第17話 スミレの花の祝福と奇跡の雨(1)
「陛下、大丈夫ですか? 少し休憩を——」
「いや、大丈夫だ。もう少し進もう」
フローランド王国の若き国王イアンは、そう答えて、額の汗をぬぐった。
足を止めたついでに、登山道をひたすら登り続け、硬くなってきた足の筋肉をさする。
「陛下、さすがに足腰にきましたかな?」
笑いをこらえながら言ったのは、精霊神殿の大神官アンドレイだった。
けして若くないアンドレイに同行を申し出られた時、イアンはすぐに許可はしなかった。
しかし、アンドレイのたっての願いに、同行を許したのである。
イアンはにやりと笑った。
「何を。あなたの方こそ、そのお年にしてはなかなかの健脚でおられる」
イアンの反撃に、アンドレイは高らかに笑った。
「陛下、下をご覧なさい。登っている最中は目に入りませんが、振り返れば何という絶景でしょう」
言われて眼下を眺めれば、そこには山登りの疲れを一気に吹き飛ばすかのような、壮大な景観が広がっていた。
いつのまにか、森の木々ははるか彼方。
ふだん見ることのない、高くそびえる木々の樹冠部分を見下ろすことができるのは、不思議な気分だ。
山頂へと伸びる細い登山道は、ほこりっぽく、岩だらけの小道だ。
休みなく、ひたすら登り続ける道には骨が折れるが、森林を眼下に見下ろし、その向こうに広がる緑の平地、頭上に広がる、さえぎるもののいっさいない澄み渡る青空は、たしかに王都で暮らしていれば見ることのない絶景と言えた。
「いや。そうだな。皆も疲れただろう。ここで少し足を休めて、絶景を堪能しようではないか」
イアンがそう言うと、一行から喜びの声が上がった。
フローランド最高峰のこの山には、セイル川の源流がある。
イアンに同行している学者達によれば、山頂付近に積もる雪が溶けて、その水が泉として湧き出ているのだという。
泉は小さな湖を作っており、そこから山を伝って水は流れ、最終的には王都にも通じるセイル川となっている。
「陛下、ここまで登れば、水源の湖はもうすぐです」
一行のリーダーは、学者の長であるイスマイルである。
イスマイルはイアンを励ますように言った。
***
フィオリーナが川に流された時、イアンは学者達とともにセイル川の水源調査に出発したばかりだった。
しかし、ふと胸騒ぎを感じたイアンは、胸ポケットに入れたスミレの花を取り出した。
フィオリーナがお守り代わりに渡してくれたスミレの花である。
『!!』
イアンは信じられない想いで、スミレの花を見つめた。
あれほどみずみずしく、甘い香りを放っていたスミレの花は、心なしか勢いがなく、淡い紫の花弁の端が、茶色く乾燥し始めていた。
(まだたった一時間ほどではないか)
イアンは信じられない想いで、馬を止めた。
もはや嫌な予感しかなかったイアンは、いったん王宮に戻ることを決断したのだが——。
(結局、フィオリーナを取り戻すことはできなかった)
イアンは暗い表情で頭を振る。
何度思い返したことだろう。
精霊王オベロンの腕に抱かれたフィオリーナの姿を。
フィオリーナと話すことは叶わず、オベロンに完全に拒否されて、イアンは精霊王国から叩き返されたのだった。
イアンのすぐ後ろで、「やれやれ」というため息が聞こえた。
振り返ると、先ほどまでは威勢がよかった大神官アンドレイである。
本音では辛かったのだろう。
手頃な大きさの岩に腰かけ、全身ぐったりとして体を休めるところだった。
『陛下、お願いでございます……! どうぞ私もお連れください』
アンドレイはそう言い張って、聞かなかった。
頭を下げ続け、何度イアンが促しても、上げようとしない。
アンドレイにとって、フィオリーナは養女でもある。
フィオリーナのことは、話さないでいるわけにはいかない。
そう思ったイアンは精霊王オベロンとのやりとりを話した。
そして、オベロンに告げられた衝撃の事実も。
フィオリーナがオフィーリアの、自分がフロリアン王の生まれ変わりだと言われたことも。
無言で打ちひしがれていたアンドレイだったが、イアンがセイル川の水源調査に再度出発すると聞いて、同行を名乗り出た。
『陛下、お願いでございます……! どうぞ私もお連れください』
『セイル川は、フィオリーナが心から愛し、気にかけ、毎日休むことなく祈り続けた川でございます。どうか、フィオリーナのためにも、セイル川の水源をこの目で確かめたく』
『陛下————!』
イアンはアンドレイの想いを汲んで、同行を許した。
(フィオリーナ)
イアンは精霊王のもとで、きっと幸せに暮らしているだろうフィオリーナに呼びかけた。
(あなたを苦しめたことを、心から謝りたい。そしてそれでも思うのだ。あなたに、そばにいてほしいと)
イアンは思わず目に涙が浮かびそうになったのをこらえる。
そっと、左胸を押さえた。
上着の胸ポケットには、フィオリーナがくれたスミレの花が入れられている。
すっかり枯れて茶色くなってしまったスミレの花。
しかし、フィオリーナからもらったものだ。
イアンはこの花を捨てることなど思いもつかなかった。
「さあ、皆さん、出発しましょう。湖まではもうすぐのはずです」
イスマイルの一声で、再び一行は歩き始めた。
***
「これは——」
イアンは、口を開いて、しかし言葉が見つからない。
他の者達も同様だ。
イスマイルと学者達、大神官アンドレイ、それにイアンの護衛として同行している騎士達も、ただただ言葉なく目の前の光景を見つめていた。
一行の前に最後に待っていたのは、急な上り坂と、その先をさえぎるかのようにそびえ立つ、巨大な岩だった。
「大丈夫です、この岩を回り込んで、先に行けますよ!」
明るい声で叫んだのは、最年少で、学者の助手を務めるロキという名の少年だった。
そう言われて、イアンは最後の力を振り絞った。
そして————。




