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モブ令嬢のつもりでしたが、気づいたら国一番の商会を築いていたらしいです  作者: 秋月 もみじ


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第4話 偽造レシピ事件と、怪我の手巾


「ロートリング商会の薔薇石鹸、奥様がた、特別にお安くしておりますよ」


通りの向こうから、聞き覚えのない男の呼び声が届いた時、私は計量皿の指を止めた。


(……うちは、露店売りなどしていないのだけれど。)


ミレイと顔を見合わせる。


ひと拍の間を置いて、私たちはそろって前掛けの紐を外した。



通りをひとつ下ったところに、安普請の荷車が停まっていた。


荷台に並んでいたのは、うちの石鹸——のような、何か。


赤と金の包み紙は、見慣れた意匠を真似てある。けれど薔薇の紋様の花弁が、足りていない。書体も、微妙に崩れている。台紙の色は、うちの染料とは違う、青みの強い赤。


(これ、肌に合わない人が出るわ。)


(荒れる。すぐに荒れる。)


離れたところからでも、甘すぎる薔薇の香りが漂ってきた。香料ではなく、たぶん安価な代替品の匂い。早く香り立って、早く失せるやつ。前世の鼻が勝手に判定してくれた。


背筋が冷えた。


売上が落ちる、それだけの話ではない。粗悪品がうちの名前で出回っている以上、肌を荒らした客は「ロートリング商会の品が悪い」と思うのだ。それもそうだし、ここから先がさらにまずい。


——小さな商会を潰すのには、これは効く。


「エルーシア様」


ミレイが、私の袖を軽く引いた。


声は小さかった。けれど、顔色がはっきりと青い。


「あの……荷車の御者、見覚えが」


「ご存じの方?」


「以前、エーデル公爵領の産物を、宮廷の倉番まで運び入れていた業者にございます。何度か、荷渡しの場で顔を合わせました」


エーデル。


その名前を耳で拾った瞬間、雨雲の下に入ったときみたいに、世界の湿度がひとつ、上がった。



ミレイに店番を頼んで、私は荷車の客のひとりから粗悪品をひとつ買い上げた。証拠品として、布袋に入れる。それからエプロンを外して、外套を羽織り直した。


「ギルドへ行ってきます。夕刻までには戻ります」


「お気をつけて——」


言いかけたミレイが、ふっと口を閉じた。


何かを飲み込むような顔で、それから、深く頭を下げた。


「エルーシア様」


「はい」


「ご無事の、ご帰還を、お待ち申し上げております」


ちょっと大袈裟ね、と笑い返すつもりだった。


笑い返せなかった。


彼女の声の底に、長く重たい何かが沈んでいる気がしたから。


ミレイは、たぶん、自分の身に起きたことを、私の身に重ねて見ている。あの夜会の夜、震える声で訴えた瞬間に、世界が手のひらを返した、あの感覚を。


「すぐ、戻りますからね」


私は、できるだけ穏やかに言った。


彼女は、もう一度、深く頭を下げた。



魔導具師ギルドの本部は、王都の西門寄り、職人街の奥まったところにある。


煤けた石造りの建物だった。詰所の前では徒弟らしき少年たちが、車軸油にまみれた木箱を並べている。革のエプロンに飛んだ油の跡。鼻に届く、機械油と紙粉の匂い。前世の倉庫街を思い出させる空気だった。


私が受付の窓口で事情を説明すると、古参の書記が眼鏡を鼻先にずらして、棚から羊皮紙の束を引き出した。私の登録書類だった。


「ロートリング商会、石鹸および紅茶混成物の専売認可、期日有効」


書記は指の腹で、ひとつずつ条項を辿った。


「ラベル意匠の登録、期日有効。……ふん、これは早い処置が要りますな」


「お願いいたします。差し止めと、出所の追跡を」


「追跡については、ギルドの管轄で動きます。ただし公爵領の域内に踏み込むとなると、王の名の調書が要りましょう。差し止めだけなら、すぐに手配できます」


「お手数を、おかけいたします」


書記は、ふっと、口の端だけで笑った。


「お嬢さん。あんた、店を開いた時、登録の書式を、ぜんぶ自分でお読みになったでしょう」


「は。父が読み上げてくれた、その横で、自分でも、もう一度」


「そう。だから、こうして、こちらが動ける」


——書類というのは、書いた者を、いざという時に、守るためのもの。


書記の言葉が、頭の隅に小さく沈んだ。


(仕込んでおいて、よかった。)


