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モブ令嬢のつもりでしたが、気づいたら国一番の商会を築いていたらしいです  作者: 秋月 もみじ


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第7話 筆跡鑑定と、契約書の精査


春が終わりに近づく、その手前の朝だった。


店先の敷石に、金箔をあしらった馬車の影が、ゆっくりと覆いかぶさった。


——王宮から、迎え。


昨日のうちに日取りは通じていた。とはいえ、実物の馬車の威容は、書面の文字とはまるで別物で、私はエプロンを外す手を、思わず一度止めてしまった。


「エルーシア様」


工房の奥からミレイが出てきて、細い厚紙の束をそっと差し出した。紐で結わえてあって、紐の結び目の形に、見覚えのない癖がついている。


「もし、王妃陛下がこの件を、仔細にお調べになるご様子でしたら——この綴りを、お渡しいただけますでしょうか」


「……これは?」


「あの夜会の前、わたくしが執務補佐として扱っていた書類の写しにございます。実家を出る前に、奥の行李に忍ばせておりました」


目の色が、静かだった。震えは、もう、ない。


「表向きは、わたくしの身を守るために隠しておいた、ということにしておりました。ですが」


「ですが?」


「本当は——いつか、お目にかけるべき日が来るかもしれない、とも思っておりまして」


私は束を受け取った。


思っていたよりも、軽い。軽いのに、指の付け根にずしりと来る類の、重さだった。



外套を羽織って戸口に出ると、馬車のかたわらに、夜色の上衣の姿が、もうひとつ。


「ファルシュタイン卿」


「護衛の役を、命じられた」


低い声で、短く。


(誰に?)


(……と、訊いてはいけない気がする。)


彼はそれ以上、経緯を語らなかった。御者台の横に立って、私が乗り込むための踏み台を、自分の手で馬車の下に押し出した。騎士団長にやらせる仕事ではないのだけれど、周りの従者たちは誰も驚いていなかった。その光景こそが、私の背筋をぞくり、と撫でた。



王宮の奥、春の陽が温室越しに柔らかく落ちる、白薔薇の間。


王妃陛下は、見た目よりずっと小柄な方だった。


深い紫の絹に薄銀の帯を締めて、髪には白い薔薇を一輪。お若い——ということはなく、落ち着いた年頃の、けれど目元の涼やかさが、場の空気を一段、冷たく透き通らせていた。


「ロートリング商会のエルーシア殿、よくぞお越しくださいました」


「王妃陛下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう存じ上げます」


「お顔を上げてくださいね。今日は、非公式の茶会。堅苦しいお作法は、お互いに抜きといたしましょう」


女官の一人が、淡い琥珀色のお茶を私の前に置いた。陛下は、お手ずから、もう一度その香りを確かめるように上品にカップを傾けてから、ふっと微笑まれた。


「——ロートリング商会の薔薇水を、お茶に忍ばせてみましたの。いかがでしょう」


(えっ、あ、あの香りは、うちの!)


(準備、なさってる。そこまで、なさってる。)


陛下の上品さの底に、ひやりとした配慮の気配があった。これは、ただの歓迎ではない。これは、試験の始まりだ。


「この香りをお分けくださった方の腕を、頼みに参りました」


穏やかに、陛下は本題に入られた。



契約書は、侍従長が運んできた。


王室御用達の認定に伴う、通例の書式とのこと。墨痕の濃い、立派な羊皮紙。


私が一度目を通そうとした、その隣で。


「——失礼いたします」


夜色の上衣が、ふっと私の横に腰を寄せた。


卿はお許しも請わず、けれど所作はあくまで謙抑的に、書面の一点に指先を添えた。指先、といっても、羊皮紙には触れない。触れずに、文字のうえをすうっとなぞる、そんな指の動き。


「陛下。この条項につきまして、一言お願い申し上げたく」


私は、目を疑った。


疑いつつ、同時に納得もしていた。卿の目の動きが、騎士が書類を読むときの目ではなかったのだ。書類そのものの骨格を読みにいっている目。どの条文のどの単語が、後に何を縛るか——その読み方を、知っている人の目。


(ファルシュタイン卿は、こういう読み方を、どこで身につけられたの?)


