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向陽草は黄金の花を咲かせ、七年後、国を枯らした~箱の底の古文書は、続きを読まないと危険です~  作者: 朝山 みどり


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05 振り返らない旅立ち

05 振り返らない旅立ち


 家を離れるための手続きは、拍子抜けするほど早く進んだ。


 父は書類に目を通すと、私の顔も見ずに署名した。


「先方には、くれぐれも失礼のないようにな。それと、公爵家とはかかわるな。こちらの名を出して頼ることも許さん」


「承知しました」


 それで話は終わった。


 いつ出発するのか。向こうではどこに住むのか。どんな仕事をするのか。


 父から尋ねられることはなかった。


 机の上に置かれた書類を受け取り、一礼して部屋を出た。廊下を歩きながら、用意していた説明がいらなかったことが残念だった。


 荷物は自分でまとめた。


 着替えを数着と、身の回りの品。それから、本を何冊かと辞書。古代ディーザ語の辞書は、エリオットが故国から取り寄せてくれた二冊が加わっている。


 本が入った箱は昨日の夜から玄関に運んである。


 詰め終えたカバンには、まだ余裕があった。


 衣装棚には、夜会用のドレスが並んでいた。袖に一度しか腕を通していないものもある。けれど、どれを見ても、向こうへ持っていこうという気にはならなかった。


 最後に机の引き出しを開けた。


 迷ったが、読みかけの本から抜いた栞と、短くなった鉛筆を一本、荷物に加えた。


 カバンを閉じると、留め金が小さな音を立てた。


 玄関にはナタリーだけがいた。


 朝の光が扉から差し込み、磨かれた床を白く照らしていた。外では馬の鼻を鳴らす音がしている。


「お荷物は、こちらだけですか」


「ええ。自分で持てるわ」


 ナタリーは差し出しかけた手を、胸の前で重ねた。


 いつもなら身だしなみを確かめ、襟元や袖口を直してくれる。その朝は、私の顔を見たまま動かなかった。


「今までありがとう、ナタリー」


「お嬢様……」


 私は馬車へ向かう足を止めた。


 彼女の唇がわずかに開いた。


 何か言葉を探すように視線が揺れ、それから、きつく結ばれた。


「……道中、お気をつけて」


「ありがとう」


 私はそれだけ返した。


 問い返せば、何か聞けたのかもしれない。けれど、彼女がようやく口にした言葉を、そのまま受け取っておきたかった。


 玄関の段を下りる。


 朝の空気は冷たく、息を吸うと胸の奥まで澄んでいくようだった。


 馬車のそばには、エリオットが待っていた。


 御者は本の入った箱を積んでいる。


 彼は私のカバンに目を落とし、続いて玄関のほうを見た。


「ほかの荷物は?」


「これで全部です」


「……そうですか」


 何か言いかけたものの、彼はカバンを受け取り、先に馬車へ載せた。それから私に手を差し出した。


 その手を借りて乗り込むと、座席には膝掛けが用意されていた。


「朝は冷えますから」


「ありがとうございます」


 向かいに腰を下ろした彼は、扉が閉まる前にもう一度尋ねた。


「忘れものはありませんか」


「ありません」


「荷物が少なすぎる気がするのですが。無理をしていませんか?」


 私はカバンを膝に引き寄せた。


「持っていきたいものは、全部あります」


 彼の視線が、私の顔に戻った。


「本当に?」


「ええ」


 留め金に指を添えながら、私は自分でも意外なほど自然に笑った。


「すっきりしています」


 エリオットは少しだけ目を細めた。


「それなら、よかった」


 馬車がゆっくりと動き出した。


 車輪が石畳の継ぎ目を越え、膝の上のカバンが小さく揺れる。


 私は窓の外を見なかった。


 隣国の文官だと思っていたエリオットが、実は第三王子だと知ったのは、それから間もなくのことだった。


 役所の廊下で、年配の官吏が彼に深く頭を下げた。


「殿下。お戻りでしたか」


 私は足を止めた。


 エリオットも止まった。


 官吏は私たちを交互に見て、何かを察したらしく、書類を抱え直して足早に去っていった。


「……殿下?」


 エリオットが、困った顔をした。


「説明するつもりではいたのですが」


「いつですか」


「落ち着いてから、と」


「私は、もう宿舎の部屋も決まりましたし、明日から仕事も始まりますが」


「はい」


 彼は言い訳をやめ、姿勢を正した。


「黙っていて、申し訳ありませんでした」


 私はしばらく彼を見つめていた。


 馬車の中で本の話をした人。宿舎までカバンを運んでくれた人。近くの食堂で、煮込み料理が美味しいと教えてくれた人。


 その人が王子だと言われても、どう振る舞えばいいのかわからなかった。


 やがて、別の不安が浮かんだ。


「採用の話も……あなたのご意向だったのですか」


「推薦したのは私です」


「それでは、選考は」


「担当官が行いました。あなたが提出した調査書と、面談の記録をもとに」


「ですが、王子殿下からの推薦なら」


 そこまで言うと、彼はうなずいた。


「疑われても仕方がありません。必要なら、選考を担当した者に確認してください。私からも、説明するよう伝えます」


 私は手にしていた採用書類を見下ろした。


 署名も、公印もある。それでも急に、紙一枚が頼りなく思えた。


「私に務まらなかったら、どうなるのですか」


「試用期間で不採用になります」


 迷いのない答えだった。


 顔を上げると、彼はまっすぐに私を見ていた。


「仕事は本物です。あなたを推薦したのも、能力を評価したからです」


「……特別扱いは、してほしくありません」


「わかりました」


「仕事で間違えたら、きちんと指摘してもらいたいのです」


