第4話 偽造レシピ事件と、怪我の手巾
「ロートリング商会の薔薇石鹸、奥様がた、特別にお安くしておりますよ」
通りの向こうから、聞き覚えのない男の呼び声が届いた時、私は計量皿の指を止めた。
(……うちは、露店売りなどしていないのだけれど。)
ミレイと顔を見合わせる。
ひと拍の間を置いて、私たちはそろって前掛けの紐を外した。
◇
通りをひとつ下ったところに、安普請の荷車が停まっていた。
荷台に並んでいたのは、うちの石鹸——のような、何か。
赤と金の包み紙は、見慣れた意匠を真似てある。けれど薔薇の紋様の花弁が、足りていない。書体も、微妙に崩れている。台紙の色は、うちの染料とは違う、青みの強い赤。
(これ、肌に合わない人が出るわ。)
(荒れる。すぐに荒れる。)
離れたところからでも、甘すぎる薔薇の香りが漂ってきた。香料ではなく、たぶん安価な代替品の匂い。早く香り立って、早く失せるやつ。前世の鼻が勝手に判定してくれた。
背筋が冷えた。
売上が落ちる、それだけの話ではない。粗悪品がうちの名前で出回っている以上、肌を荒らした客は「ロートリング商会の品が悪い」と思うのだ。それもそうだし、ここから先がさらにまずい。
——小さな商会を潰すのには、これは効く。
「エルーシア様」
ミレイが、私の袖を軽く引いた。
声は小さかった。けれど、顔色がはっきりと青い。
「あの……荷車の御者、見覚えが」
「ご存じの方?」
「以前、エーデル公爵領の産物を、宮廷の倉番まで運び入れていた業者にございます。何度か、荷渡しの場で顔を合わせました」
エーデル。
その名前を耳で拾った瞬間、雨雲の下に入ったときみたいに、世界の湿度がひとつ、上がった。
◇
ミレイに店番を頼んで、私は荷車の客のひとりから粗悪品をひとつ買い上げた。証拠品として、布袋に入れる。それからエプロンを外して、外套を羽織り直した。
「ギルドへ行ってきます。夕刻までには戻ります」
「お気をつけて——」
言いかけたミレイが、ふっと口を閉じた。
何かを飲み込むような顔で、それから、深く頭を下げた。
「エルーシア様」
「はい」
「ご無事の、ご帰還を、お待ち申し上げております」
ちょっと大袈裟ね、と笑い返すつもりだった。
笑い返せなかった。
彼女の声の底に、長く重たい何かが沈んでいる気がしたから。
ミレイは、たぶん、自分の身に起きたことを、私の身に重ねて見ている。あの夜会の夜、震える声で訴えた瞬間に、世界が手のひらを返した、あの感覚を。
「すぐ、戻りますからね」
私は、できるだけ穏やかに言った。
彼女は、もう一度、深く頭を下げた。
◇
魔導具師ギルドの本部は、王都の西門寄り、職人街の奥まったところにある。
煤けた石造りの建物だった。詰所の前では徒弟らしき少年たちが、車軸油にまみれた木箱を並べている。革のエプロンに飛んだ油の跡。鼻に届く、機械油と紙粉の匂い。前世の倉庫街を思い出させる空気だった。
私が受付の窓口で事情を説明すると、古参の書記が眼鏡を鼻先にずらして、棚から羊皮紙の束を引き出した。私の登録書類だった。
「ロートリング商会、石鹸および紅茶混成物の専売認可、期日有効」
書記は指の腹で、ひとつずつ条項を辿った。
「ラベル意匠の登録、期日有効。……ふん、これは早い処置が要りますな」
「お願いいたします。差し止めと、出所の追跡を」
「追跡については、ギルドの管轄で動きます。ただし公爵領の域内に踏み込むとなると、王の名の調書が要りましょう。差し止めだけなら、すぐに手配できます」
「お手数を、おかけいたします」
書記は、ふっと、口の端だけで笑った。
