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モブ令嬢のつもりでしたが、気づいたら国一番の商会を築いていたらしいです  作者: 秋月 もみじ


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第8話 舞踏会の真実、逃げ出す令嬢、追う騎士


「息を止めないでくださいませ、エルーシア様」


背中で絹紐を締めてくれているミレイが、くすり、と笑った。


「は、はい……いえ、気をつけますが、なにせ、こういうのは、あまり」


「慣れなさいませんね」


「慣れる必要があると思っていなかったのよ」


鏡のなかの私は、ふた月ほど前までの私より、だいぶ貴族令嬢らしい顔をしていた。


当然だった。今夜の夜会服は、王妃陛下が「候補者としての支度」と称して仕立てさせてくださったもの。淡い浅葱色の絹に、袖口と襟元に白い山梔子の刺繍。首飾りは母の形見の真珠。耳元には、店で扱う薔薇の香油を、ほんのひと滴だけ。


(——モブらしくない、わね。)


(けれどモブとして、今夜の椅子に座ることは、たぶん、もう、できない。)



約束の時刻より少し前、店の前に馬車が着いた。


気配で気づいた。私は階段を下りながら、思わず、息を整えるのに手間取った。


戸口で待っていたのは、夜色の礼装の人。


儀礼用の正装だった。肩章は、いつもの騎士団長のもの。ただし胸元には、見たことのない銀の略綬がひと本、増えている。


「ファルシュタイン卿」


「……迎えに参りました」


声は、いつもより、わずかに硬かった。


灰色の瞳は、私の顔を見て、そこで、一瞬だけ止まった。ほんの一拍、言葉を探す沈黙があって、けれど結局、彼は何も言わず、馬車の踏み台を自分の手で下ろした。


——なにか、言いかけた。


たぶん、言いかけた。


(何を、ですか?)


(訊いても、よろしいでしょうか?)


訊けなかった。馬車に乗るために支えてくださった手袋越しの手が、思ったより強張っていたから。



王宮大広間の燭台の光は、夜を綿菓子のように白く染めていた。


宝石、絹、羽根、香、笑い声、扇のはためき。遠くで楽団が弦を合わせる音。


侍従長が、次々と、招待客の名を読み上げていた。声は張りすぎず、けれどよく通る、ああいう声の使い方は、前世でも職業的な技術があったはずだ、と場違いなことを考える。


「——ロートリング男爵家、令嬢エルーシア様ご入場」


名を呼ばれて、私は階段の手すりにごく自然に指先を添えた。添えたつもりだった。実際には、真珠の糸でも辿るように、おそるおそる降りた気がする。ミレイは少し離れた位置から、静かに頷いて励ましてくれた。


「——王国騎士団長、クラウス・ファルシュタイン卿ご入場」


私の後ろで、同じ侍従長の声が、続いた。


そして。


「卿におかれましては、継承権をお返しになられました元第二王子として、本夜のお運びにあたり、正しき御出自もあわせてご披露申し上げます」


広間の、そこかしこで。


絹擦れの音が、一斉に、ひとつ深い呼吸になった。



(——え。)


(……え?)


自分の足が、階段の途中で、ひと段だけ、置き所を見失った気がした。


けれどすぐに戻した。広間に向かって、笑みの形を保ったまま、降りきった。


降りきってから、私の頭のなかは、ぐるぐるだった。


(元、第二王子。)


(「元」? 継承権放棄。)


(ということは、王弟殿下……ではなくて、陛下のお子様? 王太子殿下の弟君?)


(弟君って、ええと、お名前は確か、幼少の頃にご病弱とされて、若くして国外の修道院で勉学を、という記録が、どこかに……)


(嘘でしょう。嘘でしょう。嘘でしょう。)


(私、このお方に、試作の紅茶を雑に出してた。)


(私物の手巾を、血で染ませた。)


(「いえ、雑巾を」って、言った。)


(言った。)


(言ってしまった。)


頬の内側が、じわじわ、じわじわと、熱くなる。緋色を通り越して、赤紫の熱。


広間の人々の視線が、ひとつ残らず、私と、私の隣に並んで歩いてくる彼の間を、行ったり来たりしていた。



挨拶の順列を、私はたぶん、半分ほど、頭のなかで取り違えていたと思う。それでもなんとか型は外さなかった。前世の体育会系的な会議作法と、今世の教育係のしつこい稽古が、体に染みついていて助かった。


そこへ。


扇を優雅に閉じて、艶やかな薄紅の絹が、私の近くまで歩み寄ってきた。


シャルロット・エーデル様。


彼女の後ろには、取り巻きの令嬢たちが、扇の半分を開いたまま、わざとらしく囁き合っていた。


「あら、ロートリング嬢、本日は」


「ご機嫌よろしゅうございます、エーデル様」


「新しい御用達の候補に、ご商売のあるお方までおあがりになる時代ですのねえ。昔でしたら、そう、もう少し、お生まれを、吟味したものですけれど——ねえ、あなた方、最近の風潮について、どうお思いになる?」


取り巻きが、くすくす、と口を揃える。


「そうですわねえ、最近は、商いをなさる男爵家のお嬢様が、王家の奥向きの書類までお手に入れるそうで」


「まあ、恐ろしい」


「出自の、怪しいご使用人を、お雇いになっているとも伺いましたわ——」


(出た。)


