第10話 プロポーズと、新しい朝
指先に、昨日の手の温度が、まだほんのり残っていた。
◇
茶会の夜は、短かった。
彼は約束どおり、日が沈んで少し経った頃に、店の裏口に立っていた。裏口の軒下に立ったまま、踵を合わせて、深く頭を下げた。
「本日はお疲れでしょう。今夜は、顔を見るだけで、おいとまいたします」
「……あの、卿」
「明日、改めて、上がります」
「はい、でも、立ち話は」
「夜の空気が心地よい。……私、こういう、落ち着かない夜は、立って、風を受けたいほうで」
なにそれ、と、私は笑いたいのを堪えた。
堪えきれずに、結局ちょっと、笑ってしまった気がする。彼の灰色の瞳のなかに、笑った私の輪郭が映った。それを彼が見て、彼の口元が、ほんのわずか、ほぐれた。
交わした言葉は、そのくらいだった。
それだけの夜なのに、寝付くまで、私は、妙に長いあいだ、枕の縁を指で辿っていた。
◇
翌朝、定休日。
開店の札を裏返して「本日休業」。店の扉に鍵をかけて、朝いちばんに、ミレイを送り出した。彼女はこちらの様子を見て、にこり、とだけ笑った。
「エルーシア様、わたくし、本日は、コッツェン伯母の家の整理のお手伝いに参りますので、夕刻まで戻りませんわ」
「……そう。気をつけてね」
「えぇ、ゆっくりと、なさってくださいませ」
「……ミレイ」
「はい」
「あなた、本当に、将来、商才を発揮するわよ」
彼女は、深く礼をした。肩がちょっと震えていた。たぶん、笑っていた。
◇
一日じゅう、落ち着かなかった。
閉めた店の床を、意味もなく拭いたり。紅茶缶のラベルを、並べ直したり。新作の石鹸の型を、三度、数え直したのは……いえ、数えた回数は内緒にしておく。
夕方近く、鐘楼の鐘が、三つ鳴った。
その、ちょうど直後に。
鈴が、そっと鳴った。
◇
夜色の上衣ではなかった。
今日の彼は、騎士団の礼装ではない、薄い灰の上衣だった。それが、かえって新鮮だった。剣は、たぶん腰に差していない。手袋は、もうしていなかった。
「……ご無沙汰、しております」
「昨夜、お会いしたばかりですが」
「左様でございますね」
真顔で、そう言う。
それから、上衣のあわせの内側から、布の包みをひとつ取り出した。小さな陶器の茶器。旅の商人街で扱っているような、素朴な紋様の一対のカップ。
「街の片隅の、焼き物の店で、見つけました」
「わざわざ?」
「わざわざです」
彼は、私の前の卓に、それをそっと置いた。
置いたつもりだった。
——カタン。
片方のカップが、彼の指先をすり抜けて、卓の端で、軽く跳ねた。
あ、と彼が声をあげる間もなかった。
カップは、卓の端から床に落ちて、ちいさく、砕けた。
「……失礼」
彼が、すぐに床に膝をついた。指が、破片のほうへ伸びる。
その指は、震えていた。
私が昨日、公式な広間で握り返した、長くて骨ばった指が、今は、はっきりと、ほんの小刻みに、震えている。
(……あら。)
(……あらあらあら。)
私も、つられるように、床に膝をついた。素朴な白い破片を、そろそろと、両手の間に集める。破片は三つほどの、大きくない割れ方だった。
二人、しゃがみこんで、床の上で、破片を拾う手が、ふと、いちど、触れ合った。
そのまま、どちらも、動けなくなった。
「……エルーシア殿」
「はい」
「よろしければ——」
声が、かすれていた。
「生涯、そばに、いてほしい」
(わあ。)
(わあああ。)
(茶器を割った姿勢のまま、申し訳なさそうな角度で、おっしゃるの、反則ですよ。)
胸のずっと奥のほうが、ふいに、優しく、どん、と鳴った。
返事を、しなければ。ちゃんと、しなければ。
ちゃんと、と頭では思っているのに、口から出てきたのは、ひと言、ちがうやつだった。
「……あの、お茶菓子、から、お出ししても、よろしいですか」
