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愚王と呼ばれておりますが、だいたい予定通りです  作者: 綾城式部
第二章 神を恐れぬ愚王

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愚王、教会に関心する

アストリア暦四一二年、七月。


若き王が戴冠して、九か月が過ぎていた。


そして王が、


「人が足りぬ? なら買えばよいではないか」


と言い出してから、三月が過ぎていた。


「陛下。今月分でございます」


財務卿が、一冊の帳簿を置いた。


どん、と。


机が鳴った。


王はその帳簿を見た。


次に財務卿を見た。


もう一度、帳簿を見た。


「……見なければならぬか?」


「ぜひ」


「嫌じゃ」


「ご覧ください」


「嫌じゃと言っておる」


「ご・覧・く・だ・さ・い」


王は渋々、帳簿を開いた。


人買いへの支払い。


新たに入ってきた者たちの食費。


住居。


衣服。


治療。


子供の教育。


職業を持たぬ者への訓練。


数字がずらりと並んでいる。


王は一頁めくった。


閉じた。


「なるほど」


「何がなるほどですか」


「金がかかっておる」


「陛下が始めたのです!」


「知っておる」


財務卿の眉間に、深い皺が刻まれた。


三月前より増えたように見える。


「現状、支出が増え続けております。鉱山、農地、工房への配置も始まっておりますが、税収として戻るのはまだ先です」


「そうであろうな」


「そうであろうな、ではございません」


「では何と申せばよい」


「せめて少しは心配してください」


「其方が十分しておるではないか」


財務卿は何かを言いかけた。


宰相が片手を上げた。


「……その件は後にしましょう」


財務卿は王を睨んだまま、帳簿を引き寄せた。


誰も、三月前の決定を忘れてはいなかった。


外国から人を買う。


しかも買った人間を奴隷にするわけでもない。


飯を食わせ、家を与え、賃金を払い、子供には文字まで教える。


国庫から金貨だけが出ていく。


それが何を生むのか。


まだ、誰にも分からない。


「本日の議題はこちらです」


宰相が別の書類を広げた。


「教会についてです」


その言葉で、空気が変わった。


王もそれには気づいたらしい。


「教会?」


「はい。戴冠後、正式に教会側とお会いになるのは初めてとなります」


数日後。


王は国内の教会を束ねる高位聖職者たちと謁見する。


先王の時代から続く、王国とは別の巨大な組織。


王が代わっても、神は代わらない。


国境を越えて信徒を持ち、王侯より古い歴史を持つ。


その教会が近年、急速に力を増していた。


宰相が報告書を読む。


「この五年で、信徒は大きく増加しております。貴族にも入信する者が増えました。土地や財貨の寄進も相次いでおります」


「人気者なのじゃな」


誰も返事をしなかった。


王が顔を上げる。


「……なんじゃ」


「続きを」


宰相の声は平坦だった。


「教会領も拡大しております。また各地で救貧院、孤児院、施療所を設け、農村では食糧の配給も行っています」


「よいことではないか」


また、沈黙した。


今度は少し長かった。


王が周囲を見回す。


「……何かおかしいことを申したか?」


「いいえ」


「ではなぜ黙る」


「続きをどうぞ」


財務卿は帳簿を見たままだった。


「我が続きを申すのか?」


宰相が小さく息を吐いた。


「陛下。問題は、教会が民の生活そのものに強い影響を持ち始めていることです」


「助けておるからであろう?」


「その通りです。飢えた者へ食事を与える。病人を診る。親を失った子供を育てる。読み書きまで教える。そうなれば、民が誰に感謝するかは明白です」


「神か?」


「教会です」


「神ではないのか?」


「……今はそこを議論しておりません」


軍務卿が口を挟んだ。


「信徒の中には兵もおります。貴族もおります。もし王国と教会の意向が対立した場合、彼らがどちらへ従うか」


「なるほど」


王は頷いた。


「それは困るな」


初めてまともな反応が返ってきた。


財務卿の視線が、わずかに上がる。


宰相も王を見る。


王は少し考えた。


「ならば対立しなければよいのではないか?」


