第9話 春季茶会、御用達認定と、反論不能の証拠
昨夜の山梔子の蕾は、朝の光のなかで、ひとつ、ふたつと白く開いていた。
(……眠れなかった。)
(眠れなかったけれど、顔には、出さないように。)
鏡のなかの私は、薄く化粧を直して、夜会服ではなく、陛下が整えてくださった昼の礼服に着替えていた。白に近い淡い灰緑の絹、襟元に銀糸の細い縁取り。控えめ、と言えば控えめ。御用達商会の長として、華美にならず、粗末にもならず。ちょうど、そういうあんばいの一着。
ミレイが、私の後ろから、髪の上のほつれをひと筋、そっと直してくれた。
「お綺麗でございます」
「ありがとう。……あなたも」
彼女も今日は、礼服の支度をしていた。普段の作業着とは違う、若い貴族の娘に戻った時の顔。
「ミレイ。昨夜、王妃陛下から、仰ったこと。覚えておいでですか」
「はい」
「今日、名誉は、戻るわ」
「……はい」
彼女の指が、ほんのわずかに、前掛けの代わりの布手袋の縁を握った。
「戻ります。戻ったあと、どうするかは、私が選びます。そのように、申し上げるつもりでございます」
◇
王宮の薔薇の広間。
窓辺に白と淡紅の薔薇が段に重なって、陽の光がその花弁越しに、床の大理石に柔らかい模様を落としていた。長い卓のまわりに、国内の主だった貴族のお歴々。末席に、御用達候補の商会の者と、その従者。
上座。
国王陛下。そのかたわらに王妃陛下。国王陛下は、想像していたより静かなお声の方だった。長年、静かに聞く耳を澄ませてきた人の、鋭い穏やかさ。
少し離れたところに、王太子アレクシス殿下。
そして反対側の列に——シャルロット・エーデル様。父であるエーデル公爵閣下。取り巻きの公爵夫人がた。
シャルロット様は、今朝も、完璧な微笑を携えていらした。完璧、だった。完璧だからこそ、昨夜、庭園から戻った私の目には、妙に、薄い絹越しに見える微笑に見えた。
私の隣には、クラウス・ファルシュタイン卿。
昨夜以降、一言も交わしていない。目だけが、開会前にほんのひと瞬、合った。合って、彼はごくちいさく、頷いた。大丈夫、と言っているふうでも、すまない、と言っているふうでもあった。たぶん、両方だったのだろう。
◇
「皆の者」
国王陛下のお声が、広間を穏やかに満たした。
「本日の春季茶会においては、例年の御用達認定に加え、いくつか、しかるべき裁きを申し渡す」
会場の空気が、きり、と引き締まった。
「まず——」
陛下は、王妃陛下のほうへ、視線を軽く渡された。
王妃陛下は、侍従長から受け取った文書に軽く目を落とし、静かな声で読み上げられた。
「ロートリング商会を、本年をもって、王室御用達商会として認定いたします。薔薇水、紅茶、石鹸の諸品について、意匠・製法・専売は魔導具師ギルドの認可に従い、王室はこれを庇護する」
(——認定、された。)
(された。)
(ああ、座っているのに、座っているのに、ちゃんと座っていられないわ、これ。)
腰が、椅子のうえで、一度、ほんのわずかに沈んだ。気づかれていないといい。
広間のあちこちから、控えめな拍手が起きた。フォルクハルト夫人の、よく響く手拍子。伯爵夫人ルイゼ様の、優雅に折り重ねた手のさざめき。近衛に挟まれた位置にいる老貴族の方も、何度か頷いてくださっていた。
◇
「続けよ」
陛下のひと言で、広間が、もう一度、鋭く静まった。
王妃陛下は、別の束の羊皮紙を、侍従長へお渡しになった。
「先の春の夜会にて、我が王太子アレクシスが、公の場において、婚約者コッツェン男爵家令嬢ミレイに対し、婚約解消の宣告を行った件について。我らは新たな証拠を得、これを審議した」
アレクシス殿下の目が、一瞬、宙で止まった気配がした。
「一、王太子の断罪の根拠となった、密会の書状及び手紙の束」
侍従長が、その証拠を、列席の面々に掲げた。
「王室書記官長ならびに独立した筆跡師の鑑定により、当該書面の筆跡は——コッツェン令嬢のものではない」
拍動が、会場の空気のなかを、ひとつ、低く走った気がした。
「鑑定書記の合致先——エーデル公爵令嬢シャルロット嬢の、直筆の文書と一致する」
シャルロット様の、扇の手が、ほんの毛筋ぶん、止まった。
「二、王都郊外の両替商より、昨年秋、エーデル公爵家のご家僕より、異常額の金貨のご両替を受けた旨、当時の帳簿および刻印にて裏取りがなされた。その金貨の刻印は、のちに、王都周縁の三名の証言者が、『密会』の偽証と引き換えに受け取ったと申し述べるに至った」
「三、いずれの証言者も、獄舎にて当主の名を伏せられたまま拘束されていた期間に、繰り返し、同一の人物——すなわちエーデル公爵家のご家僕から——報酬の追加と沈黙の要請を受けていたと、自白状に明記した」
シャルロット様の微笑が、微笑のまま、ゆっくり、ゆっくりと、強ばっていった。
崩れたのではない。笑っているまま、凍っていった。
それが、たぶん、いちばん、見ていて辛かった。
(……ご自分のお書きの字に、ご自分で、追い詰められていく。)
(ご自分の、出した金貨の刻印に。)
(復讐というのは、本当に、しなくていい。)
