第3話 ヒロインが弟子入り志願してきたのですが
店先の敷石に、影が落ちていた。
春の朝の、まだ石が湿っている時間。パン屋の竈の匂いが通りの奥から流れてきて、屋根の樋で鳥が囀っている。いつもの朝のはずだった。
その影の主が、うちの店の前で頭を下げていると気づくまで、私はしばらく店の鍵を握り直していた。
(……うん?)
(え?)
関わらない、と決めていた。
決めて、決め直して、さらに念を押して決めていたはずだった。
それなのに。
顔を上げたその少女が「あの子」だと気づいた瞬間、私は鍵を敷石に取り落とした。
——ミレイ嬢。
あの夜会で、王太子殿下に指差された、あの。
「……ロートリング男爵令嬢、で、間違いございませんか」
彼女の声は小さかった。小さくて、震えていて、それなのに妙に澄んでいた。
旅塵の残るマントの裾。結い直した跡のある亜麻色の髪。目の下にうっすら影があって、何日か碌に眠っていないのが素人目にも分かる。それでも彼女は、一度も姿勢を崩さず、きちんと礼をした。
(ああ、そうか。)
(夜会で指差された後、彼女は、どこにも行き場がなかったのだ。)
胸の奥で、何かが軽く痺れた。
モブ令嬢として端っこでやり過ごす、その決意が、朝露みたいに頼りなく揺れる。困ったな、と思う。本当に困る。
「……どうぞ、中へ」
気づけば、鍵を拾い直して錠を開けていた。
◇
店の奥の応接席に座らせて、私は薄荷の茶を一杯淹れた。熱すぎず、ぬるすぎず。旅の途中の人間の胃に、優しい温度。
ミレイ嬢はカップを両手で包んで、長いこと、黙って湯気を見ていた。それから、ぽつりぽつりと話した。
実家のコッツェン男爵家には戻れないこと。義母と異母兄が、「王太子殿下のお怒りを買った娘を迎え入れる余裕はない」と使いを寄越したこと。数日、王都の修道院の宿坊に泊めてもらったこと。そこでも長居はできないと告げられ、どこへ行けばいいのか分からなくなって、商会の案内札を頼りに歩いていたら、うちの看板にたどり着いたこと。
「……わたくしは、あの方の執務を、補佐しておりました。書類の整理や、陳情の振り分けを。他に取り柄と呼べるものがございません」
「はい」
「どのような仕事でも、いただけるならいたします。お給金のことは、こだわりません」
お給金のことは、こだわらない。
その一言に、私は小さく息を吐いた。
(ミレイ嬢、それはいけない。)
(そういうことを、こういう場面で言っては、駄目なのよ。)
前世で身についた、真っ当な社会人の感覚が、すうっと背筋を伸ばした。困窮した人間がその言葉を口にした瞬間、世の中は遠慮なく足元を見る。それは前世でも、この世界でも、たぶん変わらない。
カウンターの裏で、私は一度だけ目を閉じた。
——関わらない主義、今日ここで、終わるかもしれない。
いえ。
終わる、のかもしれない。
「ミレイ嬢」
「はい」
「今夜のお宿は、こちらで用意いたします。通りの先に、うちが懇意にしている女将の宿がございますので、そちらに」
「……え」
「一晩、こちらにも考えさせてください。明日の朝、改めておいでいただければ、お返事をいたします」
彼女は顔を上げた。
目に涙の膜が張っていた。それを堪えようとして、堪えきれずに、ぽろりとひとつ、カップの縁に落ちた。すみません、と小さな声で謝って、彼女は袖口でそれを拭った。
(……ほら。)
(ほら、だから困るのよ。)
私は自分のエプロンの紐を、意味もなく結び直した。
◇
一晩、本当に考えた。
寝台に入ってからも、天井の染みばかり見ていた。ゲームの中の『ミレイ』と、今日うちの応接席にいた生身のミレイ嬢は、同じ人物のはずなのに、全然違うかたちで胸に残っていた。台詞のついた立ち絵ではなかった。涙がカップの縁に落ちる、その小さな音が。
(雇う。)
(ただし、ちゃんと契約書を交わす。)
(この子が将来、誰かに「助けてやったのに」と言われないように。私自身も、そう言わないように。)
決めてしまえば、手は早かった。
朝、羽ペンを走らせて一枚の契約書をまとめる。ロートリング商会の書式。雇用期間、業務範囲、月ごとの給金、住居の提供。そして——本人の意思で、いつでも辞職できること。辞職の際に違約金を課さないこと。結婚や他の雇用への移籍を妨げないこと。
ひとつずつ、声に出して読み上げるつもりで書いた。
◇
翌朝、宿の女将に連れられて、ミレイ嬢が店にやってきた。
髪を丁寧に結い直し、貸し出された簡素なドレスに身を包んでいる。昨日よりは顔色がいい。それでも、店に入る時の足取りには、まだ迷いがあった。
私は応接席で契約書を広げ、彼女の前にそっと滑らせた。
「読んでください。納得のいかない部分は、その場で直します」
「……拝見いたします」
彼女の目が、行を追って動いた。
途中で、止まった。
「……『本人の意思で、いつでも辞職可能』」
「はい」
「『辞職の際、違約金を課さない』」
「はい」
「……『結婚や他の雇用への移籍を妨げない』」
「はい」
顔を上げた彼女の目が、また濡れていた。今度は堪えようともしなかった。
「エルーシア様。……わたくし、これに署名をさせていただきたく」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
羽ペンを差し出した指が、受け取る指と、一瞬だけ触れた。
震えていた。
彼女の指も、私の指も、たぶん両方。
◇
その日の午後。
開店の札を下げた扉に、鈴が鳴った。
私とミレイは、カウンターの裏で石鹸の型抜きをしていた。彼女は飲み込みが早かった。計量の桝を見ただけで「目方に換算するとこのくらいでしょうか」と呟いた時、私はちょっと感心した。書類仕事の下地があると、こういう場面で地味に効く。
鈴の音。振り返る。
夜色の上衣、銀の肩章、細身の剣。
(……また?)
