第5話 精霊王オベロン
「オフィーリア、またここに来ていたの?」
背後からかけられた声に振り向く前から、オフィーリアは誰が来たのかわかっていた。
まるで音楽のように優美な声。
かすかな気配とともに、春の花の香りがした。
「精霊王様」
オフィーリアが立ち上がり、深く礼をすると、精霊王オベロンは困ったように眉を下げた。
「オベロンと呼んで。あなたは私の愛しい子だからね」
「……オベロン様」
オフィーリアが小さな声で言うと、オベロンは満足そうに微笑んだ。
「そう。いい子だ。ねえ、オフィーリア。『精霊の水鏡』は人間の世界を見せてくれるけれど、ずっとここにいるのは感心しないな。あなたの心が傷つくかもしれないからね」
そう言われて、オフィーリアはうつむいた。
今も水鏡には、オフィーリアが見たいと願ったフロリアンの姿が映し出されていた。
ただそれは、フロリアンが十四歳くらいの頃のものだ。
水鏡は、現在だけでなく過去の映像も見せてくれる。
オフィーリアは、セイル川の岸辺で会っていた少年が、どんな暮らしを送っていたのか、今はよく知っている。
『フロリアン様、ご自覚が足りませんよ。もっとしっかりとお勉強をなさらなくては』
『フロリアン様のお立場は変わったのです。兄君である第一王子殿下のご逝去で、側妃様のお子とはいえ、第二王子であるフロリアン様は、未来の王太子となることが決まったのです』
『未来の王太子として、ふさわしい人物にならなければいけません』
あの日。
いつものように川を前に他愛ない話をしていたオフィーリアとフロリアン。
フロリアンがスミレをくれたあの日は、第一王子がこの世を去った日。
第二王子であるフロリアンの運命が大きく変わった日だったのだ。
フロリアンはたしかに、王宮に迎えられ、多くの召使いも与えられ、美しい衣服に包まれて王子らしい暮らしをすることができていた。
その一方で、朝から晩まで勉強に明け暮れ、自分のための時間は少しもなかった。
そして。
『まあ、ご覧になって。フロリアン殿下ですわ!』
『本当。噂どおり、なんてお美しい容姿をしていらっしゃるのでしょう』
『生まれながらの輝きですわ。王太子殿下にふさわしいお方』
フロリアンが王宮を歩いていると、行き合う貴族達は目を見開いてフロリアンを追った。
もともと並外れて整った顔だちに、まるで太陽のような明るい金髪。理知的な群青色の瞳をしたフロリアンは美しい少年だった。
未来の王太子として王宮に迎えられてからは、容姿にも磨きがかかり、今や貴族の婦人や令嬢達がため息をつくほどに人目を惹く少年へと成長していたのだった。
そして、人々に褒めそやされて、フロリアンが少しずつ変わっていってしまう様子を、オフィーリアは水鏡を通して悲しげに見守っていた。
(わたくしはあの頃、何も知らなかったのだわ)
オフィーリアはきゅっと両手を握り締めながら思った。
(フロリアン様が第二王子だったことも。なぜ会いに来てくれる回数が減ったのかも)
そしてついに、栗色の髪を巻いた、勝気そうな表情をした少女の姿が現れると、オフィーリアは両手で口もとをおおった。
『もうこうして会うのを止めよう』
それは、今までと違い、格段に華やかな服装をしたフロリアンが馬車に乗って川岸にやって来た時のことだった。
『もう耳に入っていると思うけれど』
フロリアンはそう言うと、困ったように首をかしげ、微笑みながら続けたのだ。
『私はわが国の第二王子で、兄上が亡き今、まもなく王太子になる身なのだ。それに——婚約の話も出ている。一人で気軽に外出するなんて、許されない身なんだ』
フロリアンが乗ってきた馬車の窓からは、栗色の髪を巻いた少女がけげんそうな顔をして、オフィーリアを見つめていた。
『も、もちろんでございます……殿下』
オフィーリアは言った。
『こ、これまでの数々のご無礼、どうぞお許しくださいませ』
そうしてオフィーリアは深々と礼をした——。
「オフィーリア。だめだよ。もうおしまい」
オベロンが珍しく強い調子で言うと、水鏡は一瞬にして揺らぎ、ただの泉へと姿を変える。
オベロンはオフィーリアの手を取って歩き始めた。
「あなたはまだ心身を休めているところなのだからね。こんなものを見続けているのは、よくない」
その言葉に、オフィーリアはためらいながら言葉を返した。
「オベロン様。でも……。ここは、精霊王の国なのでは。そしてわたくしはもう、死んでいるのでしょう?」
オフィーリアの手を引いて歩いていたオベロンが、ぴたりと足を止めた。
振り返ったその美しい顔は、どこか苦しげだった。
(精霊には、人間のような感情はない、とおっしゃっていたのに)
オフィーリアは思わず自分が言ってしまった言葉を悔いた。
しかし、オベロンは淡々とした口調でオフィーリアの疑問に答えてくれた。
「たしかに、あなたが生きているとは言ってあげられない。ここは精霊王の国。常若の国だ。ここに『時』はなく、人は苦しみを知らず、若い姿のままで楽しく生きている」
「では」
「いいや、オフィーリア。ここは人間の世界と天国の中間地点。あなたはたしかに死んだのだ。ただ、まだ天国には行っていない」
オフィーリアははっきりと自分はもう死んだのだと聞かされて、沈む心のまま視線を落とした。
そんなオフィーリアを、オベロンは優しく抱き寄せ、オフィーリアのピンク色の髪に口づけた。
「そんな顔をしないで、オフィーリア。私と一緒に、楽しくここで暮らすこともできるんだよ? 今日のドレスはとても素敵だ。よく似合うじゃないか。あなたには明るい色のドレスもよく似合う」
オベロンがさらりと右手を振ると、その手には淡い紫色のスミレを編んだ花冠が現れた。
「ほら」
そう言って、オベロンはスミレの花冠をオフィーリアの頭の上に載せた。
ふわり、と懐かしい香りがして、オフィーリアは目を瞬かせる。
ああ……懐かしいフローランド王国の春は、至るところにこの愛らしいお花が咲いているのだった。
「スミレだよ」
オベロンが言った。
「スミレの色は、あなたの瞳の色にそっくりだからね」
その言葉に、オフィーリアはもう涙が流れるのをこらえることはできなかった。
フロリアン、フロリアン……!
あなたが言ってくれた言葉と同じ。
スミレの色は、わたくしの瞳の色にそっくりだと、微笑みながら小さなスミレのお花をくれたのだわ。
もしわたくしが雨を降らせることができていたら。
誰もが、オフィーリアはたしかに精霊王の愛し子に違いない、そう言うくらいに雨を降らせ、川の水を増やすことができていたなら。
オフィーリアは力なく膝をついた。
——あなたはロクサーヌ王女ではなく、わたくしを選んでくださったのでしょうか——?




