第5話 公爵令嬢と、閉店後の紅茶
「あなたのお店、わたくしが買い上げてさしあげるわ」
春の昼下がり、絹擦れの音とともに響いたその一言で、うちの店の空気が、かちりと固く凍った。
◇
開店から半時ほど経った頃だった。
鈴が鳴って、戸口から入ってきたのは、うちの店にはとんと縁のない身分の一行だった。薄紅の絹に銀糸の縁取り、真珠を一列連ねた首飾り、髪には白い薔薇の生花。
——公爵令嬢シャルロット・エーデル様。
新聞の姿絵と、ひと月前に柱の陰から見た夜会の姿と、私の記憶の照らし合わせが、ぱちりと合った。
両脇には取り巻きらしき若い令嬢が二方。こちらも身なりは一級で、扇を半分開いたまま、うちの調合台の隅々を値踏みするように眺めている。
「いらっしゃいませ」
私はカウンターの裏から一歩前に出て、型通りの礼をした。エプロンの染みが気になる。気になるけれど、ここで直すのは違う気がした。直したら、負けだ。
(……来たわね。)
(思ったより、早かったわ。)
シャルロット様は、私を見て、それはそれは華やかに微笑んだ。目元にかかる巻き毛が、春の光を受けて薄金色に揺れる。顔立ちは整っていて、笑み方の角度まで計算されつくしていた。敵ながら、さすが。
「ロートリング嬢、ご機嫌よろしくて? お噂はかねがねうかがっておりますの。こんなに小さなお店で、あれほどの意匠を生み出されていらっしゃるだなんて」
「ご来店、光栄にございます」
「ねえ、率直に申し上げてよろしいかしら」
彼女の扇が、すうっと閉じられた。
「わたくし、こちらのお店を、ぜひ、わたくしの名で後援させていただきたくて」
微笑の裏で、声だけがほんの少し低くなった。
「このわたくしの名義で商会を再編し、王都の中心街へ移転。あなた様ご本人には、わたくしのお抱えの調香師として、存分に腕をふるっていただけるよう、相応の——そうね、生涯不自由のない待遇をお約束いたしますわ」
(ご丁寧なこと。)
(言い方がずいぶんと洗練されておいでで。)
(要するに、看板と意匠と人を、丸ごと吸い上げたいのでしょう?)
前世の会社で、似たような話は何度か聞いた。後援と銘打って、所有権ごとすっぱり持っていく手口。ご親切なご提案は、だいたいにおいて、ご親切ではない。
私は無表情を心がけて、一度だけ、ゆっくり頷いた。
「お申し出、ありがとうございます。ただ、一点ばかり、お耳に入れておきたきことがございまして」
シャルロット様の眉が、ほんの毛筋ほど上がった。
「我が商会は、王家登録商会にございます。意匠と専売は魔導具師ギルドの認可下にあり、所有の移譲は王の印綬と、ギルド総代の連署が揃わなければ成立いたしません」
「……あら、そう」
「加えて、後援のお申し出そのものは大変光栄なれど、商会の書式では、後援契約は三年以上の実績がある商家に限るとされております。こちらは父、先代より続く書式でございますゆえ、例外はいたしかねます」
取り巻きの片方が、扇の陰でちいさく息を呑んだ。
シャルロット様は、微笑を崩さない。崩さないが、ひと呼吸ぶん沈黙した。賢い方だ。即座に別の札を切ってきた。
「そうね、手続きの話ではなく——王太子殿下のご意向として、と申し上げたら、お話は変わるかしら?」
(出た。)
(出ちゃったわね。)
来るだろうな、と思っていた札だった。早すぎず遅すぎず、ちょうどいい頃合いで切ってくるあたり、やはり場慣れしている。場慣れしているけれど——札を切る順番を、たぶん間違えた。
私は、つま先にぐっと重心を移す。
「恐れながら、王家登録商会の監督は、陛下ご直轄にございます。王太子殿下におかれましては、継承者としての執政補佐の御役目はございますが、商会登録の裁可権はお持ちではないかと、登記上はそのように」
「…………」
「殿下ご本人のご意向が当店にお寄せになられる場合は、陛下の下賜状、あるいは宰相府を通じたご下命が正式な形にございますので、そちらを揃えてお運びくださいませ。恭しく拝読させていただきます」
淡々と、淡々と。
前世なら、法務部の同僚が淹れた渋めの紅茶の向こうで、同じ文面を読み上げている顔だった。
扇の陰で、取り巻きの令嬢の一人が、扇を落としかけた。
シャルロット様は、扇の持ち手を指先で一度、軽く撫でた。それから、微笑を、ほんの少しだけ深くした。