言ってから、私は、自分で、一瞬、息を止めた。
(ちがう。)
(ちがうのよ、それじゃない。)
(お茶菓子から、って、なに、お茶菓子から、って。)
彼の灰色の瞳が、ぴたりと、私の顔で止まった。
止まって、ゆっくり、ほぐれた。
ほぐれて——
「……ふ」
「……え?」
「ふ、っ」
笑った。
たしかに、笑った。
眉の角が、ほんのわずかに下がって、目尻に薄く皺が寄って、口の端が、ちいさく、持ち上がって。
笑った彼の顔を、私は、初めて、見た。
「エルーシア殿」
「は、はい」
「お茶菓子は、あとに」
「……はい」
「先に、返事を」
低い声が、すぐ目の前で、笑いを残したまま、やさしく、低かった。
破片を集めた手のひらを、そっと、卓のうえに戻して。
私は、一度だけ、深呼吸をして。
「……はい」
答えた。
答えたつもりだった。実際には、声が、途中で、少しだけ、掠れたと思う。
彼の長い指が、私の頰の、ほつれた髪を、そっと、耳のうしろへ送った。
額が、そっと、触れた。
息が、触れるか触れないかの、ちょうどその境目で。
唇が、重なった。
音は、しなかった。
夕暮れの、定休日の、閉めた店のなかで。
山梔子の残り香と、紅茶葉の香りと、砕けた白い陶片の上に、柔らかい光が、長い長い影を、ゆっくり落としていた。
◇
その年の夏のおわりに、私たちの婚約は、ごく身内と、王妃陛下と、いつもの常連の貴婦人方の前でだけ、静かに披露された。
秋。
ロートリング商会は、王都の中心街に、二店目を出した。
最初の店は、そのまま工房と本店。ミレイが、番頭として切り盛りをしている。私の名義の看板の下で、けれど運営のかなりの部分は、彼女自身の判断になっている。来年の春、彼女は自分の名を冠した小さな香料店を、商会の分家として独立させる。そう、準備を進めている。
冬。
国境の駐屯地から、便りが届いた。アレクシス殿下の筆跡ではなかった。副官殿からの、事務的な報告。殿下は、毎朝、誰よりも早く書類に目を通しておられる、とのことだった。
エーデル公爵閣下は、宰相位に留まった。ただ、社交界での発言の重みは、めっきり軽くなった。
シャルロット様のお住まいの領地では、冬、雪が多く降ったと聞いた。それ以上のことは、私の耳には入らない。入らないで、よいのだと思う。
◇
春。
店の勝手口の軒下の鉢の、白い薔薇が、今年もひとつ、蕾をふくらませていた。
朝、紅茶葉の缶を開封した瞬間、鈴が鳴った。まだ開店前の時間。
「——また、視察だ」
低い声。
夜色の上衣ではなかった。今日は、淡い灰の、普段の上衣。腰の剣は、軽い。騎士団長の任は、継続中のまま。
「本当に、視察でしょうか」
「視察だ」
「視察でしたら、隣町の、老舗から回られるべきですよ」
「……あの店の紅茶は、私の口に合わない」
「あらあら」
クラウスは、いつもの応接席に座った。鞘の先の布を畳み直す手順は、今日も、変わらない。私は、試作の紅茶を、いつものカップに注いだ。
彼の口元が、ほんのちいさく、ゆるんだ。
◇
——私は、モブのつもりだった。
端役で、脇役で、ただそれだけのつもりだった。前世の記憶を抱えたまま、この世界の端っこで、紅茶と石鹸を作って、静かに生きていくつもり、だった。
それなのに、気づいてみると。
私は、開け放した店の窓越しに、春の光のなかに座る彼の横顔を、眺めていた。
「クラウス卿」
「——クラウス、と」
「……クラウス」
「は」
「やっぱり私、モブだったはずなのですが」
彼は、カップを置いた。
ちらり、とこちらを見て、先ほどよりも、ほんの少しだけ、はっきりと、笑った。
「あなたは、」
「はい」
「私の、世界の、主役です」
春の光のなかで、白い薔薇の蕾が、また、ひとつ、ほどけた。




