。
村人たちは道の両側に集まり、その異様な一団を眺めていた。
「邪魔だ! そこ空けろ!」
大声が飛ぶ。
「橋を見るぞ! 石工はこっち!」
「井戸は誰だ!」
「木材の置き場を決めろ!」
「荷車を泥にはめるなよ! 引き上げるのも金がかかるんだぞ!」
神聖さなど欠片もなかった。
祈りもない。
聖歌もない。
あるのは怒鳴り声と、金槌と、紙と、数字。
その中心に。
一人の男が立っていた。
「遅い!」
レオン・バルツ。
王都商業組合の代表。
商人と職人たちを束ねる盟主。
そして。
セラム村に来てからずっと、不機嫌だった。
「王都から二日で来られる道だと聞いたぞ!」
「通常なら、です」
部下が答える。
「橋が落ちておりますので迂回を」
「知ってる! 通ってきた!」
レオンは泥のついた靴を睨んだ。
「荷車一台通すのに、これでは金がいくらあっても足りん!」
エルナは少し離れたところから、その男を見ていた。
これが。
村を救うために来た人なのだろうか。
とてもそうは見えない。
レオンが顔を上げた。
目が合った。
「そこの」
エルナは周囲を見る。
「お前だ」
「私ですか?」
「教会の者だな」
「はい」
「孤児は何人いる?」
唐突だった。
「え?」
「親のいない子供だ。何人だ」
「二十三人です」
「病人は?」
「四十人ほど。ですが軽い方も含めれば」
「働ける者は?」
「……何のお話でしょう」
「村人の話だ」
レオンは紙を取り出した。
「大工仕事ができる奴。荷運びできる奴。料理ができる奴。馬を扱える奴。読み書きできる奴。全部知りたい」
エルナは眉を寄せた。
「なぜです?」
レオンも眉を寄せた。
「働いてもらうからだ」
「村の人に?」
「村の道を直すのに、王都から人間を全部連れてくる馬鹿がいるか」
「ですが、皆さん困っているのです」
「知ってる」
「お金もありません」
「だから働くんだろう」
エルナは言葉を失った。
レオンは何を当然のことを、という顔をしている。
「賃金を払うのですか?」
「払わずに働かせたら逃げるだろうが」
「……そうなのですか?」
「なんだその顔は」
「いえ」
妙な人だと思った。
村を救いに来たのに。
村人を働かせると言う。
金を払うと言う。
神の名も出さない。
慈悲とも言わない。
ただ。
「その方が安い」
と言った。
エルナは、ますます分からなくなった。
◇
その日の夕方。
教会の前に、村人たちが集められた。
レオンが紙を広げる。
「まず橋を仮復旧する」
ざわめきが起きる。
「同時に街道の泥を抜く。井戸は二つ修理。壊れてる水路も直す」
村人たちが顔を見合わせた。
「働ける者は雇う。日当はこれだ」
金額が告げられる。
今度は別のざわめき。
「本当に?」
誰かが聞いた。
「何がだ」
「金を、もらえるんですか?」
「働くんだから当たり前だろ」
「でも、俺たちの村を直すんですよ?」
レオンは心底不思議そうな顔をした。
「だから何だ?」
エルナは、そのやり取りを聞いていた。
教会では。
自分たちの村を助けることは、奉仕だった。
神のため。
人のため。
金を求めるようなものではない。
けれど。
目の前の商人は違う。
村を直す。
村人を雇う。
金を払う。
そして自分も儲けようとしている。
「レオン様」
エルナは思わず呼び止めた。
「なんだ」
「なぜ、そこまでなさるのです?」
「王にやれと言われた」
「それだけですか?」
「それだけで俺が自腹を切ると思うか?」
即答だった。
エルナは少しむっとした。
「では、何のために?」
「儲けるためだ」
周囲にいた村人たちが静かになった。
あまりにも堂々としていた。
エルナは思わず聞いた。
「人を救うのに、利益を求めるのですか?」
「求める」
「……善意ではなく?」
「善意で橋が架かるなら、もう架かってるだろ」
エルナは息を呑んだ。
レオンは壊れた橋の方角を指した。
「石を買う。木を買う。職人に金を払う。荷車を出す。馬に食わせる。全部金だ」
そして、村を見る。
「俺は儲けたい」
はっきりと言った。
「職人は賃金が欲しい」
もう一本。
「村人は仕事が欲しい」
さらに。
「教会は人を救いたい」
最後に。
「王は……知らん」
エルナは思わず吹き出した。
「知らないのですか?」
「俺が知りたい」
初めて。
レオンも少し笑った。
「だがまあ」
彼は壊れた橋を見た。
「全部まとめて叶うなら、それでいいんじゃないか?」
エルナは答えなかった。
その考え方を。
好きだとは思わなかった。
神への奉仕と、商人の利益。
同じものだとも思えない。
けれど。
その日の夕方。
久しぶりに。
セラム村の男たちが、仕事を終えて銅貨を握って帰っていった。
その銅貨で。
一人の父親が、教会の炊き出しへ並ばずに。
娘へパンを買った。
エルナはそれを見ていた。
「……神様」
小さく呟く。
「これは、善いことなのでしょうか」
答えはなかった。
ただ。
翌朝。
セラム村に鐘とは違う音が響き始めた。
カン。
カン。
カン。
石を割る音。
木を打つ音。
橋を直す音だった。




