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モブ令嬢のつもりでしたが、気づいたら国一番の商会を築いていたらしいです  作者: 秋月 もみじ


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第5話 公爵令嬢と、閉店後の紅茶


「あなたのお店、わたくしが買い上げてさしあげるわ」


春の昼下がり、絹擦れの音とともに響いたその一言で、うちの店の空気が、かちりと固く凍った。



開店から半時ほど経った頃だった。


鈴が鳴って、戸口から入ってきたのは、うちの店にはとんと縁のない身分の一行だった。薄紅の絹に銀糸の縁取り、真珠を一列連ねた首飾り、髪には白い薔薇の生花。


——公爵令嬢シャルロット・エーデル様。


新聞の姿絵と、ひと月前に柱の陰から見た夜会の姿と、私の記憶の照らし合わせが、ぱちりと合った。


両脇には取り巻きらしき若い令嬢が二方。こちらも身なりは一級で、扇を半分開いたまま、うちの調合台の隅々を値踏みするように眺めている。


「いらっしゃいませ」


私はカウンターの裏から一歩前に出て、型通りの礼をした。エプロンの染みが気になる。気になるけれど、ここで直すのは違う気がした。直したら、負けだ。


(……来たわね。)


(思ったより、早かったわ。)


シャルロット様は、私を見て、それはそれは華やかに微笑んだ。目元にかかる巻き毛が、春の光を受けて薄金色に揺れる。顔立ちは整っていて、笑み方の角度まで計算されつくしていた。敵ながら、さすが。


「ロートリング嬢、ご機嫌よろしくて? お噂はかねがねうかがっておりますの。こんなに小さなお店で、あれほどの意匠を生み出されていらっしゃるだなんて」


「ご来店、光栄にございます」


「ねえ、率直に申し上げてよろしいかしら」


彼女の扇が、すうっと閉じられた。


「わたくし、こちらのお店を、ぜひ、わたくしの名で後援させていただきたくて」


微笑の裏で、声だけがほんの少し低くなった。


「このわたくしの名義で商会を再編し、王都の中心街へ移転。あなた様ご本人には、わたくしのお抱えの調香師として、存分に腕をふるっていただけるよう、相応の——そうね、生涯不自由のない待遇をお約束いたしますわ」


(ご丁寧なこと。)


(言い方がずいぶんと洗練されておいでで。)


(要するに、看板と意匠と人を、丸ごと吸い上げたいのでしょう?)


前世の会社で、似たような話は何度か聞いた。後援と銘打って、所有権ごとすっぱり持っていく手口。ご親切なご提案は、だいたいにおいて、ご親切ではない。


私は無表情を心がけて、一度だけ、ゆっくり頷いた。


「お申し出、ありがとうございます。ただ、一点ばかり、お耳に入れておきたきことがございまして」


シャルロット様の眉が、ほんの毛筋ほど上がった。


「我が商会は、王家登録商会にございます。意匠と専売は魔導具師ギルドの認可下にあり、所有の移譲は王の印綬と、ギルド総代の連署が揃わなければ成立いたしません」


「……あら、そう」


「加えて、後援のお申し出そのものは大変光栄なれど、商会の書式では、後援契約は三年以上の実績がある商家に限るとされております。こちらは父、先代より続く書式でございますゆえ、例外はいたしかねます」


取り巻きの片方が、扇の陰でちいさく息を呑んだ。


シャルロット様は、微笑を崩さない。崩さないが、ひと呼吸ぶん沈黙した。賢い方だ。即座に別の札を切ってきた。


「そうね、手続きの話ではなく——王太子殿下のご意向として、と申し上げたら、お話は変わるかしら?」


(出た。)


(出ちゃったわね。)


来るだろうな、と思っていた札だった。早すぎず遅すぎず、ちょうどいい頃合いで切ってくるあたり、やはり場慣れしている。場慣れしているけれど——札を切る順番を、たぶん間違えた。


私は、つま先にぐっと重心を移す。


「恐れながら、王家登録商会の監督は、陛下ご直轄にございます。王太子殿下におかれましては、継承者としての執政補佐の御役目はございますが、商会登録の裁可権はお持ちではないかと、登記上はそのように」


「…………」


「殿下ご本人のご意向が当店にお寄せになられる場合は、陛下の下賜状、あるいは宰相府を通じたご下命が正式な形にございますので、そちらを揃えてお運びくださいませ。恭しく拝読させていただきます」