(そこを、突くのね。)


ミレイの指が、私の背後で、ちいさく強張ったのが分かった。


笑みの形を崩すまい、と私は扇を持つ指に、少しだけ力を入れた。


入れた、その時。


横合いから。


「——あら、シャルロット嬢。新作の香油、今日はつけていらっしゃらないのね?」


フォルクハルト夫人の、澄んだ声。


「わたくしの連れが、先ほど、お捜ししていたのですけれど」


伯爵夫人のルイゼ様が、すうっと扇を開いた。


「そうそう、ロートリング商会の薔薇水、どちらに仕舞い込んでしまわれたのかしら。せっかくの夜会ですもの、いちばん香らせたいお相手にこそ、お使いになればよろしいのに」


続けて、後ろから、子爵夫人。


「——そういえば最近、某家のお庭でも、あちらのお品を所望なさっておられるとか? ねえ、エーデル様、あなた様のご実家でも、たしか、あちらのお店のお品を、ちょうど、お試しになっておられるのでございましょう?」


取り巻きの令嬢のひとりが、うっ、と喉を鳴らした。


その、さらに後ろから、別の見覚えのあるご婦人が、笑いながら加わってきた。


「まあまあ皆さま、ここは舞踏会でございますわよ。香りの話は、明日のお茶会でゆっくりと——ねえ、ロートリング嬢、ワルツの時間ですわよ。ご一緒してくださる騎士の方を、お探しなさらなくては」


扇、扇、扇。


真顔と、微笑と、半眼。いつかの午後、うちの店で並んでいたときと同じ顔ぶれが、今夜はシャンデリアの光のもとで並んでいた。


絹の壁。


私の側には、音もなく、優雅な薔薇色と空色と萌黄色の壁が、できていた。


シャルロット様は、扇の角度を、一度、整えなおした。


微笑は、保たれていた。保たれていた、ぶんだけ、冷たかった。


「……失礼いたしますわ」


絹の衣擦れが、遠ざかっていった。



広間の空気は、何事もなかったかのように、ワルツを受け入れた。


私は、受け入れられなかった。


一曲、耐えた。二言、耐えた。フォルクハルト夫人に「少しだけ、風に当たってまいります」と小声で断って、廊下の奥の、庭園に通じる硝子扉を、そっと押した。



夜の庭園は、しん、と湿っていた。


山梔子の蕾が、夜の闇に白く浮かんで、少しだけ甘い香りを流していた。


敷石の上を、裾をつまんで、先へ、先へ。


木犀の植え込みの角で、サテンの扇を、どこかに落とした。拾う余裕は、なかった。目のふちに滲んだのは、涙ではなくて——走った分だけの、汗だった。


「エルーシア殿」


低い声が、背中のすぐ後ろに、追いついた。


外套は身につけていない。上着の肩だけで、夜気を受け止めてきたのがわかる、呼吸の上下。


振り返れなかった。


「……あなたを、怖がらせた」


静かだった。


「隠していた理由を、お話し申し上げなければならない」


「……いえ」


「いえ、ではない」


彼は、一歩、距離を詰めた。


裾の絹が、草を擦る、ちいさな音がした。


「私は——王族としてあなたに見られたくなかった。それだけのことだった」


(……それだけ、の?)


「店に通う理由を、尋ねられるのが、怖かった。尋ねられて『視察』と言い張るときだけ、私は、あなたの隣に座れた。子どもじみている。今夜、それを、改めて悟った」


背後の気配が、ゆっくり、低くなった。


片膝、ではない。腰をかがめただけ。手袋のそろえられた手が、私の裾の少し手前の、敷石の上で止まった気配。


「それでも」


彼の声が、掠れた。


「それでも、この手を、離したくない」


振り返った。


振り返らないでは、いられなかった。


灰色の瞳が、夜の植え込みの暗がりと、遠い広間の光の両方を宿して、私をまっすぐ見ていた。


夜風が、山梔子の蕾を揺らす音だけが、二人の間に流れた。


「……ファルシュタイン卿」


「クラウス、と」


「え」


「クラウスと、呼んでほしい」


耳の奥が、一瞬、何も聞こえなくなった。


聞こえなくなって、次に聞こえたのは、自分の心臓の、ごく小さな、ごく律儀な、鼓動の音だった。


「……本日は——夜気に当たりとうございます。ひとり、で」


言えたのは、それだけだった。


彼は、目を伏せた。伏せて、ひとつ、深く頷いた。


「明日」


「はい」


「茶会で、全てが決着する。陛下より、ご発表がある」


「……全て」


「全てです」


彼はそれだけ言って、庭園の石畳の上を、一歩、私から離れた。


離れて、けれど、振り返らずに、広間の光のほうへは戻らなかった。夜の庭の、少し離れた柱廊の影に立って、そこから、こちらの様子だけを、遠く、じっと守るように見ていた。


山梔子の白い蕾の、ひとつが、ひらりと開きかけていた。


——クラウス、と。


彼の低い声の残響だけが、夜の庭のなかで、ゆっくり、ゆっくりと、私の耳の奥に、居場所を作り始めていた。

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