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モブ令嬢のつもりでしたが、気づいたら国一番の商会を築いていたらしいです  作者: 秋月 もみじ


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第2話 視察、です。視察


紅茶葉の缶を開けると、乾いた甘い香りが朝の空気にふわりと立ち上がった。


セイロンの新葉。焙煎の加減も悪くない。いつもなら、この瞬間が一日で一番好きな時間だった。


いつもなら。


舞踏会の夜からそろそろ一週間。


私は調合台に缶を置いて、微かに眉を寄せる。ミレイ嬢のあの震える声が、耳の奥からまだ剥がれない。寝台に入ると、ふっと思い出す。紅茶を淹れていると、ふっと思い出す。


(いけない。関わらないって、決めたのだから。)


朝市の籠からレモングラスを一束取り出して、壁の掛け金に吊るした時だった。


——コツ、と。


店の扉を押す音がした。


「まだ開店前——」


振り向いた私の声が、半ばで宙に浮いた。


夜色の上衣に、銀の肩章。腰には細身の剣。背が高くて、灰色の瞳は静かで、どこかで見た——。


あ。


あの。


昨夜の馬車待ちで、ショールを拾ってくれた、あの。


(え、どうしてうちの店に?)


「開店前なのは承知している」


低い声が、店の奥まで届いた。抑揚というものを忘れたみたいな、平たい声。


「少し、見させてもらいたい」


彼はそう言って、自分の肩章の銀の縁をほんの一瞬だけ指先で触れた。私はそこに刻まれた紋章を見て、息を呑む。


双頭の鷲。ああ、双頭の鷲。


王国騎士団長の、紋章。


……え?


え?


(ちょっと待って。ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って。)


(騎士団長? この人、騎士団長?)


(昨夜、私のショールを拾ってくれた人が、この国の騎士団の、一番偉い人?)


紅茶葉の缶を持った指先が、かたん、と小さく震えた。


「……あの、ファ、ファルシュタイン卿、でいらっしゃいますか」


「そうだ」


「わ、わざわざ、このような小さな店に、何かご用でしょうか」


「視察だ」


「……視察」


「新しく登録された商会の、商品の安全性を確認する。王都全体を順に回っている」


ああ、そうですか。そう、視察。視察ですよね。


(なぜうちから。いやいや、順番だって仰ったし、順番なのでしょう。でもうちよりずっと歴史のある商会はいくらでもあって、きっと昨日はそちらで、今日はたまたま——)


(いえ、考えてもしょうがない。お客様ではある。お茶を出そう。)


頭の中は盛大な混乱の渦だったけれど、舌と手は勝手に動いた。前世の経験のおかげだった。接客業、大事。


「どうぞ、おかけになってください。あいにく、まだ朝の仕込みの途中で、お湯を改めて沸かします。少しお時間をいただきますが——」


「かまわない」


彼は応接用の椅子のうち、一番入り口に近い、目立たない席を選んで座った。剣は、座る前に外して、膝の脇へ立てかけた。ごく自然な動作だったけれど、店の椅子で鞘が揺れないように、鞘の先を布で包んでから立てかけているのが見えた。


(……配慮の人、なのかしら。)


湯を沸かす間、私は試作中のブレンドをいくつか並べて迷った。冷静に考えれば、騎士団長様のような方に出すのは、この国の定番、王室御用達の老舗の系統をなぞったものが無難だろう。


でも。


手が勝手に、まだ名前もつけていない試作の缶を取った。


『夏の午後』のつもりで配合したブレンド。アッサムを少なめに、アップルミントとオレンジピールを落とした、ほんのり甘さを含ませたやつ。まだ誰にも出したことのない、朝に自分で飲んでみるだけのやつ。


(なに考えてるのよ、私。)


(王室御用達のほうが間違いないのに。)


指は止まらなかった。気づいた時にはポットに茶葉を量って、時間を計って、白磁のカップに注いでいた。甘く暖かい湯気が、応接席までふわりと渡る。


「お待たせいたしました」


カップを置くと、彼の灰色の瞳が、ほんのわずかに下に落ちた。湯気の立つ茶面をしばらく見てから、取っ手に指を添える。指が長い。手袋の縁から覗く手首の骨が、思ったより細い。


