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モブ令嬢のつもりでしたが、気づいたら国一番の商会を築いていたらしいです  作者: 秋月 もみじ


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第6話 元婚約者の訪問と、騎士団長の半歩


「——ミレイはどこだ」


護衛の鎧の金属音と、儀礼剣の鞘の音がひと塊に店内へ押し入ってきた瞬間、戸口の鉢植えの枝が震えて、白い薔薇の花弁が一枚、敷石の上に落ちた。



昼下がりだった。


開店の札を下げて間もなく、常連のフォルクハルト夫人と、伯爵夫人のルイゼ様、そのお連れの子爵夫人までが店に集っていた。新作の花水の香りを嗅ぎ比べて、「こちらの方がわたくし好みですわ」「あら、あなた、先月もそうおっしゃって」と扇の陰で笑いあう、のどかな昼の時間。


そこへ、あれが入ってきた。


金髪を後ろに撫でつけた、背の高い男性。王家の薔薇を彫り込んだ儀礼剣、仕立ての上等な外套、胸元に光る継承者の星章。


——王太子アレクシス殿下。


夜会の柱の陰から眺めた以来、この至近距離でお顔を拝見するのは、もちろん初めてのこと。以前のお姿より、目元に疲れの影が濃い気がした。疲れているわりに、なぜ夜に寝ないのかしら、と前世の勤務経験者の視線がうっかり発動する。たぶん、書類が回っていないせいだ。


ミレイは、朝から石鹸の型抜きに集中していて、奥の工房で作業中だった。私の視線が一瞬そちらへ流れて、すぐに戻る。


(……ミレイの前には、出さない。)


(それだけは、決まり。)


殿下の後ろに、鎧を鳴らした護衛の騎士たちが控えている。店の狭さに対して、いささか過剰な人数。これは威圧、というやつね、と頭のどこかが事務的に分類した。


カウンターの裏から、ちいさく息を吸って、私はいつもの礼をした。


「王太子殿下にご機嫌伺い申し上げます。ロートリング男爵家のエルーシアにございます。本日は当店にどのようなご用向きで」


「挨拶はいい」


儀礼剣の柄をひと撫でして、彼は店の奥に目をやった。


「お前のところで、ミレイが働いていると聞いた。呼んでもらおう」


「……恐れ入りますが、当店の従業者は、本人の意思なしに客人にお会いすることはいたしません。当商会の規則にございます」


「規則?」


殿下の眉が、ほんの少しだけ動いた。眉が動いた、そのひと拍のなかに、侮りが混じっていた。簡単にあしらえる店主だと、そう値踏みした目だった。


(ああ。)


(この方、ほんとうに、ご自分で調べない方なのね。)


シャルロット様が、洗練された札の切り方で来店されたのが、つい先日の午後。同じ札を、こちらはぞんざいに叩きつけている。結果として現れてしまう格の差は、本人のせいではなく、まあ、半分くらいは、やはりご本人のせいだ。


「ロートリング嬢、と言ったか。お前の雇い人を、雇い主であるわたしが呼び戻すのに、なぜ雇い主の承諾を得る必要がある」


殿下は、言いながら一歩、前に出た。


カウンター越しにではあるけれど、その一歩の分、空気がぐっと押される。


フォルクハルト夫人が、扇の陰で、そっと伯爵夫人の袖を引いた気配が、横目でも分かった。


(……参ったな。)


(どう返しても、ここから先、この方は退いてくださらないわね。)


咄嗟に返事を組み立てようとした、ちょうどその瞬間。


店の戸口の鈴が、静かに鳴った。


「——失礼する」


低い声が、春の昼の光と一緒に入ってきた。


夜色の上衣、銀の肩章、細身の剣。


殿下の肩越しに、灰色の瞳がまっすぐ奥まで届いた、気がした。



クラウス・ファルシュタイン卿は、護衛の騎士たちの間を、まるでそこに道があるみたいな自然さで抜けてきた。


殿下が振り返る間もなかった。


卿は殿下と私のあいだ、正確にはカウンターの端に立っていた私の、少しだけ前に——


ちょうど、半歩。


そこに、すっと入り込んだ。


「……ファルシュタイン卿?」


殿下の声から、さきほどまでの傲りが抜けていた。


騎士団長の紋章と、王太子殿下の身分。どちらが上かと問われれば、もちろん殿下だ。けれど、卿の背中の佇まいには、「上」や「下」では語れない、ただの、静かな圧力があった。