「お嬢さん。あんた、店を開いた時、登録の書式を、ぜんぶ自分でお読みになったでしょう」
「は。父が読み上げてくれた、その横で、自分でも、もう一度」
「そう。だから、こうして、こちらが動ける」
——書類というのは、書いた者を、いざという時に、守るためのもの。
書記の言葉が、頭の隅に小さく沈んだ。
(仕込んでおいて、よかった。)
(本当に、よかった。)
専売認可の登録は、店を開いた頃に済ませていた。前世の知識で「意匠と配合を登録しておかなければ、真似されたときに何も言えない」と分かっていたから。当時は面倒な書類仕事に思えて、父にも「そこまでするのか」と苦笑いされたのを覚えている。
ちゃんとやっておくものだ、と改めて思う。
帰り道、石畳の隙間に、春の細い雨が落ち始めた。
私は外套の襟を引き寄せて、少しだけ歩調を早めた。
◇
夕暮れまでには、店に戻れた。
ミレイが出迎えて、店番の間に起きたことを、淡々と報せてくれた。一度、取引のある老婦人が心配して様子を見に来たこと。偽物の噂を広めにきたらしい男の子の二人連れは、彼女が穏やかにあしらって帰したこと。
「ありがとう。本当に助かりました」
「いえ。わたくしに、できることは、これくらいでございますから」
そう答えた彼女の目元が、少しだけ強くなっていた。朝より、ほんのわずか。
(……強くなる、ね、人って。)
(ちゃんと、強くなるのね。)
胸の奥で、ことん、と何かが、いい場所に収まる音がした。
◇
夜の作業台に戻って、私は新作の保湿油の試作にとりかかった。
考え事があるときは、手を動かすに限る。前世のオフィスの夜更かしで身につけた習慣だ。
計量瓶に、薔薇の蒸留水。植物油を重ねる。湯煎で蜜蝋の薄片を溶かす。そこに、香料用の油を、ほんの数滴だけ落とす——
扉の鈴が、小さく、鳴った。
「閉店でございます——」
顔を上げて、声が、半ばで止まった。
夜色の上衣、銀の肩章、細身の剣。
今日は馬を駆けてきたのか、襟元に、雨の跡が残っていた。
「ファルシュタイン卿」
「近くを通った」
短い返事。
嘘だ、と私は一瞬で思った。この店は、騎士団の巡邏路のどこにもかすっていない。
「偽造品の届けを、ギルドにお出しになったとか」
「……お耳が、早うございますね」
「王都じゅうが噂にしている」
言いながら、卿は応接席のほうへは向かわず、私が立っている作業台のほうへ歩いてきた。雨の匂いと、革の匂いが、近くなる。
私が、思わず手を止めて彼を見上げた、ちょうどその時。
蜜蝋を移していた硝子瓶が、手元で傾いた。
熱くないほうの瓶でよかった、と頭のどこかが判断する間もなく、瓶が作業台の縁で軽く跳ねて、割れた。
指先に、つん、と刺すような痛み。
(あ。)
親指の付け根のところを、薄い破片が掠っていた。大したものではない。ぷつ、と血の珠が浮かんで、それが指の腹を、ゆっくり伝う。それくらいの。
「エルーシア殿」
低い声が、間近から落ちてきた。
気づいた時には、卿の大きな手が、私の手首の下にそっと添えられていた。傷のある指を下に向ける角度に、丁寧に直される。
「破片を、よく見せて」
もう片方の手で、彼は上衣の内側から、畳んだ手巾を取り出した。
それを広げて、私の指先の下に差し出す。血の珠を受け止めてから、彼は私の指を、その手巾でやわらかく押さえた。ぎゅっと、ではなく、ひたり、と。傷口の位置を正確に知っている押さえ方だった。
押さえた手巾の端に、見慣れない刺繍が覗いていた。
銀糸で縫い取られた、複雑な紋様。枝分かれした蔓のような、翼のような。騎士団の支給品ではない。私物の、それも、家紋のたぐい。
(あ、まずい。)