(あ、見てた私。)


(見ないの。見ないのよ、モブ令嬢。)


慌てて視線を逸らして、私は作業台に戻った。レモングラスの束の位置を直すふりをして、耳だけそちらに向ける。


彼は、飲んだ。


音はしなかった。


カップを置く時、かち、と控えめな音がした。


「……もう一杯」


ふ、と息が止まった。


「えっ、あ、はい!」


振り返ってしまった。我ながら、勢いよく振り返りすぎた気がする。


彼の表情はほとんど動いていなかったけれど、瞳の奥の光の具合が、最初より、少しだけ——なんというか、温度のある光になっている気がした。気のせいかもしれない。気のせいかもしれないけれど。


(もう一杯、って、言ってくださった。)


(私の、試作を。)


甘い痺れのようなものが、胸の内側を一度だけ通り抜けた。お客様に気に入っていただけたという、ただそれだけのこと。それだけのことなのに、なぜか羽ペンが震える時みたいに指先が熱を持つ。



結局、彼は朝の光が斜めに傾くまで、店に居た。


開店時間になって、常連のフォルクハルト夫人と、その娘のヒルダ嬢が入ってきた時。ファルシュタイン卿は応接席から静かに立ち上がり、商品棚の奥の、見えにくい位置へ一歩下がった。夫人たちの邪魔にならない位置だ。


夫人は、入り口で足を止めた。


「あらあら、エルーシアさん。お連れさま?」


「いえ、あの、お客様でして」


「まぁ」


夫人は扇をふわっと口元に持ち上げた。目が笑っている。ヒルダ嬢は年若くて、ファルシュタイン卿のほうを見てから、ちいさく頰を赤らめて、母の袖を引いた。


「母さま、あのお方、もしかして」


「しっ」


夫人は娘を軽くたしなめて、カウンターのほうへ歩いてきた。


「石鹸の新しいブレンドがあると伺って、寄らせていただいたの。今日は試作のお茶もあるのかしら」


「あ、はい、ちょうど今朝……」


会話の途中、ファルシュタイン卿は棚の前で、うちの石鹸の包み紙を手に取って眺めていた。値札も商品の配置もじっくり見ている。視察のふりをしているのか、本当に視察なのか、見ていてよく分からなかった。ただ、彼の背中は夫人とヒルダ嬢の会話を邪魔しないように、絶妙に気配を消していた。


夫人が石鹸とお茶を買って帰ると、卿は棚の前から応接席へは戻らず、そのまま入り口のほうへ歩いてきた。


剣を腰に戻しながら。


「世話になった」


「い、いえ、こちらこそ——」


「また来る」


短い言葉の、「また」のところが。


耳の奥で、ほんの少し、低く響いた気がした。


錯覚だ。錯覚。前世だって恋愛経験の薄かった私が、騎士団長様の挨拶の一語から何かを感じ取るだなんて、自意識過剰もいいところ。


それなのに。


扉が閉まって、鈴が鳴り終わるまで、私は見送りの姿勢で固まったまま動けなかった。



翌朝の新聞を開いて、私は紅茶を取り落としそうになった。


『王太子殿下、新たな婚約者候補の選定へ エーデル公爵家ご令嬢シャルロット様のご令名が筆頭に』


見出しの下に、シャルロット様の楚々とした姿絵。父であるエーデル公爵の談話。ミレイ嬢の名前は、どこにも出ていなかった。まるで、あの舞踏会の夜の騒ぎそのものが、最初から存在しなかったかのように。


(……やっぱり、そうなるのね。)


(逆ルート、進行中。)


新聞を畳んで、私は自分に言い聞かせる。関係ない。モブ令嬢は端に寄って、紅茶と石鹸を作って、ちゃんと生活していればそれでいい。舞踏会の夜も、ファルシュタイン卿の来店も、全部、偶然の重なり。


言い聞かせて、言い聞かせて、それでも。


店の扉の真鍮の取っ手を、拭き布で磨いてしまったのは、われながら分かりやすかったと思う。


昨日、あの人が触れたところを。

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