財務卿の視線が帳簿へ戻った。


「陛下」


「なんじゃ」


「世の中の問題がすべてそれで済めば、私はもう少し眠れております」


「寝ておらぬのか?」


財務卿が顔を上げた。


王は黙った。


「……続きを申せ」


「賢明です」


宰相が咳払いをした。


「教会内部では、陛下を公然と批判する声も出始めています」


「我を?」


「先日の説教では、『民が飢える中、人を金で買う王がいる』と」


王が目を瞬いた。


「我じゃな」


「陛下以外に誰がいるのです」


「有名になったものじゃ」


「喜ばないでください」


さらに別の報告書が開かれる。


「『人を金貨で数える王に、神の慈悲は理解できぬ』とも」


「ふむ」


「『若き王の愚行によって国庫は浪費され、そのツケを払うのは民である』」


財務卿の手が止まった。


王がそれを見る。


財務卿は目を逸らした。


「……なんじゃ」


「何も」


「今、少し頷かなかったか?」


「気のせいです」


「我には見えたぞ」


「気のせいです」


宰相が続けた。


「そして数日後、その教会の代表者たちが王宮へ参ります」


部屋が静かになった。


これは、説教への苦情を言う場ではない。


若い王と教会。


戴冠後、初めて互いの距離を測る場になる。


先王は教会を尊重した。


教会もまた、王権を尊重した。


長い年月をかけて保たれてきた均衡である。


その片側に今いるのは、


三月前に突然、人を買い始めた二十一歳だった。


「陛下」


宰相が王を見る。


「お願いがございます」


「なんじゃ」


「まず、お話をお聞きください」


「聞くぞ」


「最後までです」


「聞くと言っておる」


「その場で思いついたことを、すぐ口になさらぬよう」


王の眉が動いた。


「我をなんだと思っておる」


財務卿が帳簿を閉じた。


ぱたん。


「陛下」


「なんじゃ」


「今回は、金貨で解決しようなどとはお考えになりませぬよう」


「まだ何も申しておらぬぞ」


「ですから、先に申し上げております」


「失礼ではないか?」


誰も王を庇わなかった。


「……分かった。何もせぬ」


「何もしないとも申し上げておりません」


「ではどうせよというのじゃ!」


「普通にしてください」


「普通とはなんじゃ!」


誰も答えられなかった。


◇


数日後。


王宮の謁見の間に、白と金の法衣をまとった者たちが並んでいた。


その中央。


教会を代表する老聖職者が、玉座へ向かって深く頭を下げる。


「御即位、改めてお慶び申し上げます。陛下」


「うむ」


「我ら教会は神の御心のもと、これからもアストリアの民に尽くす所存にございます」


「それは結構」


王は機嫌よく頷いた。


「聞いておるぞ。孤児を育て、病人を診て、貧しい者に飯を配っておるそうではないか」


「我らはただ、神より与えられた使命を果たしているに過ぎませぬ」


「大したものじゃ」


「もったいなきお言葉」


老聖職者は再び頭を下げた。


その後ろに並ぶ者たちも、静かにそれへ倣う。


滑り出しは悪くない。


宰相は、ほんの少しだけ肩から力を抜いた。


少なくとも今のところ。


王は余計なことを言っていない。


「ところで陛下」


老聖職者が顔を上げた。


「本日は、一つお願いがございます」


宰相の肩に力が戻った。


「申してみよ」


「王都より北西に、セラムという小さな村がございます」


昨年の凶作。


続く長雨。


橋が落ち、街道が傷み、商人が寄りつかなくなった。


作物を売ることも難しくなり、冬を越すために種籾まで食べた家があるという。


教会はすでに食糧を送り、病人の手当てもしている。


しかし、それだけでは足りない。


「このままでは、次の冬を越せぬ者も出ましょう」


老聖職者は静かに言った。


「我らは、あの村を救いたいと考えております」


「そうか」


「ですが教会だけの力では、道や橋まで直すことは難しい。どうか陛下にも、お力添えをいただきたく」


「よかろう」


宰相が王を見た。


早い。


あまりにも早い。


「必要なものは?」


「陛下」


宰相が口を挟んだ。


王が振り向く。


「なんじゃ?」


「まずは被害状況を調べましょう」


「困っておるのであろう?」


「困っております。しかし必要な金額も、人員も、資材も分かっておりません」