「……ロートリング嬢。あなた、よろしくてよ」
「は」
「よく、弁えていらっしゃる」
微笑みが、薄氷のように冷えていた。
「ただし——そのお弁えが、いつまで続くかしら?」
それだけ残して、一行は踵を返した。絹擦れが戸口を抜けて、鈴が鳴って、春の通りに溶けていく。
店の中に、紅茶葉の乾いた匂いだけが、ぽつん、と残った。
ミレイが、カウンターの裏から、そろりと息を吐いた。
「エルーシア様……」
「ミレイ、指、震えてる?」
「少しだけ、でございます。エルーシア様こそ」
「私は、そうね……膝の裏あたり」
二人で顔を見合わせて、どちらからともなく、ふっと笑ってしまった。
◇
その日、客足はいつもより少なかった。嵐の前後はどの商売でもそうなるものだと、父の番頭がよく言っていた。なるほど、と腑に落ちる。
閉店の札を下げて、鎧戸を半分だけ下ろした頃。
鈴が、そっと鳴った。
「閉店でござ——」
振り返って、声が途切れた。
夜色の上衣、銀の肩章。
(……なぜ、今夜も。)
クラウス卿は、いつもの平たい声で、短く一言。
「無事か」
店の空気が、ゆっくりとほどけていくのが分かった。たった一言で、なぜこれほど、と自分でも思う。
「はい。ご覧の通り、指も切らずに済みました」
答えた自分の声が、思ったよりやわらかかった。
彼は、ほんのわずかに、頷いた。
◇
閉めた店の奥、作業台の端に、二つだけカップを置いた。
ミレイは気を利かせて、二階の居室に下がっていった。上がり際に、扉の手前で半歩だけ止まって、くるりと振り向き、無言で頭を下げて、そのまま消えていった。最近の彼女は、どうも、こちらを見守る目が楽しそうである。
卿は、いつもの応接席ではなく、調合台の向かいの、背もたれの低い腰掛けに座った。剣を外して膝の脇に立てかけ、鞘の先の布を畳み直す手順は、今夜もいつも通り。
私は、今日はアッサムをやや濃いめに淹れた。長い一日の終わりに合う、腹に落ちる味のやつ。
彼は一口飲んで、カップを置いた。
「今日のあれは——」
「はい」
「見事だった」
言葉が短いぶん、余計にきょとんとする。
「恐れ入ります。……ただ、あの方は、たぶん一度では終わらないと」
「終わらないだろう」
彼は、カップの縁を指先で撫でた。視線はそのへんに落としたままだった。長い睫毛の影が、卓布の上に薄く落ちている。
「……私は」
沈黙が、ひとつ入った。
「以前、私を利用しようとした者が、いた」
(え。)
私は手を止めた。
「それ以来、他人を信じるのは、あまり、得意では、ない」
語尾に向かって、低い声が、さらに低くなった。言いにくいことを無理に言葉にしようとしている人の声だった。話すつもりで話しに来たのではなく、ふと、この店だから漏れてしまった、というふうな。
彼はそこで、わずかに顔を上げた。
灰色の瞳が、ランプの火をひとつ宿す。
「だから、あなたが自分で自分を守れる人で、安堵した」
こちらの胸の、ずっと奥のほうが、一度、かたんと音を立てた。
(……それは、たぶん。)
(たぶん、誉め言葉なのよね? 私が、勝手にそう思っていいやつよね?)
返事の代わりに、私は自分のカップを口元に運んだ。
湯気で、頰がうまく隠せているといい。
彼は少しの間、もうひと口、紅茶を飲んだ。
「……紅茶が、旨い」
ぼそりと、そう言った。
◇
翌朝。
使用人のハンナが、封書を抱えて勝手口から駆け込んできた。頰が赤い。
「お嬢様、お、王家の、使者様が、門の前に!」
封蠟は、見覚えのある意匠。王妃陛下のご紋章。
指が少し冷えた。指が冷えたまま、封を切った。
『ロートリング商会 女主人 エルーシア殿
このたび、春季茶会における王室御用達候補として、貴商会をお招き申し上げます。
詳細は追って宰相府より御案内申し上げる次第。
——王妃付 侍従長』
便箋を手にしたまま、私は調合台に寄りかかった。
ミレイが横から覗き込んで、息を呑む。
店の扉の外、朝の光の中を、使者の馬が静かに遠ざかっていく音がした。
招待、ではなく。
——候補。
(つまり、これは。)
(競わせる、のね。)
ふと、昨夜の灰色の瞳が、瞼の裏をよぎった。
「……紅茶が、旨い」
その低い声だけが、朝の店のなかを、ゆっくり、ゆっくり、温めていった。