(また、本当にいらっしゃった……?)
「ファルシュタイン卿、いらっしゃいま——」
声が、喉の途中で止まった。
彼の視線が、私を越えて、カウンターの奥にいるミレイの上でぴたりと止まったのだ。灰色の瞳が、ほんのわずかに細くなる。刃物の背を撫でるような、静かな鋭さ。
ミレイが小さく息を呑んで、深く頭を下げた。
「ファルシュタイン騎士団長様にご挨拶申し上げます、コッツェン家のミレイでございます」
「……承知した」
彼はそれだけ答えて、こちらへ歩いてくる間、ミレイのほうをちらと一度、また一度、視線を投げた。値踏みしている、というのとは違う。何かを確かめている、という顔だった。
「エルーシア殿」
心臓が、かたんと一回跳ねた。
(——いま、お名前で?)
(ロートリング嬢、ではなく?)
卿は、それに気づいた様子もなく、応接席の同じ椅子に腰を下ろした。いつもの場所。鞘の先を布で包んでから、膝の脇に立てかける、いつもの動き。
「試作のお茶を、もう一度」
「……かしこまりました」
湯を沸かす手が、やたらと落ち着かなかった。ミレイが私の横で、型抜きを続けながら、耳元でそっと囁いた。
「……以前は、『ロートリング嬢』と、お呼びになられていたのですね」
「え?」
「いえ。何でも」
ミレイの口元に、ほんの小さな笑みが浮かんだ気がした。彼女はすぐにそれを消して、型抜きの続きに戻った。
◇
やがて扉の鈴が続けて鳴って、フォルクハルト夫人がお連れらしき伯爵夫人と入ってきた。新作のお茶の噂を聞きつけて、と夫人は笑った。カウンター越しに世間話が始まる。
「ねえ、先日の夜会のお話、聞きまして?」
「ええ、聞きましたとも。殿下も、あのような場でなさる必要はなかったでしょうに」
「うちの主人も申しておりましたわ。きちんと調べもせずに人前で断ずるのは、どうにも——見る目、とやらを疑われるのではと」
扇の陰から、くすりと笑う声。
私はポットの湯加減を見ながら、視線だけをちらりと応接席に送った。
ファルシュタイン卿はカップに口をつけていた。無表情のままだった。ただ、それを聞いていないふりをしているのだけは、分かる。
夫人たちが石鹸とお茶をひと包みずつ買って帰ると、店は急に静かになった。
卿が立ち上がった。剣を腰に戻す。
「エルーシア殿」
「はい」
「ミレイ嬢の件、少し、私のほうでも調べておく」
「えっ」
「報せることが出来るようになれば、伺う」
それだけ言って、彼は扉のほうへ歩いていった。
(……え?)
(調べる? 何を? なぜ、ファルシュタイン卿が?)
扉の鈴が鳴って、彼の背中が春の午後の光に消えていく。
ミレイが石鹸の型を置いて、私の隣にそっと立った。
「エルーシア様」
「はい」
「ファルシュタイン卿は、お優しい方ですね」
優しい、のだろうか。私は言葉を探した。無口で、無表情で、静かで、なぜか帯剣の鞘の先に布を巻く人。そういう人を、優しいと呼ぶのだろうか。
呼ぶのかもしれない、と少しだけ思ってしまった私は、たぶん、もう——。
もう、だいぶ、負けているのだと思う。




