第2話 死なせるつもりはなかったのだ
『お願いです。精霊王様、どうかこの国に雨を降らせてください』
川岸から聞こえてきたのは、愛らしい少女の声だった。
何度も何度も必死に祈りの言葉を繰り返している。
フロリアンがそっと岩の上から覗き込むと、まるで春に咲く桃の花のような、ピンク色の髪が見えた。
(珍しい色の髪だな。初めて見た)
飾りのない、簡素な白いワンピースを着て、すっかり細くなった川の流れに向かって必死に祈っているのは、自分と同じ年頃に見える少女だった。
「きみ……?」
フロリアンが思わず声をかけると、ピンク色の頭が振り返った。
大きなスミレ色の瞳。
色白で、小さな鼻と口もと。
愛らしい顔だちの少女だった。
ちょっと驚いたような表情で自分を見上げる様子に、フロリアンは表情をゆるめた。
「きみ、何をしているの? そこに行ってもいい?」
少女がうなずくのを待って、フロリアンは護岸の岩から飛び降り、川岸に降りる。
「驚かせてごめんね。僕はフロリアン。……ええと、近くに住んでいるんだ」
少女は頬を赤くして、小さな声で言った。
「わたしは、オフィーリア」
そう言って笑ったオフィーリアは、まるで野に咲く小さな花のように、愛らしかった。
それは春。
フローランド王国中にスミレの紫色の花が咲く、美しい季節のことだった。
***
『わたくしはもういいのです』
地鳴りとともに川には水が湧き上がった。
すさまじい水音の中、どうしてオフィーリアの声が聞こえたのだろう。
別れのような言葉を最後に、オフィーリアは水に呑まれた。
怖かっただろうに。
泣きも、叫びもせず。
ただあきらめきったような、表情のない顔をして。
静かに水に沈んでいくピンク色の頭が脳裏から離れない。
フロリアンはぶるっと体を震わせると、窓辺から離れた。
フローランド王国の生命線は、国土を南北に流れるセイル川にあった。
水量は豊かで、川の両側には肥沃な土地が広がる。
古来より精霊王に守られた土地。
フローランドの民はそう信じ、神殿を建て、神官達は精霊王に加護を願い、祈り続けてきた。
(オフィーリアは見つからなかった)
フロリアンは夜中にただ一人、王太子の執務室にいた。
王宮の客室には、コリーナ王国の王女、ロクサーヌが滞在している。
まだ正式に婚約はしていないが、フロリアンが正式に王太子となってからは、公式、私的な訪問を含め、何度もフローランド王国を訪れており、王宮の召使い達も将来の王太子妃候補として王女を遇していた。
(これで、よかったのだろうか……?)
フロリアンは目を閉じ、冷たいガラス窓に額を押しつけた。
(精霊の愛し子でさえ雨を降らせることができない今、わが国最後の希望は、隣国コリーナ王国からの援助だ)
突然増水し、オフィーリアをその流れに巻き込んだセイル川は、今は闇に沈み見ることはできない。
あのあと我に返ったフロリアンは急いで騎士に命じて川を捜索させたが、作業は難航した。
『川に飛び込め! まだ間に合う、オフィーリアを探すんだ!』
『お言葉ですが、殿下。セイル川は精霊王の国に続くと言われております! 聖なる川ゆえ、決して立ち入ってはならぬと。川で泳いでもいけないと言い伝えられて——』
『そんなことを言っている場合か! それなら、私が——』
『殿下、いけません!! 精霊王の怒りを買います! どうぞ落ち着いてください』
『そうよ、フロリアン様。オフィーリアのことはもうあきらめて。あの方の運命だったのよ』
(運命、だと?)
さわやかにすら響く声で、ロクサーヌが放った言葉に、フロリアンは全身が凍りついた。
オフィーリアにこの国から去れ、と命じておきながら、何を知ったふうなことを言うのだ。
王女であるロクサーヌに命じられて、平民であるオフィーリアが抗うことができたとでも?
フロリアンは思わず怒りを覚えてロクサーヌを振り返ったが、ロクサーヌはまるで氷のように冷たい目で、動じることなくフロリアンを見つめ返した。
『……!』
その冷たい目は、フロリアンに言っていた。
『オフィーリアを助けなかったあなたも、同罪でしょう』と。
フロリアンは何も言い返すことができずに、ただ一人、川面を見つめた。
もしかしたら、オフィーリアは何かにつかまることができて、生き延びたのでは。
精霊王の愛し子とまで認定されたのだ。
精霊王がオフィーリアを助けてくれるのでは?
