第18話 スミレの花の祝福と奇跡の雨(2)
それは、山頂近くに突然現れた小さな湖だった。
巨大な岩に囲まれ、まるで天然のプールのように豊かに水をたたえ、頭上の太陽の光を受け、キラキラと光を放っている。
風が吹くと、湖水にさざなみが立ち、無数の銀色の光がきらめきながら移動して消える。
現実離れした光景に、一同は思わず言葉を失っていた。
見上げる山頂部分には、まだ真っ白な雪がしっかりと残っている。
湖はまるで宝石のような、深い青緑色をしているのに、イアンが浅瀬に手を差し込むと、水は透き通り、いっさいの曇りがない。
清浄で、物音ひとつない静寂の世界。
湖水は氷のように冷たかった。
「精霊王の国って、こんな感じなんでしょうか……」
ロキが、思わずといった感じでもらした言葉。
「本当だね」
他の者達もうなずいている。
「この世のものではないみたいだ」
誰もが呆然としながら、湖の周囲に座り込んだ。
「ここが、セイル川の水源なのか?」
イアンがイスマイルに問うと、学者は深くうなずいた。
「はい、陛下。この湖のどこかから、細い流れで川が始まっているはずです」
イアンは山登りの疲れも忘れて、湖の周囲を回った。
山頂付近は広くはない。
湖の周りも岩を伝ってかろうじて歩けるほどの幅しかなかった。
足を滑らせば、崖から落ちる。
イスマイルとアンドレイのほか、二人の騎士がイアンに付き添った。
「水は——」
イアンが言った。
「水は、十分あるように見える」
イアンの言葉に、イスマイルはうなづいた。
「ええ。本来、セイル川の水が枯れる心配はないのでしょう」
「ではなぜ」
イアンは答えが欲しい、と思った。
そのために、かつて精霊王の愛し子だったオフィーリアは苦しみ、今また、フィオリーナも苦しんでいる。
その時だった。
ロキが、口を開いた。
「精霊王の警告では」
全員の視線が、ロキに注ぐ。
思わぬ注目を受け、ちょっと顔を赤らめたが、彼は言葉を続けた。
「精霊王は、僕達国民が、お互いに尊敬しあい、仲良く暮らすことを望んでいるのでは——そんな気がしたのです。問題が起こった時に、誰か一人に原因を押し付けるのではなく」
ロキは岩の上に座り、膝を抱え、まるで子どものように目をキラキラさせながら、湖を眺めていた。
「僕、実は田舎出身で。祖父母に育てられたんですよ。ばあちゃんが——祖母が、典型的な田舎のばあちゃんで——特に厳しくて。正直であれ、人には親切にしろ、感謝の気持ちを忘れるな、それにお祈りを忘れるな、って。もう毎日叱られました!」
「祈りを?」
イアンは少年の話になぜか惹かれるものを感じて、そばに寄った。
「ええ、そうなんです。ばあちゃんが言うには、祈ることは、この国を守る精霊王様に話しかけることなんだそうです。それに、いつも祈っていれば、悪い人間にはなりようがないとも言ってたっけ」
ロキはくすくすと笑った。
「本当に、田舎のばあちゃんだなぁ、って思ったんですよ。その当時は。でも、大学に入るために王都に来てみて、気づいたんです。王都では、お祈りする人って、少ないなって。皆、お祈りは神官がするものと思っているみたい。何か精霊王様にお願いがある時は神殿に行って、お布施をして神官に祈ってもらうでしょう? なんで自分で祈らないんだろう、って思いました」
若いロキはそう言ってから、大神官であるアンドレイに失礼だったと思ったらしく、「ごめんなさい」とアンドレイに頭を下げた。
「祈っている時ってね、人は嘘は言わないものです。悪いことも考えないものです。お祈りは、僕達をいい人にしてくれるんです——それで、思ったんですよ」
ロキの声は真剣だった。
湖のほとりに座った全員が、いつのまにかじっと少年の話に耳を傾けている。
