第8話 舞踏会の真実、逃げ出す令嬢、追う騎士
「息を止めないでくださいませ、エルーシア様」
背中で絹紐を締めてくれているミレイが、くすり、と笑った。
「は、はい……いえ、気をつけますが、なにせ、こういうのは、あまり」
「慣れなさいませんね」
「慣れる必要があると思っていなかったのよ」
鏡のなかの私は、ふた月ほど前までの私より、だいぶ貴族令嬢らしい顔をしていた。
当然だった。今夜の夜会服は、王妃陛下が「候補者としての支度」と称して仕立てさせてくださったもの。淡い浅葱色の絹に、袖口と襟元に白い山梔子の刺繍。首飾りは母の形見の真珠。耳元には、店で扱う薔薇の香油を、ほんのひと滴だけ。
(——モブらしくない、わね。)
(けれどモブとして、今夜の椅子に座ることは、たぶん、もう、できない。)
◇
約束の時刻より少し前、店の前に馬車が着いた。
気配で気づいた。私は階段を下りながら、思わず、息を整えるのに手間取った。
戸口で待っていたのは、夜色の礼装の人。
儀礼用の正装だった。肩章は、いつもの騎士団長のもの。ただし胸元には、見たことのない銀の略綬がひと本、増えている。
「ファルシュタイン卿」
「……迎えに参りました」
声は、いつもより、わずかに硬かった。
灰色の瞳は、私の顔を見て、そこで、一瞬だけ止まった。ほんの一拍、言葉を探す沈黙があって、けれど結局、彼は何も言わず、馬車の踏み台を自分の手で下ろした。
——なにか、言いかけた。
たぶん、言いかけた。
(何を、ですか?)
(訊いても、よろしいでしょうか?)
訊けなかった。馬車に乗るために支えてくださった手袋越しの手が、思ったより強張っていたから。
◇
王宮大広間の燭台の光は、夜を綿菓子のように白く染めていた。
宝石、絹、羽根、香、笑い声、扇のはためき。遠くで楽団が弦を合わせる音。
侍従長が、次々と、招待客の名を読み上げていた。声は張りすぎず、けれどよく通る、ああいう声の使い方は、前世でも職業的な技術があったはずだ、と場違いなことを考える。
「——ロートリング男爵家、令嬢エルーシア様ご入場」
名を呼ばれて、私は階段の手すりにごく自然に指先を添えた。添えたつもりだった。実際には、真珠の糸でも辿るように、おそるおそる降りた気がする。ミレイは少し離れた位置から、静かに頷いて励ましてくれた。
「——王国騎士団長、クラウス・ファルシュタイン卿ご入場」
私の後ろで、同じ侍従長の声が、続いた。
そして。
「卿におかれましては、継承権をお返しになられました元第二王子として、本夜のお運びにあたり、正しき御出自もあわせてご披露申し上げます」
広間の、そこかしこで。
絹擦れの音が、一斉に、ひとつ深い呼吸になった。
◇
(——え。)
(……え?)
自分の足が、階段の途中で、ひと段だけ、置き所を見失った気がした。
けれどすぐに戻した。広間に向かって、笑みの形を保ったまま、降りきった。
降りきってから、私の頭のなかは、ぐるぐるだった。
(元、第二王子。)
(「元」? 継承権放棄。)
(ということは、王弟殿下……ではなくて、陛下のお子様? 王太子殿下の弟君?)
(弟君って、ええと、お名前は確か、幼少の頃にご病弱とされて、若くして国外の修道院で勉学を、という記録が、どこかに……)
(嘘でしょう。嘘でしょう。嘘でしょう。)
(私、このお方に、試作の紅茶を雑に出してた。)
(私物の手巾を、血で染ませた。)
(「いえ、雑巾を」って、言った。)
(言った。)
(言ってしまった。)
頬の内側が、じわじわ、じわじわと、熱くなる。緋色を通り越して、赤紫の熱。
広間の人々の視線が、ひとつ残らず、私と、私の隣に並んで歩いてくる彼の間を、行ったり来たりしていた。
◇
挨拶の順列を、私はたぶん、半分ほど、頭のなかで取り違えていたと思う。それでもなんとか型は外さなかった。前世の体育会系的な会議作法と、今世の教育係のしつこい稽古が、体に染みついていて助かった。
そこへ。
扇を優雅に閉じて、艶やかな薄紅の絹が、私の近くまで歩み寄ってきた。
シャルロット・エーデル様。
彼女の後ろには、取り巻きの令嬢たちが、扇の半分を開いたまま、わざとらしく囁き合っていた。
「あら、ロートリング嬢、本日は」
「ご機嫌よろしゅうございます、エーデル様」
「新しい御用達の候補に、ご商売のあるお方までおあがりになる時代ですのねえ。昔でしたら、そう、もう少し、お生まれを、吟味したものですけれど——ねえ、あなた方、最近の風潮について、どうお思いになる?」
取り巻きが、くすくす、と口を揃える。
「そうですわねえ、最近は、商いをなさる男爵家のお嬢様が、王家の奥向きの書類までお手に入れるそうで」
「まあ、恐ろしい」