淡い期待を持って川の流れを見たが、何度見ても、オフィーリアの姿は、まるでかき消すように消えてしまっていた。
死。
認めたくはないが、オフィーリアは死んだのだ、と結論づけるしかない。
フロリアンはのろのろと川を後にした。
護衛の騎士達が無言でその後に従う。
(しかしなぜ、ほとんど枯れようとしていた川で、増水が始まったのだろう)
(雨も降っていないのに、まるで突然、水が湧いたかのようだった)
迎えの馬車が到着すると、ロクサーヌは護衛騎士に助けられてさっさと馬車に乗り込んだ。
『私は馬で帰る』
フロリアンが言うと、ロクサーヌは片眉をすっと上げ、無言で馬車の窓を閉めたのだった。
***
長い夜が明けた。
オフィーリアが消えた次の日、フロリアンは早朝に馬を出し、セイル川の様子を見に行った。
「なんてことだ……!」
フロリアンは思わず叫んだ。
不思議なことに水はすべて引き、セイル川は完全に枯れ果てていたのだ。
フロリアンは衝撃のあまり、ふらふらと川岸に座り込んでしまった。
「それも当然と言えましょう」
すると、フロリアンの背後で、冷静に告げる声があった。
フロリアンが振り返ると、全身を白の長衣に身を包んだ、初老の男性が立っていた。
「大神官アンドレイ」
フロリアンがつぶやくと、アンドレイはうやうやしく腰を折った。
しかし、大神官は感情のない声で告げる。
「セイル川はついに枯れたのかもしれません。自然の恵みは、精霊王の祝福。わが国は精霊王の愛し子を失ったのですから。精霊王の加護も失われたかと」
「オフィーリアがたしかに精霊王の愛し子だったと?」
「私はそう申し上げました。お忘れですか、殿下。それゆえにオフィーリア様を神殿にお迎えしたのです」
「しかし、オフィーリアに精霊王の愛し子らしい力など」
「たしかに、全土に雨を降らせる力はお持ちではありませんでしたな」
アンドレイの声には明らかな皮肉があった。
「神官達も精霊王の愛し子か疑い、粗雑な扱いをした者もおりました。由々しきことです。たしかにそれは彼らをまとめ上げる力の及ばなかった私の責任です。しかし」
アンドレイはまるで子どもに言い聞かせるように言葉を続けた。
「……殿下はお忘れになっておしまいか。幼い頃からオフィーリア様を一番よく知っているのは、あなた様だと思っておりましたのに」
フロリアンはうつむいた。
輝くような美貌の王太子も、今はまるで見捨てられた子どものようにしか見えなかった。
「……なぜオフィーリアは川にいたのだ」
「オフィーリア様は子どもの頃から、毎日、川に向かわれました。セイル川は古来よりわが国の生命線。精霊王の国に続くとも言われています。だからこそ、川に来て精霊王の加護を願っておられたのですよ。わが国に、恵みの雨を降らせてほしいと」
アンドレイはそこで言葉を切った。
あなたなら知っているはずだろう、とは言わなかった。
ただ、感情を乗せることなく、淡々と答えた。
アンドレイは深呼吸をして言葉を継いだが、声が震えるのを抑えることはできなかった。
「雨は降りませんでしたが、あの枯れかけていた川の流れが、たしかに少しずつ太くなっていたところでしたのに——殿下はお気づきにならなかったか?」
最後に、アンドレイの自制が切れた。
「オフィーリアは、希望でした」
そう静かに告げるアンドレイにフロリアンは言葉を失った。
大神官は無言で、暗い視線を未来の国王に投げかけた。
『あなたが王になる時、果たしてこの国は存在しているでしょうか?』
まるでそう言われたかのように、フロリアンは感じた。
冷たい汗が、背中を伝う。
大神官アンドレイはそのまま何も言わず、セイル川の岸辺を後にしたのだった。
「オフィーリア、きみを助けることができなかったなんて」
フロリアンは地面に崩れ落ちた。
「きみを、死なせるつもりはなかったのだ……」
フロリアンの前には、死んだように静まり返る、岩だらけの川床をさらしたセイル川が横たわっていた。