「精霊王様は、僕達みんなに、祈ってほしかったのでは。人に祈らせて、自分は何もしない。僕達が利己的で、己の欲のみで動くばかりだ、とお怒りだったのでは、そんな気持ちがします」
ロキは顔を上げた。
同行の人々を順に見つめる。
「ばあちゃんなら、皆で感謝をしながら、仲良く暮らしなさい、って言うと思う。——精霊王の祝福は、みんなに注がれている——この湖を見て、僕もそう思いました」
誰もが沈黙して、ロキの言葉を考えているのが感じられた。
少年の言葉はまっすぐで、今まで気づかなかった視点を教えてくれるものだったからだ。
「陛下」
ややあって学者の長であるイスマイルが口を開いた。
「この旅で、私もいくつか実行できそうな案が浮かんだのです」
イスマイルは探していた答えが見つかった、というように、すがすがしい表情をしてイアンを見つめた。
「自然には変化がつきものです。これを機会に、全国で貯水池、井戸、水路の利用状況を確認する現況調査を行いましょう。自然の恵みを無駄にすることなく、予期せぬ事態にも備えましょう。王都に戻ったら、計画書をさっそく作成します」
イスマイルは言った。
「我々はたしかに、思うように雨を降らせることはできません。でも、人間だって、皆で協力して、より安定した生活を築いていけることを、精霊王様に見ていただこうではありませんか」
イスマイルの言葉を聞いて、イアンはばっと立ち上がった。
「陛下?」
「すまない。少し一人の時間が欲しい」
イアンはそう言うと、一行から離れた。
湖の周囲を改めて歩き回り、ここという場所を探した。
イアンは湖を前に腰を下ろす。
澄んで、まるで鏡のように景色を映している水面を見つめてから、目を閉じた。
そうして、心から精霊王オベロンに語りかけた。
(精霊王オベロン)
(精霊王オベロン、あなたの恵みに心から感謝します。湖に来てわかりました。私達は、守られていると。私達に必要なものは、すでに用意されているのだと)
イアンはすっと深呼吸をした。
(困難な時こそ、国民皆で協力し合うことが大切だとわかりました。私は王都に帰って、今回の旅でわかったことを、国民に伝えるつもりです。皆で力を合わせて、これからも、精霊の祝福を受けた大切なフローランド王国を守っていきます)
イアンは顔を仰向けた。
頭上に広がっているのは、ただどこまでも続く青い空のみ。
何もさえぎるものはない。
(精霊王オベロン、フィオリーナを……オフィーリアの幸せを守ってください)
イアンの想いはきっと、精霊王に、そして精霊王のもとで暮らしているフィオリーナにも届くだろう。
イアンは目を開けた。
群青色の瞳から、涙が一筋流れた。
イアンはそっと左胸のポケットに収めた枯れたスミレの花を取り出した。
静かに湖水に浮かべる。
「フィオリーナ、スミレの花をありがとう。ずっと私の心を温めてくれた。もう枯れてしまったが、それでも大切なものだ。私の心があなたに届くように、この花を贈るよ」
イアンのもとにある二輪のスミレの花は、何年経っても枯れない、不思議な花だった。
精霊王の力が働いていると感じていたが、フィオリーナから受け取ったこのスミレの花も、無意識のうちに枯れることはないと思っていたのだろう。
しかし、スミレは枯れた。
精霊王の祝福は当たり前ではないのだ、ということにイアンは改めて気づかされたのだ。
「フィオリーナ。いつもあなたの幸せを祈っている。いつも、あなたのことを愛しているよ。たとえ遠く離れていても。これからも、あなたのために祈ろう。あなたが困難な時は、私があなたを支える。あなたをもうひとりにはしない」
その時だった。
イアンははっとした。
青緑色の湖面が揺れている。
そこには、まるで水鏡のように、もう一度会いたいと願い続けたフィオリーナの姿が映っていた。