(本当に、よかった。)


専売認可の登録は、店を開いた頃に済ませていた。前世の知識で「意匠と配合を登録しておかなければ、真似されたときに何も言えない」と分かっていたから。当時は面倒な書類仕事に思えて、父にも「そこまでするのか」と苦笑いされたのを覚えている。


ちゃんとやっておくものだ、と改めて思う。


帰り道、石畳の隙間に、春の細い雨が落ち始めた。


私は外套の襟を引き寄せて、少しだけ歩調を早めた。



夕暮れまでには、店に戻れた。


ミレイが出迎えて、店番の間に起きたことを、淡々と報せてくれた。一度、取引のある老婦人が心配して様子を見に来たこと。偽物の噂を広めにきたらしい男の子の二人連れは、彼女が穏やかにあしらって帰したこと。


「ありがとう。本当に助かりました」


「いえ。わたくしに、できることは、これくらいでございますから」


そう答えた彼女の目元が、少しだけ強くなっていた。朝より、ほんのわずか。


(……強くなる、ね、人って。)


(ちゃんと、強くなるのね。)


胸の奥で、ことん、と何かが、いい場所に収まる音がした。



夜の作業台に戻って、私は新作の保湿油の試作にとりかかった。


考え事があるときは、手を動かすに限る。前世のオフィスの夜更かしで身につけた習慣だ。


計量瓶に、薔薇の蒸留水。植物油を重ねる。湯煎で蜜蝋の薄片を溶かす。そこに、香料用の油を、ほんの数滴だけ落とす——


扉の鈴が、小さく、鳴った。


「閉店でございます——」


顔を上げて、声が、半ばで止まった。


夜色の上衣、銀の肩章、細身の剣。


今日は馬を駆けてきたのか、襟元に、雨の跡が残っていた。


「ファルシュタイン卿」


「近くを通った」


短い返事。


嘘だ、と私は一瞬で思った。この店は、騎士団の巡邏路のどこにもかすっていない。


「偽造品の届けを、ギルドにお出しになったとか」


「……お耳が、早うございますね」


「王都じゅうが噂にしている」


言いながら、卿は応接席のほうへは向かわず、私が立っている作業台のほうへ歩いてきた。雨の匂いと、革の匂いが、近くなる。


私が、思わず手を止めて彼を見上げた、ちょうどその時。


蜜蝋を移していた硝子瓶が、手元で傾いた。


熱くないほうの瓶でよかった、と頭のどこかが判断する間もなく、瓶が作業台の縁で軽く跳ねて、割れた。


指先に、つん、と刺すような痛み。


(あ。)


親指の付け根のところを、薄い破片が掠っていた。大したものではない。ぷつ、と血の珠が浮かんで、それが指の腹を、ゆっくり伝う。それくらいの。


「エルーシア殿」


低い声が、間近から落ちてきた。


気づいた時には、卿の大きな手が、私の手首の下にそっと添えられていた。傷のある指を下に向ける角度に、丁寧に直される。


「破片を、よく見せて」


もう片方の手で、彼は上衣の内側から、畳んだ手巾を取り出した。


それを広げて、私の指先の下に差し出す。血の珠を受け止めてから、彼は私の指を、その手巾でやわらかく押さえた。ぎゅっと、ではなく、ひたり、と。傷口の位置を正確に知っている押さえ方だった。


押さえた手巾の端に、見慣れない刺繍が覗いていた。


銀糸で縫い取られた、複雑な紋様。枝分かれした蔓のような、翼のような。騎士団の支給品ではない。私物の、それも、家紋のたぐい。


(あ、まずい。)


