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モブ令嬢のつもりでしたが、気づいたら国一番の商会を築いていたらしいです  作者: 秋月 もみじ


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第10話 プロポーズと、新しい朝


指先に、昨日の手の温度が、まだほんのり残っていた。



茶会の夜は、短かった。


彼は約束どおり、日が沈んで少し経った頃に、店の裏口に立っていた。裏口の軒下に立ったまま、踵を合わせて、深く頭を下げた。


「本日はお疲れでしょう。今夜は、顔を見るだけで、おいとまいたします」


「……あの、卿」


「明日、改めて、上がります」


「はい、でも、立ち話は」


「夜の空気が心地よい。……私、こういう、落ち着かない夜は、立って、風を受けたいほうで」


なにそれ、と、私は笑いたいのを堪えた。


堪えきれずに、結局ちょっと、笑ってしまった気がする。彼の灰色の瞳のなかに、笑った私の輪郭が映った。それを彼が見て、彼の口元が、ほんのわずか、ほぐれた。


交わした言葉は、そのくらいだった。


それだけの夜なのに、寝付くまで、私は、妙に長いあいだ、枕の縁を指で辿っていた。



翌朝、定休日。


開店の札を裏返して「本日休業」。店の扉に鍵をかけて、朝いちばんに、ミレイを送り出した。彼女はこちらの様子を見て、にこり、とだけ笑った。


「エルーシア様、わたくし、本日は、コッツェン伯母の家の整理のお手伝いに参りますので、夕刻まで戻りませんわ」


「……そう。気をつけてね」


「えぇ、ゆっくりと、なさってくださいませ」


「……ミレイ」


「はい」


「あなた、本当に、将来、商才を発揮するわよ」


彼女は、深く礼をした。肩がちょっと震えていた。たぶん、笑っていた。



一日じゅう、落ち着かなかった。


閉めた店の床を、意味もなく拭いたり。紅茶缶のラベルを、並べ直したり。新作の石鹸の型を、三度、数え直したのは……いえ、数えた回数は内緒にしておく。


夕方近く、鐘楼の鐘が、三つ鳴った。


その、ちょうど直後に。


鈴が、そっと鳴った。



夜色の上衣ではなかった。


今日の彼は、騎士団の礼装ではない、薄い灰の上衣だった。それが、かえって新鮮だった。剣は、たぶん腰に差していない。手袋は、もうしていなかった。


「……ご無沙汰、しております」


「昨夜、お会いしたばかりですが」


「左様でございますね」


真顔で、そう言う。


それから、上衣のあわせの内側から、布の包みをひとつ取り出した。小さな陶器の茶器。旅の商人街で扱っているような、素朴な紋様の一対のカップ。


「街の片隅の、焼き物の店で、見つけました」


「わざわざ?」


「わざわざです」


彼は、私の前の卓に、それをそっと置いた。


置いたつもりだった。


——カタン。


片方のカップが、彼の指先をすり抜けて、卓の端で、軽く跳ねた。


あ、と彼が声をあげる間もなかった。


カップは、卓の端から床に落ちて、ちいさく、砕けた。


「……失礼」


彼が、すぐに床に膝をついた。指が、破片のほうへ伸びる。


その指は、震えていた。


私が昨日、公式な広間で握り返した、長くて骨ばった指が、今は、はっきりと、ほんの小刻みに、震えている。


(……あら。)


(……あらあらあら。)


私も、つられるように、床に膝をついた。素朴な白い破片を、そろそろと、両手の間に集める。破片は三つほどの、大きくない割れ方だった。


二人、しゃがみこんで、床の上で、破片を拾う手が、ふと、いちど、触れ合った。


そのまま、どちらも、動けなくなった。


「……エルーシア殿」


「はい」


「よろしければ——」


声が、かすれていた。


「生涯、そばに、いてほしい」


(わあ。)


(わあああ。)


(茶器を割った姿勢のまま、申し訳なさそうな角度で、おっしゃるの、反則ですよ。)


胸のずっと奥のほうが、ふいに、優しく、どん、と鳴った。


返事を、しなければ。ちゃんと、しなければ。


ちゃんと、と頭では思っているのに、口から出てきたのは、ひと言、ちがうやつだった。


「……あの、お茶菓子、から、お出ししても、よろしいですか」


言ってから、私は、自分で、一瞬、息を止めた。


(ちがう。)