「なら聞けばよいではないか」


「ですから、それをこれから調べるのです」


「では調べよ」


「陛下」


今度は財務卿だった。


声が低い。


「くれぐれも、その場で国庫から出すなどとは」


「分かっておる」


「本当に?」


「しつこいぞ」


そのやり取りを見ていた聖職者の一人が、目を丸くした。


すぐに視線を伏せる。


その口元が、わずかに緩んだ。


老聖職者も咎めなかった。


むしろ先ほどまでより、その表情から硬さが消えている。


若い。


聞いていた通りだ。


そして、おそらく。


扱いやすい。


「心配するな」


王は言った。


「我だけで出すつもりはない」


財務卿の眉が動く。


「……と、申しますと?」


「ああ」


王は何かを思い出したように、扉へ目を向けた。


「そろそろ来る頃ではないか?」


宰相が怪訝そうな顔をする。


「誰が、でございます?」


「呼んでおいた」


「誰をです」


「商人じゃ」


今度こそ、宰相が黙った。


「……聞いておりませんが」


「言っておらぬからな」


財務卿が目を閉じた。


その瞬間。


謁見の間の扉が開いた。


◇


男の名は、レオン・バルツ。


四十二歳。


王都商業組合の代表であり、鍛冶、石工、木工、荷運びなど、複数の職人組合との交渉を任される盟主でもある。


商人からは顔役と呼ばれ、職人からは銭勘定の亡者と呼ばれている。


本人はどちらも褒め言葉だと思っていた。


そんな男が今。


玉座の前で、少し困っていた。


「お召しにより参上いたしました」


「うむ」


「……して、陛下。本日はどのような御用でしょうか」


「知らぬ」


レオンは顔を上げた。


「は?」


「今から話す」


宰相が片手で額を覆った。


どうやら自分だけが聞かされていなかったわけではないらしい。


それだけは少し安心した。


王が老聖職者を見る。


「先ほどの村の話を、もう一度してやれ」


「……陛下?」


「こやつにも聞かせねば分からぬであろう」


老聖職者は一瞬だけ沈黙した。


だが断る理由もない。


セラム村の窮状が、もう一度説明された。


橋。


道。


井戸。


農具。


食糧。


種籾。


話を聞くうちに、レオンの顔が商人のものへ変わっていく。


「なるほど」


説明が終わると、王が言った。


「どうじゃ?」


「どう、と申されましても」


「直せるか?」


「橋や街道でしたら、職人は集められます。井戸も可能でしょう」


「ではやれ」


「お待ちください」


即答したのはレオンだった。


宰相が少しだけ彼を好きになった。


「陛下。人を動かせば賃金が発生します。木材も石材も鉄も要る。運搬にも金がかかります」


「うむ」


「我々は商人です」


「知っておる」


「慈善だけでそれだけの事業はできません」


「なぜじゃ?」


レオンは一瞬、王が冗談を言っているのかと思った。


違った。


本当に分かっていない顔をしている。


「……利益が出ないからです」


「利益が出ればやるのか?」


「それは、条件によりますが」


王は少し考えた。


そして、老聖職者を見た。


「其方らは、こういうことをすると税を取られぬのであったな?」


空気が止まった。


老聖職者の目が細くなる。


「……教会の財は神へ捧げられたものにございます」


「うむ」


「そして我らは、その財を民への救済へ用いております。ゆえに歴代の王は、教会領とその事業に特別な扱いを認めてこられました」


「なるほど」


王は頷いた。


「なら簡単ではないか」


レオンを見る。


「其方らも、同じにすればよい」


「……同じ?」


「民を救うのであろう?」


王は指を折る。


「道を直す。橋を架ける。井戸を直す。食糧を運ぶ」


そして笑った。


「よいことではないか」


レオンは黙った。


頭の中で何かが動き始めた。


街道が直る。


荷馬車が通る。


市場が戻る。


村が立ち直れば、物が売れる。


そのうえ。


「陛下」


レオンが慎重に尋ねた。


「つまり……この事業へ我々が資金や人員を出した場合、その分について税の優遇を認める、と?」


「教会には認めておるのであろう?」


王は宰相を見る。


宰相は答えなかった。


代わりに財務卿を見る。


財務卿も答えなかった。