(騎士団の契約書だけで、こうは、ならない気がするのだけれど。)


陛下は、すうっと微笑まれた。


「どうぞ、お聞かせになって」


卿が指先でなぞった条項の要は、王室が御用達認定を取り消す際の手続きに関するものだった。書面の読み方を知らない私がさらりと流し読みしたところでは「国の判断によりいつでも認定を解除できる」というふうに読めた一文。


卿はそれを、低い声で読み直した。


「この一文では、認定解除の理由の開示が義務付けられておりません。のちに、不当な解除が起きた場合、商会側は反証の機会を失います。恐れながら——商会側の破滅条項になり得ます」


陛下の扇が、ぱちり、と閉じた。


「あら。気づきましたわ」


「僭越でした」


「いいえ。卿のおっしゃる通りです。——侍従長、ここに、解除理由の事前開示と、七日の反論期間の条文を、挿入しておくれ」


侍従長が深く礼をして、羽ペンを動かし始めた。


私は、ただ、息を詰めていた。


(守られた。)


(しかも、守ったのは、王妃陛下ご自身のお手で。)


(この方は——私たち商家の側の不利を、分かった上で、受け入れてくださる方だ。)



契約書の写しが整ったあと、陛下は侍従長に少し下がるよう目配せされた。女官たちも、音もなく部屋の隅へ退いた。


お部屋の広さが、急に、静かになった。


「エルーシア殿」


「はい」


「——これから、非公式にお話しいたしますので、どうぞ、肩の力を抜いてくださいな」


陛下は扇を膝の上に置いて、紅茶のカップの縁を、ごく軽く、指で撫でられた。


「先日の、王太子の……婚約の解消の件。あれについて、わたくしどもは、今、個別に調べております」


息が、止まった。


「あの夜会での断罪に用いられた書状——ミレイ嬢が他家と密通したとされる、手紙の束。その筆跡について、鑑定を進めております。王室の書記官長の手で」


私は、膝の上で、ミレイの綴りをそっと引き寄せた。


「……畏れながら、陛下」


「はい」


「これを、お渡し申し上げてよろしゅうございましょうか。——ミレイ嬢が、執務補佐として関わっておりました当時の、書類の写しにございます」


陛下の目が、ほんのわずかに見開かれた。


紐をお解きになって、いちばん上の紙を、ご覧になる。それから、また、次を。


沈黙が、春の光のなかに、長く続いた。


「……助かりました」


ぽつりと、陛下はそう仰った。


「これで、照合が、はっきりといたしますわ」


(——はっきり、と。)


(シャルロット様の、筆跡と。)


胸の底に、硬質な重さがひとつ沈んだ。重さなのに、不思議と、冷たくない。芯のある、ほの温かい重さ。あの春の夜会、ミレイ嬢の震えた声が、やっと、然るべき行き先を見つけた気がした。



帰路の馬車は、来たときよりも静かだった。


窓の外を、夕に向かう光が、王都の石壁の上をゆっくり這っていく。


向かい合って座るクラウス卿は、目を伏せて、自分の指先を眺めていた。書類を読むときに使われた、細くて長い指。その手の形を、私はさりげなく見ていたつもりで、気づけばずっと見ていた。


「エルーシア殿」


「はい」


「春季茶会、あれは——公の場です」


「存じております」


「そこで、あなたを必ず、守ります」


低い声が、馬車の揺れに乗って、胸の内側まで届いた。


守ります。


そのひと言の、ひと音、ひと音の芯に、なにか普通の護衛の職務ではない重さが混じっていた。その重さの由来を、私は、まだ知らない。


彼は、少しだけ顔を上げた。


灰色の瞳が、馬車の窓に斜めに入った光を、まっすぐ受け止めて。


「その、春季茶会で——」


言葉が、そこで、止まった。


止まって、彼の喉が一度だけ、ちいさく動いた。飲み下した言葉のかたちが、そこにあった。


「……お話し、したいことが」


「はい」


「ございます」


声は、囁きにちかくなっていた。


彼はそれ以上を紡がず、窓の外の、夕の王都の方に目を戻した。


(話したいこと。)


(公の場の、すぐあとに。)


(……なにを、お話しになるつもりなのでしょう。)


胸のどこかがちいさく光った。光ったあと、小さく、鳴った。


馬車の車輪が石畳を鳴らしながら、うちの店に戻っていく。


暮れかけの空に、春のおわりの、濃い紺色が、一筆だけ、流れていた。

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