「その点は安心してください。ここの担当官は、私の書類も容赦なく差し戻します」


 思わず、彼の顔を見た。


 エリオットは苦笑していた。


「先週は、添付資料が一枚足りませんでした」


 私はようやく、詰めていた息を吐いた。


 その言葉どおり、彼は私の仕事に口を出さなかった。


 役所では別々の部署へ向かい、顔を合わせても短い挨拶を交わすだけだった。


 私の机には、古い灌漑記録が積まれた。


 水ににじんだ文字を読み、現在の地図と照らし合わせる。半日かけて読んだ記述が、探していた水路とは無関係だったこともある。


 初めて提出した報告書は、赤い書き込みとともに戻ってきた。


「この水路が現在も使えるという根拠が足りません」


 担当官は、私の記した一行を指で示した。


「古い記録では、三つの村へ水を引いています」


「当時は、です。今も水量が同じとは限らないでしょう」


「……おっしゃるとおりです。確認します」


 席へ戻り、報告書を広げ直した。


 落胆はした。けれど、直すべき箇所はわかっていた。


 翌日から水量の記録を集め、足りないものは現地へ問い合わせた。返事を待つ間に、別の資料を読む。


 そうして書き直した報告書に決裁の印が押されたとき、私はしばらくその頁を閉じられなかった。


 試用期間が終わり、正式な辞令を受け取った日の夕方、エリオットが尋ねた。


「今日は、何かよいことがありましたか」


「顔に出ていますか」


「ずいぶん」


 私は辞令の入った封筒を見せた。


「正式に採用されました」


「おめでとうございます」


 彼は封筒を受け取ろうとはせず、私の手元を見て微笑んだ。


「夕食をご一緒しませんか。お祝いをさせてください。案内したいところがあります」


「まあ、楽しみです」


 笑いながら歩き出すと、夕方の風が頬に触れた。


 仕事にも暮らしにも慣れた頃、私は失われた薬草の栽培法を調べるようになった。


 古い農事録には、今では名前さえ知られていない草の育て方が残っていた。薬として使われた記録と突き合わせ、同じ植物なのかを確かめていく。


 エリオットと会う日は、そんな話をすることが多かった。


「今日は、育て方がわかったのですか」


「まだです。日陰を好むと書かれた記録と、日当たりのよい斜面に植えると書かれた記録があって」


「どちらかが間違っている?」


「そう思っていました。でも、土地が違うのかもしれません。寒い地方なら、日当たりが必要でしょうから」


 気づけば身を乗り出して説明していた。


「……すみません。こんな話ばかり」


「続きを聞いても?」


 彼は冷めかけたお茶をひと口飲んだ。


「それで、土地の記録は見つかりましたか」


 私はもう一度、膝の上の覚え書きを開いた。


 結婚を申し込まれたのは、その調査に使う苗を植えた日のことだった。


 庭園の小道で足を止めた彼は、いつもより口数が少なかった。


「今日は、お疲れですか」


「いいえ。少し、緊張しています」


「何かあったのですか」


「これからです」


 私が首をかしげると、彼は一度息を整えた。


「私と結婚していただけませんか」


 手にしていた手袋を、取り落としそうになった。


 エリオットは私の返事を待った。急かすことも、言葉を重ねることもしなかった。


「私は……」


 ようやく声が出た。


「仕事を続けたいです」


「はい」


「今の調査も、途中ですし」


「知っています」


「王子妃になったら、今までのようにはいかないことも、あるのでしょう?」


 彼は、そこで初めて少し表情を引き締めた。


「あります。出席していただきたい行事もありますし、住まいも変わります。あなたの時間を、何も変えずに済ませるとは約束できません」


 私はうなずいた。


「でも、仕事を続けられるように、必要なことは一緒に考えたいと思っています」


 足元で、木漏れ日が揺れていた。


「すぐにお返事をしなくても、いいですか」


「もちろんです」


 庭園の出口まで並んで歩いた。


 帰ってからも、私はしばらく彼の言葉を考えていた。


 それから会いたいと手紙を書いた。


 承諾の返事をしたとき、彼は私をぎゅっと抱きしめた。


 今も、午前は役所へ通い、午後は調査の続きをしている。


 暮らしが変わってから、覚えることは増えた。行事の前には礼法を確かめ、仕事の予定を組み直す日もある。


 それでも机には読みかけの資料があり、栽培記録には私の字が並んでいる。


 夕食のあと、夫と同じ部屋で、それぞれ別の本を読む時間が好きだった。


 窓辺の椅子にはエリオットが座り、私は明かりに近い席で農事録を広げる。


 頁をめくる音が、ときおり重なる。


「何か、面白いことが書いてありましたか」


 顔を上げると、彼がこちらを見ていた。


「どうしてですか」


「笑っていたので」


 私は開いていた頁を指で押さえた。


「この著者、薬草を枯らしてしまった理由を、三頁もかけて書いているんです。水のせいか、土のせいかと調べて、最後には山羊に食べられたと」


 エリオットが声を立てて笑った。


「大切な記録ですね」


「ええ。柵が必要だとわかりました」


 笑いが収まると、また静かになった。


 私は続きを読み、余白に挟んだ紙へ覚え書きをした。あの家から持ってきた鉛筆は、もう指でつまむほどに短くなっている。


「そろそろ休みますか」


「あと少し。この頁まで」


「では、私も」


 向かいで、また一枚、頁がめくられた。


 私は椅子に座り直し、本へ目を戻した。


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― 新着の感想 ―
主人公の女性が幸せに向かいそうだったので、良かったと思いました。 続き楽しみです。
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