二人とも、王を見ている。


三月前と同じだった。


また。


何かを思いついた。


それも、よりによって。


教会との初対面で。


「陛下」


老聖職者の声が、それまでよりわずかに低くなった。


「教会への免税は、単なる慈善への褒賞ではございません」


「そうなのか?」


「神へ捧げられた財を俗世の税へ供さぬという、古くからの盟約にございます」


「なるほど」


王はあっさり頷いた。


老聖職者の表情がわずかに戻る。


「では、それはそのままでよい」


今度は教会側が黙った。


「……そのまま?」


「先王たちが認めたのであろう?」


「はい」


「なら我が気に入らぬからと反故にはできぬ」


王は当然のことのように言った。


「其方らはこれまで通りでよい」


老聖職者は王を見つめた。


王は続ける。


「ただし」


その一言で。


老聖職者の後ろにいた者たちの表情が固まった。


「同じように民の役に立った者にも、同じように褒美をやればよいではないか」


「陛下」


「なんじゃ?」


「商人は、利益のために動く者たちです」


老聖職者の声には、初めて明確な棘があった。


王はレオンを見る。


「そうなのか?」


「否定はいたしません」


「正直でよろしい」


「ありがとうございます」


「では問題ないな」


「……何がでしょう」


王は首を傾げた。


「村は救われるのであろう?」


誰も答えなかった。


「教会は神のために救う」


一本。


「商人は金のために救う」


二本。


王は指を立てたまま、少し考えた。


「村人に違いがあるのか?」


老聖職者の口が閉じた。


レオンも黙っていた。


ただし。


こちらは別の理由だった。


計算している。


免税。


街道。


橋。


新しい市場。


職人への仕事。


荷運び。


復興後の取引。


もし条件が整えば。


これは慈善ではない。


商売になる。


「……陛下」


レオンが言った。


「具体的な条件を、伺っても?」


その瞬間。


教会側の視線がレオンへ向いた。


先ほどまでの穏やかな空気は消えていた。


王だけが変わらない。


「知らぬ」


「……はい?」


「これから決めればよかろう」


財務卿が勢いよく顔を上げた。


「陛下!」


「なんじゃ!」


「免税を思いつきで増やさないでください!」


「だが其方、教会には認めておるではないか!」


「何百年も前からです!」


「古ければよいのか!」


「そういう話ではありません!」


「ではどういう話じゃ!」


謁見の間に怒鳴り声が響いた。


レオンは目を瞬いた。


教会の者たちも、しばらく言葉を失っていた。


やがて老聖職者が静かに口を開く。


「……陛下」


「なんじゃ」


「我ら教会が願い出たのは、セラム村の救済にございます」


「うむ」


「そのためであれば、商人や職人の力を借りることそのものに異論はございません」


言わざるを得なかった。


村を救いたいと言ったのは、自分たちだ。


王国も協力する。


商人も協力する。


職人も来る。


それを拒む理由を、この場で口にすることは難しい。


王が笑った。


「では決まりじゃな」


「ただし」


老聖職者が続ける。


「教会に認められてきた権利については、改めてお話しさせていただきたく存じます」


「構わぬぞ」


あまりにも軽い返事だった。


「其方らから何か取り上げるつもりはない」


老聖職者は、王を見た。


先ほどまでとは違う目だった。


目の前にいるのは。


噂通りの愚かな若王なのか。


それとも。


「では、皆で救えばよい」


王は笑っている。


「その方が早いであろう?」


誰も笑わなかった。


ただ一人。


レオン・バルツだけが、王とは別のものを見ていた。


街道。


橋。


村。


市場。


荷馬車。


職人。


税。


そして、その先にある金の流れ。


救貧をする教会。


利益を求める商人。


国を治める王。


今まで別々だったものが、一つの村の上で重なり始めている。


レオンは口元に手を当てた。


少しだけ。


笑った。


「……面白い」


その呟きを。


聞いた者はいなかった。

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