(この手巾、たぶん、染みたら落ちないやつだ。)


「ファ、ファルシュタイン卿、そちら、とてもよい品のようですから、もっと粗末な布を——」


「黙っていてほしい」


短く、遮られた。


低い声が、私の指先のすぐ上で、落ちた。


「少しだけ、じっとしていてくれ」


彼は傷口を押さえたまま、もう片方の手で、作業台の上の硝子片を遠ざけ、私の指のそばに清潔な布を置く器用さを見せた。視線はずっと、私の指のほうに向いていた。


私の顔ではなく、ずっと、私の指。


それがかえって、うなじのあたりに、熱を集めた。


(見ないで、私の指先。)


(そんなに長く、見ないで。)


(見られていると、私の指のほうが、おかしくなる。)


傷は、じき、止まった。


止まったあとも、彼は、すぐには手を離さなかった。


「染みは、問題ない」


ぼそりと、彼が言った。


「気にしないでほしい」


——気にしないで、ほしい。


なぜだろう。彼の語尾の「ほしい」のところだけが、銀糸で縫い止められたみたいに、耳の内側に、長く残った。



翌々日。


ギルドの使者が、息を切らして店に駆け込んできた。


「ロートリング商会御中、王都内の全市場より、偽造薔薇石鹸の撤収、本日朝までに完了いたしました」


荷車を引いていた業者は、王都から逃げ出そうとして西門で止められたこと。取り調べで、発注元が「エーデル公爵領の代官所」であったと認めたこと。ギルドが正式な抗議文書を、エーデル家へ送付したこと。


ミレイが、息を詰めて聞いていた。


私も、息を詰めて聞いていた。


(動いた。)


(早かった。)


売上は、もう、戻り始めていた。


心配して様子を見にきていた老婦人たちが、翌々日には「よかった、信じておりましたよ」と笑って、いつもの紅茶を買って帰っていった。フォルクハルト夫人は、わざわざ伯爵夫人を連れて来店し、「ほら、だから言ったでしょう。ここが本物よ」と得意げに扇を振っていた。


扇の陰で、彼女は囁いた。


「社交界でもね。あちらのお嬢様の評判が、ちくちくと——」


「……あちら、と、おっしゃいますと」


「ふふふ、お察しくださいませ」


夫人の目が、楽しそうに細められた。


噂の風向きが、ゆっくり、向きを変えつつある。


私が動いたのではない。動かしたのではない。ただ、悪意のほうが、勝手に空気を悪くしていく。


(これは、私の手柄ではないのよ。)


(自分のお書きになった筋書きが、ご自分のところに、戻っていっているだけ。)


胸のなかで、そう、整理する。



その日の夜。


使用人のハンナが、勝手口から、一通の封書を抱えて駆け込んできた。


「お嬢様、こちら。お使いの方が、直々にお渡しくださいとのことで」


紋章の封蠟。


見覚えのある紋章。


エーデル公爵家。


封を切ると、上品な紙に、流麗な筆跡が、さらりと記されていた。


『親愛なるロートリング嬢。


近頃、お店の評判を耳にいたしまして、ぜひ一度、伺わせていただきたく筆を取りました。


お忙しくないお日に、わたくしから直接お邪魔することを、どうぞお許しくださいませ。


——エーデル公爵令嬢 シャルロット』


便箋の端には、薄い薔薇水の香りが、ふんわり染ませてあった。


紙を持つ指が、冷えた。


傷のあった指先の、薄い疼き。


私は、指先をもう一度そっと折り畳んで、息を整えた。


(……来るのね。)


(ご本人が、お運びになる、のね。)


窓の外。


春の夜の街灯の光が、細い雨のなかで、ぼんやりと滲んでいた。


その光の下に、今夜は、誰も立っていない。


不思議だった。


雨に濡れて困る人など、誰もいない夜のはずなのに。


その「いないこと」が、なぜか、少しだけ、寂しかった。

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