第1話 婚約破棄を目撃した、モブ令嬢の独白
「この婚約を——破棄する!」
その瞬間、私は会場の柱の陰で、心の中で盛大に「は?」と叫んだ。
だってそれ、あるはずのない台詞なのですが?
春の夜会。シャンデリアの光が大広間を銀色に塗り替えて、ワルツの音がぴたりと止まった。楽団の指揮者が凍りついて弓を持ったまま固まっている。私は柱の影で、扇を半分開いたまま、息を止めた。
広間の中央。
王太子アレクシス殿下が、金糸の儀礼剣の柄に手を添えて、震えるミレイ嬢を指差している。周囲の貴族たちが一斉に後ずさる音が、絨毯越しにふわりと広がった。
「ミレイ、お前が他の男と密会していたという証拠は挙がっている。この私を欺いたこと、断じて許さぬ」
(いやいや。いやいやいや。)
(ちょっと待って。)
(前世でプレイした『星辰の花束』では、アレク様√の4章でミレイが断罪される展開なんて無かった。無かったのよ。)
公開断罪。婚約破棄。会場中の視線。
——全部、本来は公爵令嬢シャルロット様がやられるはずの役割じゃなかったでしたっけ?
私は扇の裏で、ゆっくり息を整える。整えてから、もう一度会場を見回した。
視線が気になる。王太子殿下に集まっているのではなく、その斜め後ろに佇んでいる公爵令嬢シャルロット・エーデル様に、ぽつり、ぽつりと。貴婦人の扇の隙間から、冷ややかな視線が落ちている。
『見る目がないこと』
『証拠、とおっしゃるけれど……』
『エーデル嬢がそんなに一生懸命勧めてらしたものね』
囁き声は風のように広間を撫でて、それから消えた。
——なるほど。
私は唇を引き結ぶ。なるほど、と自分に言い聞かせる。読者じゃない、私はもう。この世界に生きている一人の令嬢、ロートリング男爵家の次女エルーシアなのだ。そして。
モブ。
そう、モブ令嬢。
ゲームの主人公でもなければ悪役でもない。三行だけ名前が出る、脇役にすら満たない端役。前世の記憶が戻った二年前、私は決めた。関わらない。巻き込まれない。端っこで、ただ静かに生きる。
(だから、この場面は見なかったことにする。)
(見なかったことに、するの。)
私は柱の影からそっと一歩下がった。広間の奥、使用人用の小扉に向かって、ドレスの裾を片手で摘みながら。
「殿下……殿下、違います、私はそのような……」
ミレイ嬢の声が背中に刺さる。震えて、掠れて、ほとんど泣いているような声だった。
振り向きたかった。
振り向かなかった。
——ごめんなさい。心の中で一言だけ詫びて、私は小扉を押した。
◇
王宮の正面玄関に出ると、夜気が頰を撫でた。馬車待ちの列がずらりと伸びていて、従者たちが松明を掲げている。私の馬車は順番待ちで、あと五台ほど先。
深呼吸。
もう一度、深呼吸。
(大丈夫。関わってない。関わらなかった。私はただ、顔を出して、踊らずに帰っただけのモブ令嬢。)
そう言い聞かせながら、肩にかけた薄絹のショールを引き寄せる。春とはいえ、夜はまだ冷える。ちりちりと夜風がうなじを撫でて——そのまま、ショールの端をさらっていった。
あ、と声を出す間もなかった。
ショールが私の肩から滑り、絨毯の上に落ちる、その寸前で。
白い手袋の手が、それを受け止めた。
「……落とされましたよ」
低い声が、すぐ横で言った。
顔を上げる。
見知らぬ騎士だった。
夜色の上衣に、銀の肩章。腰には帯剣——二本。いや、よく見ると左腰に一本。もう一方は柄だけ覗く短剣。ランタンの光が、その人の灰色の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……あ、……ありがとうございます」
声が詰まった。我ながら、間抜けな返事だ。
彼は私にショールを差し出すと、それ以上なにも言わなかった。挨拶もなく、名乗りもなく、ただ私がショールを受け取って胸元に抱え直すまで、静かに待って——受け取ったのを見届けてから、小さく頷いて、列の後方へ去っていった。
耳の奥で、低い声の残響だけが、しばらく消えなかった。
(……今の、誰?)
(王宮警備の近衛兵、かしら。でも近衛にしては肩章の形が……)
(いえ、考えない。考えない。モブだもの、私。覚えなくていい。)
馬車が来た。
私は御者に小さく頷いて、馬車に乗り込んだ。
◇
タウンハウスの一階——工房兼店舗の勝手口から中に入ると、紅茶葉と蜜蝋の匂いが私を迎えた。馴染みの匂い。夜気で冷えた頰が、ふわりと緩む。
「お嬢様、舞踏会はいかがでしたか」
使用人のハンナが眠そうな目で顔を出した。私は微笑んで、「つつがなく」とだけ答える。
「明朝の仕込み、少ししてから休むから。もう下がっていいわ」
ハンナが下がってから、私はランプを一つだけ持って店の奥へ向かった。調合台。乾燥棚。陳列された石鹸と、並べたばかりの新作の紅茶缶。全部、この二年、ちゃんと積み上げてきたもの。
(私の居場所。)
(これさえあれば、王宮で何が起きても関係ない。)
乾燥中のカモミールを指先で確かめて、明朝の配合のメモを調合台に広げる。羽ペンにインクを含ませた、その時だった。
窓の外。
街灯の光の輪の中に、誰かが立っていた。
動かない。ただ立って、こちらを——この店を、見ている。
一瞬、目が合ったような気がした。灰色の、静かな瞳。
(……まさか。)
瞬きした次の刻には、人影は夜闇に溶けていて、街灯の下には猫が一匹、尻尾を揺らして歩いていくだけだった。
私は羽ペンを置いた。
置いて、ランプの火をじっと見つめる。
ままならない。本当に、ままならない。
モブとして、端っこで、静かに。そのつもりだったのに。
——それなのに、あの低い声は、どうしてこんなに。
こんなに、耳に残っているんだろう。