(ちがうのよ、それじゃない。)


(お茶菓子から、って、なに、お茶菓子から、って。)


彼の灰色の瞳が、ぴたりと、私の顔で止まった。


止まって、ゆっくり、ほぐれた。


ほぐれて——


「……ふ」


「……え?」


「ふ、っ」


笑った。


たしかに、笑った。


眉の角が、ほんのわずかに下がって、目尻に薄く皺が寄って、口の端が、ちいさく、持ち上がって。


笑った彼の顔を、私は、初めて、見た。


「エルーシア殿」


「は、はい」


「お茶菓子は、あとに」


「……はい」


「先に、返事を」


低い声が、すぐ目の前で、笑いを残したまま、やさしく、低かった。


破片を集めた手のひらを、そっと、卓のうえに戻して。


私は、一度だけ、深呼吸をして。


「……はい」


答えた。


答えたつもりだった。実際には、声が、途中で、少しだけ、掠れたと思う。


彼の長い指が、私の頰の、ほつれた髪を、そっと、耳のうしろへ送った。


額が、そっと、触れた。


息が、触れるか触れないかの、ちょうどその境目で。


唇が、重なった。


音は、しなかった。


夕暮れの、定休日の、閉めた店のなかで。


山梔子の残り香と、紅茶葉の香りと、砕けた白い陶片の上に、柔らかい光が、長い長い影を、ゆっくり落としていた。



その年の夏のおわりに、私たちの婚約は、ごく身内と、王妃陛下と、いつもの常連の貴婦人方の前でだけ、静かに披露された。


秋。


ロートリング商会は、王都の中心街に、二店目を出した。


最初の店は、そのまま工房と本店。ミレイが、番頭として切り盛りをしている。私の名義の看板の下で、けれど運営のかなりの部分は、彼女自身の判断になっている。来年の春、彼女は自分の名を冠した小さな香料店を、商会の分家として独立させる。そう、準備を進めている。


冬。


国境の駐屯地から、便りが届いた。アレクシス殿下の筆跡ではなかった。副官殿からの、事務的な報告。殿下は、毎朝、誰よりも早く書類に目を通しておられる、とのことだった。


エーデル公爵閣下は、宰相位に留まった。ただ、社交界での発言の重みは、めっきり軽くなった。


シャルロット様のお住まいの領地では、冬、雪が多く降ったと聞いた。それ以上のことは、私の耳には入らない。入らないで、よいのだと思う。



春。


店の勝手口の軒下の鉢の、白い薔薇が、今年もひとつ、蕾をふくらませていた。


朝、紅茶葉の缶を開封した瞬間、鈴が鳴った。まだ開店前の時間。


「——また、視察だ」


低い声。


夜色の上衣ではなかった。今日は、淡い灰の、普段の上衣。腰の剣は、軽い。騎士団長の任は、継続中のまま。


「本当に、視察でしょうか」


「視察だ」


「視察でしたら、隣町の、老舗から回られるべきですよ」


「……あの店の紅茶は、私の口に合わない」


「あらあら」


クラウスは、いつもの応接席に座った。鞘の先の布を畳み直す手順は、今日も、変わらない。私は、試作の紅茶を、いつものカップに注いだ。


彼の口元が、ほんのちいさく、ゆるんだ。



——私は、モブのつもりだった。


端役で、脇役で、ただそれだけのつもりだった。前世の記憶を抱えたまま、この世界の端っこで、紅茶と石鹸を作って、静かに生きていくつもり、だった。


それなのに、気づいてみると。


私は、開け放した店の窓越しに、春の光のなかに座る彼の横顔を、眺めていた。


「クラウス卿」


「——クラウス、と」


「……クラウス」


「は」


「やっぱり私、モブだったはずなのですが」


彼は、カップを置いた。


ちらり、とこちらを見て、先ほどよりも、ほんの少しだけ、はっきりと、笑った。


「あなたは、」


「はい」


「私の、世界の、主役です」


春の光のなかで、白い薔薇の蕾が、また、ひとつ、ほどけた。

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