卿は、深く頭を下げない。王族に対する略式の敬礼の角度で、ほんの僅かに頭を傾けた。


「殿下。ロートリング嬢にご用件でおいでとか」


「……従業者の件、だ」


「ロートリング嬢にご用件でしたら、手紙にてどうぞ」


「は?」


「当店の規則は、先ほど店主本人から殿下にお伝えしたとおりと、戸口で伺いました。従業者の件も、手紙にて仰せになっていただければ、店主が文書で回答いたします」


「……きさま、何のつもりで」


「騎士団長として、王都商店街の平穏維持の任にあたっております。以上」


卿は、それ以上、口を動かさなかった。


言葉は、短い。短いほど、圧がある。それはそういうものらしい。


殿下の後ろの、護衛の騎士たちが、ほんのわずかに身じろいだ。彼らはたぶん、クラウス卿の部下筋にあたる者たちだった。見慣れた上官を前にして、殿下と上官のどちらの指示に動くべきか、瞬時の判断を迫られた顔をしていた。


その沈黙のなかで、殿下は、遅まきながら店の奥を見回した。


フォルクハルト夫人。伯爵夫人ルイゼ様。子爵夫人。さらに、ちょうどそのとき店に入ってきた別の老婦人。


貴婦人たちは、一様に、扇の角度を整えていた。


笑っていない、真顔。


あの、社交界で最強の武装と言われる、真顔。



「……後日、使いを寄越す」


殿下がそう言って踵を返したのは、たぶん、彼の生涯で初めてやった類の後退だったと思う。


護衛の騎士たちは、殿下の背中に追いつこうとして、戸口で鎧を鳴らした。クラウス卿の前を通り過ぎる時、その中の何人かが、ごく短く、上官に頭を下げた。忠誠の位階がどこにあるか、はっきりと示された瞬間だった。


鈴が鳴る。


扉が閉まる。


春の通りに足音が遠ざかる。


店の中に、残ったのは、香水の匂いと、紅茶葉の匂いと、白い薔薇の花弁がひとつ、敷石の上に落ちている景色だった。


フォルクハルト夫人が、扇をぱちりと閉じた。


「あらあら、まあまあ。なんて不作法な殿方でしょう」


「エルーシアさん、後でうちの主人にも申しておきますわね。これでは見る目がない、どころの話ではございませんわよ」


「本当に。こちらが買いに来ているお茶まで、興が削がれるところでしたのに、奥のお嬢さんが仕事を止めずにいらしてくれて、助かりましたわ」


(奥の——)


(あ。)


ミレイは、工房の作業台で、石鹸の型抜きを続けていた。手元の動きに、一切のぶれが、なかった。


(さすが、だわ。)


(さすがというか、こう、なんというか、強いわ彼女。)



夕暮れ。


最後の客を見送って、私はカウンターの拭き掃除をしていた。ミレイは二階で夕餉の支度をしている。


卿は、店の外の、街灯の柱のそばにまだ立っていた。


扉を開けて、私は一歩外へ出た。


春の夕の空気が、うなじを撫でる。


「ファルシュタイン卿。本日は——本当に、ありがとうございました」


「いや」


彼は、こちらを見ないまま、ぼそりと言った。


「……私のほうこそ、勝手に割って入った。失礼にあたる振る舞いをした」


「とんでもないことでございます」


「本当は——」


言葉が、止まった。


止まったあと、しばらく沈黙があって、卿は街灯の光の向きへ、ほんの少しだけ顔を傾けた。横顔が、薄い金色の光に縁取られる。低い鼻梁の輪郭が、妙に綺麗だった。


「あなたを、煩わせたくは、なかった」


声は、囁きにちかかった。


夕の風のほうが、まだ大きい声だったと思う。


(——煩わせたく、なかった。)


(……その一言を、この距離で、言うために、ここに、立っていらっしゃったの?)


胸の内側のどこかで、何かが、ふんわりと音を立てた。笑いそうになって、堪えた。堪える理由もなかったのに、笑うと失礼な気がしたのだ。


「ご迷惑だなんて、露ほども。お陰さまで、助かりました」


彼は、ようやくこちらを見た。


灰色の瞳が、夕の光のなかに、わずかに、やわらかい。


「……紅茶、また、いただきに上がる」


「どうぞ、いつでも」


短い会釈で、彼は街灯のそばを離れた。


外套の裾が、春の風に一度だけ翻って、角の向こうへ消えていった。



翌朝。


勝手口の軒下に、一通の封書が置かれていた。


差出人の名はなく、紋章の封蠟だけ。


王妃陛下ご紋章。


中の紙には、ごく短い、女性の筆跡の言葉が記されていた。


『春季茶会に先立ちまして。


一度、非公式に、お茶をご一緒願いとう存じます。


供は女官のみにて。場所と時刻、追って。』


封を戻した私の指先が、かすかに冷えた。


冷えたのに、妙に、耳の奥では、昨日のあの低い声が、残っていた。


——煩わせたくは、なかった。


(ファルシュタイン卿。)


(あなたは、どこまで、ご存じなんですか?)


軒下に落ちる朝の光が、白い薔薇の鉢の上で、ほんの少しだけ震えていた。

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