(しなくていいのだわ。)
胸のどこかが、じわり、じわりと、温い水に沈んでいくような感覚。爽快感とは、少し違う。なにか——怒りが、ちゃんと、行き場に収まる、その安堵に近い、静かさ。
◇
国王陛下の裁定は、短かった。
シャルロット・エーデル嬢——家門にて蟄居。社交界への出仕、停止。
エーデル公爵——宰相位は留任。ただし今後、王太子補佐の任、ならびに王家縁組の推挙権、これを差し止めとする。
アレクシス殿下——王太子位、一時停止。遠方の、国境の駐屯地への視察、長期。戻りの沙汰は、陛下の判断を俟つ。
殿下は、顔を上げなかった。ひと言も、言葉を、挟まなかった。
(ご自分で、調べなかった。)
(お耳に入る声を、そのまま信じた。)
(それだけの、お咎め。)
ミレイが、私の横で、そっと息を吐いた。涙ではなかった。長く止めていた息が、ようやく、自然に流れるようになった、その音。
◇
「最後に」
王妃陛下が、静かに、ミレイのほうへ視線を送られた。
「コッツェン令嬢ミレイ。王太子との婚約解消は、虚偽の告発に基づくものであり、本日をもって、汝の名誉を完全に回復する。婚約そのものの復旧について、望むや否や、この場で、汝の口より、直に聞きたい」
ミレイは、立ち上がった。
立ち上がって、王妃陛下に、深く礼をした。
「畏れ多くも、謹んで、お答え申し上げます」
声が、細く、けれど、しっかりとしていた。
「名誉のご回復、厚く御礼申し上げます。——ただし、わたくしは、もはや、王太子殿下との婚約の復旧を、望みません」
広間のあちこちで、絹の音がさざなみ立った。
「わたくしは、ロートリング商会の従業者として、今の仕事に、やりがいをいただいております。対等な契約のもとで、日々、帳簿と石鹸の型に向かっております。その仕事が、わたくしには、合っております」
陛下は、ちいさく頷かれた。
「——よろしい。汝の意志を、尊ぶ」
ミレイが、私のほうを一瞬、見た。
見て、ほんのかすかに、笑った。
私も、笑い返した。たぶん、うまく返せた。
◇
そこで、陛下が、私のほうへ、目を向けられた。
「ロートリング嬢」
「は、はい」
「もうひとつ、宣告ではなく——公の場に、申し渡しておきたきことが、本日はある」
(……もうひとつ?)
陛下の視線が、私の隣の、夜色の礼装の男性のほうへ、ゆっくりと渡った。
「クラウス」
ひと言だけ。
ひと言の呼び方のなかに、たしかに、父が我が子を呼ぶときの響きが混じっていた気がした。
クラウス卿が、立ち上がった。
国王陛下に深く礼をしてから、長い卓のこちら側へ、まっすぐ歩いてきた。私の椅子の、ちょうど真ん前で、足を止めた。
手袋の手が、ゆっくり、引き抜かれた。
素手。
長く、骨ばった指。怪我をした私の指を、ひたり、と押さえたときの、その手。
「エルーシア・ロートリング殿」
低い声が、広間の隅まで、まっすぐ届いた。
「私は、王の血を、継承の列から返上した者です。王族としての権も、責も、私の上には、もう、ありません」
「はい」
「継承のない、元第二王子として——そして、ひとりの、あなたの客として、申し上げます」
彼の喉が、ほんの一度だけ、ちいさく動いた。
「私は、あなたを、選びます」
広間の、絹擦れの音が、しいん、と止まった。
「あなたが、この手を取らぬと仰せになるなら、私は、もう一度、店の戸口から通い直します。何度でも。『視察』で、参ります」
……視察。
その、ひと言。
その、ひと言で。
私は、吹き出しそうになって、堪えた。堪えたぶん、目の縁に、正しくない水が、うっすらにじんだ。
恥ずかしかった。
けれど、指先は、勝手に動いていた。
差し出された、素手の、手袋も脱いだままの、その手に。
私の指が、そっと、触れた。
触れてから、握り返した。
握り返す力のかたさに、私自身が、いちばん、驚いた。
◇
会場の、どこかから、ほっと、安堵のような、拍手のような、柔らかい音が起きた。フォルクハルト夫人が、たぶん、先陣を切ったのだと思う。ルイゼ様が続いて、子爵夫人が続いて、知らない貴族のお方がたが、ぱらぱらと、続いた。
その音の広がりの、ほんの少しだけ向こうで。
シャルロット様は、立ち上がって、深く頭を下げ、付き人とともに、広間を退出していかれた。
退出される、その直前。
彼女の扇が、一度、ぎゅっと、握りしめられた——ような気がしたけれど。
——見なかったことにした。
モブ令嬢だった頃からの、私の、ささやかな流儀。
◇
茶会のあと。
長い廊下の端の、薔薇の植え込みのそばで、クラウス卿は、私の歩みに、静かに並んだ。
「エルーシア殿」
「……はい」
「今夜、店のほうへ、伺ってよろしいか」
「は、はい」
「お話し、申し上げたいことが、ございます」
「……昨夜も、そう仰いましたね」
「今夜のほうが、大事なほうでございます」
低く、短い声。
誰も、見ていない廊下の、陽の傾きかけた光のなかで、彼はごく小さく、目元をほぐした。
笑った、のかもしれない。
私は、その表情を、たぶん、一生、忘れない気がした。