(この手巾、たぶん、染みたら落ちないやつだ。)
「ファ、ファルシュタイン卿、そちら、とてもよい品のようですから、もっと粗末な布を——」
「黙っていてほしい」
短く、遮られた。
低い声が、私の指先のすぐ上で、落ちた。
「少しだけ、じっとしていてくれ」
彼は傷口を押さえたまま、もう片方の手で、作業台の上の硝子片を遠ざけ、私の指のそばに清潔な布を置く器用さを見せた。視線はずっと、私の指のほうに向いていた。
私の顔ではなく、ずっと、私の指。
それがかえって、うなじのあたりに、熱を集めた。
(見ないで、私の指先。)
(そんなに長く、見ないで。)
(見られていると、私の指のほうが、おかしくなる。)
傷は、じき、止まった。
止まったあとも、彼は、すぐには手を離さなかった。
「染みは、問題ない」
ぼそりと、彼が言った。
「気にしないでほしい」
——気にしないで、ほしい。
なぜだろう。彼の語尾の「ほしい」のところだけが、銀糸で縫い止められたみたいに、耳の内側に、長く残った。
◇
翌々日。
ギルドの使者が、息を切らして店に駆け込んできた。
「ロートリング商会御中、王都内の全市場より、偽造薔薇石鹸の撤収、本日朝までに完了いたしました」
荷車を引いていた業者は、王都から逃げ出そうとして西門で止められたこと。取り調べで、発注元が「エーデル公爵領の代官所」であったと認めたこと。ギルドが正式な抗議文書を、エーデル家へ送付したこと。
ミレイが、息を詰めて聞いていた。
私も、息を詰めて聞いていた。
(動いた。)
(早かった。)
売上は、もう、戻り始めていた。
心配して様子を見にきていた老婦人たちが、翌々日には「よかった、信じておりましたよ」と笑って、いつもの紅茶を買って帰っていった。フォルクハルト夫人は、わざわざ伯爵夫人を連れて来店し、「ほら、だから言ったでしょう。ここが本物よ」と得意げに扇を振っていた。
扇の陰で、彼女は囁いた。
「社交界でもね。あちらのお嬢様の評判が、ちくちくと——」
「……あちら、と、おっしゃいますと」
「ふふふ、お察しくださいませ」
夫人の目が、楽しそうに細められた。
噂の風向きが、ゆっくり、向きを変えつつある。
私が動いたのではない。動かしたのではない。ただ、悪意のほうが、勝手に空気を悪くしていく。
(これは、私の手柄ではないのよ。)
(自分のお書きになった筋書きが、ご自分のところに、戻っていっているだけ。)
胸のなかで、そう、整理する。
◇
その日の夜。
使用人のハンナが、勝手口から、一通の封書を抱えて駆け込んできた。
「お嬢様、こちら。お使いの方が、直々にお渡しくださいとのことで」
紋章の封蠟。
見覚えのある紋章。
エーデル公爵家。
封を切ると、上品な紙に、流麗な筆跡が、さらりと記されていた。
『親愛なるロートリング嬢。
近頃、お店の評判を耳にいたしまして、ぜひ一度、伺わせていただきたく筆を取りました。
お忙しくないお日に、わたくしから直接お邪魔することを、どうぞお許しくださいませ。
——エーデル公爵令嬢 シャルロット』
便箋の端には、薄い薔薇水の香りが、ふんわり染ませてあった。
紙を持つ指が、冷えた。
傷のあった指先の、薄い疼き。
私は、指先をもう一度そっと折り畳んで、息を整えた。
(……来るのね。)
(ご本人が、お運びになる、のね。)
窓の外。
春の夜の街灯の光が、細い雨のなかで、ぼんやりと滲んでいた。
その光の下に、今夜は、誰も立っていない。
不思議だった。
雨に濡れて困る人など、誰もいない夜のはずなのに。
その「いないこと」が、なぜか、少しだけ、寂しかった。