「出自の、怪しいご使用人を、お雇いになっているとも伺いましたわ——」
(出た。)
(そこを、突くのね。)
ミレイの指が、私の背後で、ちいさく強張ったのが分かった。
笑みの形を崩すまい、と私は扇を持つ指に、少しだけ力を入れた。
入れた、その時。
横合いから。
「——あら、シャルロット嬢。新作の香油、今日はつけていらっしゃらないのね?」
フォルクハルト夫人の、澄んだ声。
「わたくしの連れが、先ほど、お捜ししていたのですけれど」
伯爵夫人のルイゼ様が、すうっと扇を開いた。
「そうそう、ロートリング商会の薔薇水、どちらに仕舞い込んでしまわれたのかしら。せっかくの夜会ですもの、いちばん香らせたいお相手にこそ、お使いになればよろしいのに」
続けて、後ろから、子爵夫人。
「——そういえば最近、某家のお庭でも、あちらのお品を所望なさっておられるとか? ねえ、エーデル様、あなた様のご実家でも、たしか、あちらのお店のお品を、ちょうど、お試しになっておられるのでございましょう?」
取り巻きの令嬢のひとりが、うっ、と喉を鳴らした。
その、さらに後ろから、別の見覚えのあるご婦人が、笑いながら加わってきた。
「まあまあ皆さま、ここは舞踏会でございますわよ。香りの話は、明日のお茶会でゆっくりと——ねえ、ロートリング嬢、ワルツの時間ですわよ。ご一緒してくださる騎士の方を、お探しなさらなくては」
扇、扇、扇。
真顔と、微笑と、半眼。いつかの午後、うちの店で並んでいたときと同じ顔ぶれが、今夜はシャンデリアの光のもとで並んでいた。
絹の壁。
私の側には、音もなく、優雅な薔薇色と空色と萌黄色の壁が、できていた。
シャルロット様は、扇の角度を、一度、整えなおした。
微笑は、保たれていた。保たれていた、ぶんだけ、冷たかった。
「……失礼いたしますわ」
絹の衣擦れが、遠ざかっていった。
◇
広間の空気は、何事もなかったかのように、ワルツを受け入れた。
私は、受け入れられなかった。
一曲、耐えた。二言、耐えた。フォルクハルト夫人に「少しだけ、風に当たってまいります」と小声で断って、廊下の奥の、庭園に通じる硝子扉を、そっと押した。
◇
夜の庭園は、しん、と湿っていた。
山梔子の蕾が、夜の闇に白く浮かんで、少しだけ甘い香りを流していた。
敷石の上を、裾をつまんで、先へ、先へ。
木犀の植え込みの角で、サテンの扇を、どこかに落とした。拾う余裕は、なかった。目のふちに滲んだのは、涙ではなくて——走った分だけの、汗だった。
「エルーシア殿」
低い声が、背中のすぐ後ろに、追いついた。
外套は身につけていない。上着の肩だけで、夜気を受け止めてきたのがわかる、呼吸の上下。
振り返れなかった。
「……あなたを、怖がらせた」
静かだった。
「隠していた理由を、お話し申し上げなければならない」
「……いえ」
「いえ、ではない」
彼は、一歩、距離を詰めた。
裾の絹が、草を擦る、ちいさな音がした。
「私は——王族としてあなたに見られたくなかった。それだけのことだった」
(……それだけ、の?)
「店に通う理由を、尋ねられるのが、怖かった。尋ねられて『視察』と言い張るときだけ、私は、あなたの隣に座れた。子どもじみている。今夜、それを、改めて悟った」
背後の気配が、ゆっくり、低くなった。
片膝、ではない。腰をかがめただけ。手袋のそろえられた手が、私の裾の少し手前の、敷石の上で止まった気配。
「それでも」
彼の声が、掠れた。
「それでも、この手を、離したくない」
振り返った。
振り返らないでは、いられなかった。
灰色の瞳が、夜の植え込みの暗がりと、遠い広間の光の両方を宿して、私をまっすぐ見ていた。
夜風が、山梔子の蕾を揺らす音だけが、二人の間に流れた。
「……ファルシュタイン卿」
「クラウス、と」
「え」
「クラウスと、呼んでほしい」
耳の奥が、一瞬、何も聞こえなくなった。
聞こえなくなって、次に聞こえたのは、自分の心臓の、ごく小さな、ごく律儀な、鼓動の音だった。
「……本日は——夜気に当たりとうございます。ひとり、で」
言えたのは、それだけだった。
彼は、目を伏せた。伏せて、ひとつ、深く頷いた。
「明日」
「はい」
「茶会で、全てが決着する。陛下より、ご発表がある」
「……全て」
「全てです」
彼はそれだけ言って、庭園の石畳の上を、一歩、私から離れた。
離れて、けれど、振り返らずに、広間の光のほうへは戻らなかった。夜の庭の、少し離れた柱廊の影に立って、そこから、こちらの様子だけを、遠く、じっと守るように見ていた。
山梔子の白い蕾の、ひとつが、ひらりと開きかけていた。
——クラウス、と。
彼の低い声の残響だけが、夜の庭のなかで、ゆっくり、ゆっくりと、私の耳の奥に、居場所を作り始めていた。




