希望《7》
「翠」
暗闇から突然現れた男が、彼の名を呼んだ。「邪龍」ではなく、彼を真の名で呼ぶ者はそう多くいない。
声の主は、一五〇〇年前天宮の戮で共に戦った異母兄。
「黒龍神か……」
黒い髪に黒い瞳、そして恐ろしい程の美貌に浮かべた微笑。
『あの日』と黒龍の姿はほとんど変わっていない。人間で言う二、三歳分だけ大人びたように見えるだけ。
さほど変わらない外見とは異なり、彼が身に纏う黒い神気は更にその巨悪さを増している。こうして目の前に立っているだけでも、冷え冷えとした寒気のような魔の力で圧倒されてしまいそうだ。
「……今宵のように、月が見事な夜は……一五〇〇年前のあの夜を思い出さぬか? 天の城で闘神共を血祭りに上げ、その名の通り“戮”を作り上げた。私が父上を殺し、お前が私の母上を殺し、兄上と剣を交えたあの夜を」
黒龍は闇の夜空を見上げ、淡々と話す。
「確か、お前はあの場にいなかったな……兄上は私を殺せたのに……殺さなかった」
「……」
「私がこうして今、此処にいるのは、ひとえに兄上の情けによる……全くお笑い種だ。私を殺せるのは此の世で兄上と光龍しかいないというのに」
黒龍は邪龍の瞳を見る。
「そしてどうやら……兄上は、お前にも情けを掛けたようだ。お前が今まだ此処にいるということは……お前を殺さず、地上に再び落とした」
其れは、異母弟の感情を逆撫でするような口振りだった。
「あんたは、そんな昔話をしに態々(わざわざ)来たのか?」
邪龍の言葉には苛立ちが含まれている。
黒龍の言うことは正しい。邪龍は聖龍に情けで助けられたことを一五〇〇年間屈辱に思っていたのだ。
そのことを見通しているかのように、黒龍は笑みを浮かべる。
「……まさか。しかし其れではっきりした。やはり兄上は情が深すぎる」
納得したように言う兄に、今度は邪龍が余裕そうな笑みを見せ続けた。
「天帝があんたを殺せないとなると、あんたを殺せるのはあの光龍だけになるな」
邪龍は麗蘭という少女を思い出す。強い、強い瞳。力は未知数だが、底知れぬ何かを秘めている。
「……私が封じられている間、生まれ変わる度光龍を見ていたのだろう? 其れで……今度の『麗蘭』は如何だった?」
邪龍にはその言葉の真意が解っていた。
勿体ぶるかのように大きく溜め息をついてから、兄の質問に答える。
「……さあな、光龍は毎回俺を楽しませてくれる。ただ……」
「ただ?」
「麗蘭は、あんたをどこまで憎むように為るかな?」
邪龍は黒龍の目を見る。
――やはり、俺は此の男の瞳が嫌いだ。黒神に為る前とはかなり様子が違うとはいえ……今のこいつも好きになれない。
黒龍は黙したまま、暫らく下を向いている。沈思しているようだ。
しかしやがて顔を上げると、自信に満ち足りた声で話し始める。
「……案ずるな。麗蘭は必ず私を憎悪する……私という存在を此の世から消さずにはいられなくなる。私が「悪」として役不足ならば、私は此れまで以上の「悪」を演じて見せる。彼女が守るべき“人間”たちを、羽虫を潰すかの如く殺していこう……其れでもまだ、彼女が殺意を抱く程に至らないのであれば……そうだな、彼女の大切なものを、一つずつ奪っていこう。なに……今の私には、容易いことだ」
黒龍はそこまで言うと、踵を返し闇の森へと歩き出す。
――期待しているよ、愛しい麗蘭。僕は君を信じている。
「未だ……始まったばかり」
そう、此処から、戦記は始まる。
荒国に蘭 完
第一章「金色の螺旋」へ続く
…というわけで、「荒国に蘭」完結です!
このお話は作者が中学校2年生の時に書いた小説をリメイクしたもので、
ストーリーやキャラクター設定などほとんど変えていません。
そのせいもあってか、ちょっと無理めな展開もあったりしますが、
約10年間あたため続けたお話をとても楽しんで書いたものです。
この後、聖安戦記第1章「金色の螺旋」に続いて行きます。
作者がかなり力を注いで書いている作品です。
「荒国に蘭」よりもかなり後に書き始めたもので、表現力等々も少しは上がっています(笑)。
ぜひ続けてお読みいただければと思います。
それでは、ここまでお読みくださいまして本当にありがとうございました!