淡々と、淡々と。


前世なら、法務部の同僚が淹れた渋めの紅茶の向こうで、同じ文面を読み上げている顔だった。


扇の陰で、取り巻きの令嬢の一人が、扇を落としかけた。


シャルロット様は、扇の持ち手を指先で一度、軽く撫でた。それから、微笑を、ほんの少しだけ深くした。


「……ロートリング嬢。あなた、よろしくてよ」


「は」


「よく、弁えていらっしゃる」


微笑みが、薄氷のように冷えていた。


「ただし——そのお弁えが、いつまで続くかしら?」


それだけ残して、一行は踵を返した。絹擦れが戸口を抜けて、鈴が鳴って、春の通りに溶けていく。


店の中に、紅茶葉の乾いた匂いだけが、ぽつん、と残った。


ミレイが、カウンターの裏から、そろりと息を吐いた。


「エルーシア様……」


「ミレイ、指、震えてる?」


「少しだけ、でございます。エルーシア様こそ」


「私は、そうね……膝の裏あたり」


二人で顔を見合わせて、どちらからともなく、ふっと笑ってしまった。



その日、客足はいつもより少なかった。嵐の前後はどの商売でもそうなるものだと、父の番頭がよく言っていた。なるほど、と腑に落ちる。


閉店の札を下げて、鎧戸を半分だけ下ろした頃。


鈴が、そっと鳴った。


「閉店でござ——」


振り返って、声が途切れた。


夜色の上衣、銀の肩章。


(……なぜ、今夜も。)


クラウス卿は、いつもの平たい声で、短く一言。


「無事か」


店の空気が、ゆっくりとほどけていくのが分かった。たった一言で、なぜこれほど、と自分でも思う。


「はい。ご覧の通り、指も切らずに済みました」


答えた自分の声が、思ったよりやわらかかった。


彼は、ほんのわずかに、頷いた。



閉めた店の奥、作業台の端に、二つだけカップを置いた。


ミレイは気を利かせて、二階の居室に下がっていった。上がり際に、扉の手前で半歩だけ止まって、くるりと振り向き、無言で頭を下げて、そのまま消えていった。最近の彼女は、どうも、こちらを見守る目が楽しそうである。


卿は、いつもの応接席ではなく、調合台の向かいの、背もたれの低い腰掛けに座った。剣を外して膝の脇に立てかけ、鞘の先の布を畳み直す手順は、今夜もいつも通り。


私は、今日はアッサムをやや濃いめに淹れた。長い一日の終わりに合う、腹に落ちる味のやつ。


彼は一口飲んで、カップを置いた。


「今日のあれは——」


「はい」


「見事だった」


言葉が短いぶん、余計にきょとんとする。


「恐れ入ります。……ただ、あの方は、たぶん一度では終わらないと」


「終わらないだろう」


彼は、カップの縁を指先で撫でた。視線はそのへんに落としたままだった。長い睫毛の影が、卓布の上に薄く落ちている。


「……私は」


沈黙が、ひとつ入った。


「以前、私を利用しようとした者が、いた」


(え。)


私は手を止めた。


「それ以来、他人を信じるのは、あまり、得意では、ない」


語尾に向かって、低い声が、さらに低くなった。言いにくいことを無理に言葉にしようとしている人の声だった。話すつもりで話しに来たのではなく、ふと、この店だから漏れてしまった、というふうな。


彼はそこで、わずかに顔を上げた。


灰色の瞳が、ランプの火をひとつ宿す。


「だから、あなたが自分で自分を守れる人で、安堵した」


こちらの胸の、ずっと奥のほうが、一度、かたんと音を立てた。


(……それは、たぶん。)


(たぶん、誉め言葉なのよね? 私が、勝手にそう思っていいやつよね?)


返事の代わりに、私は自分のカップを口元に運んだ。


湯気で、頰がうまく隠せているといい。


彼は少しの間、もうひと口、紅茶を飲んだ。


「……紅茶が、旨い」


ぼそりと、そう言った。



翌朝。


使用人のハンナが、封書を抱えて勝手口から駆け込んできた。頰が赤い。


「お嬢様、お、王家の、使者様が、門の前に!」


封蠟は、見覚えのある意匠。王妃陛下のご紋章。


指が少し冷えた。指が冷えたまま、封を切った。


『ロートリング商会 女主人 エルーシア殿


このたび、春季茶会における王室御用達候補として、貴商会をお招き申し上げます。


詳細は追って宰相府より御案内申し上げる次第。


——王妃付 侍従長』


便箋を手にしたまま、私は調合台に寄りかかった。


ミレイが横から覗き込んで、息を呑む。


店の扉の外、朝の光の中を、使者の馬が静かに遠ざかっていく音がした。


招待、ではなく。


——候補。


(つまり、これは。)


(競わせる、のね。)


ふと、昨夜の灰色の瞳が、瞼の裏をよぎった。


「……紅茶が、旨い」


その低い声だけが、朝の店のなかを、ゆっくり、ゆっくり、温めていった。

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