第16話 宿命の輪
『フロリアン』
イアンは、自分に呼びかける声で、目を覚ました。
『フロリアン』
おかしい。
執拗に繰り返されるその名前は、自分の名ではない。
『フロリアン』
自分の体が浮かんでいる感覚。
そのことに気づいたイアンはようやく、しっかりと目を開いた。
あわてて体を起こそうとすると、イアンは沈むことなく、水の中で静かに直立することができた。
『フロリアン……!』
——フロリアン?
苛立ちすら混じる声に、イアンが周囲を見回すと、自分は川の中にいることがわかった。
目の前の岸辺には、ピンク色の髪をした少女を抱き上げ、険しい表情でイアンを見つめる男性がいた。
白い長衣を身につけ、さらさらした白金の髪が流れるように肩から背中へと落ちていく。
人間離れした美貌は、氷のように冷たい。
神々しいまでの光が、男性の全身を包んでいた。
「フィオリーナ!」
イアンは水をかき分け、目を閉じて男性の胸にもたれているフィオリーナのもとに行こうとした。
しかし。
『動くな!』
まるでぴん、と張った金属の糸のような、硬質な声が響いた。
『おまえにわが領土に入る許可は出さぬ』
明らかに敵対的なその様子に、イアンは感じざるを得ない。
自分はまったく、歓迎されていないのだと。
「あなたは——」
イアンが口ごもると、男性は冷ややかな声で言った。
『そうだ。我が名はオベロン。精霊の国を統べる王である』
オベロンは、イアンを射殺さんばかりの強い視線で睨みつけ、フィオリーナをいっそう固く、抱きしめたのだった——。
***
「はっきり言って、オフィーリアにとって、おまえは役不足だよ。清らかな魂のオフィーリアは、精霊王の妃にもふさわしい存在なのだ。だからこそ私はオフィーリアを愛し子としてずっと保護してきた。なのに」
オベロンの顔が変わる。
「そんな至高の存在であるオフィーリアを、おまえは死なせたんだ」
「オフィーリア? ……フィオリーナのこと、か?」
「もちろん、ただの人間のおまえには、オフィーリアの記憶はないだろう。幸いなことだ。もしおまえがオフィーリアのことを覚えていたなら、とても恥ずかしくて、生まれ変わったオフィーリアを妃になどできるはずがないのだから」
(オフィーリアの……生まれ、変わり……?)
一瞬でイアンは青ざめた。
(まさか——!?)
イアンの様子の変化を見て、オベロンは満足そうに笑った。
オベロンの意図は明らかだった。
威嚇。
もうフィオリーナは返さないという宣言。
イアンの顔色はどんどん悪くなっていく。
「愛し子は返さない。おまえは私の愛する子を何度も殺し続けるだろう。この国を助けてやろうと思った精霊の好意を、そなたは棒に振ったのだ。ただ、愛し子を大切に扱えばよかっただけなのに。そうすれば愛し子は精霊の祝福を届けたのだ」
イアンは衝撃のあまり、ただ精霊王を見つめることしかできなかった。
「愚かな王よ。精霊の祝福なしに国を栄えさせる方法を考えるがいい」
「待ってくれ……!」
フィオリーナを抱いたまま、川を離れようとしたオベロンに、イアンは声を上げた。
「待ってください。ひとつだけ、教えてほしい。もしや……フィオリーナは、川で死んだ精霊王の愛し子、オフィーリアの生まれ変わりなのですか?」
オベロンは冷たい視線を返した。
「そしておまえは、愚かにもオフィーリアを死なせた、フロリアン王の生まれ変わりだ」
それがイアンに向けられた最後の言葉だった。
川の水が一気に増水し、イアンは再び、水の中に沈んだ。
初めて会った精霊王オベロンの悲しみと怒り。
目を閉じたままのフィオリーナ。
(フィオリーナ。あなたを守ると約束したのに)
イアンは水の流れに巻き込まれ、あっという間にオベロンの姿も、フィオリーナの姿も見失ってしまった。
***
『陛下!!』
『イアン様!!』
『お気を確かに……すぐ王宮へお運びいたします』
『医師を、医師をすぐ手配しろ——!!』
セイル川の川岸。
再び水が引き、意識を失ったイアンが川床で発見された。
イアンが意識を取り戻した時、彼はすでに王宮に運び込まれていた。
医師がベッドを取り囲み、心配のあまり青ざめた顔をした側近のメシアスが震える手で、イアンの手を握った。
「私の服は?」
イアンが発した最初の言葉に、全員が困惑してイアンを見つめる。
「メシアス。私が着ていた服はどこだ? 胸ポケットにフィオリーナがくれたスミレの花を入れてあるのだ」
「は、はい! 探してまいります!」
ようやく理解したメシアスがイアンの寝室を飛び出して行く。
「陛下、ご気分は——?」
医師の言葉に、イアンはそっと首を振る。
「フィオリーナは?」
その言葉に、全員が沈黙した。
フィオリーナは見つからなかった。
そんな答えを、沈黙の中にイアンは読み取った。
その時、寝室のドアが開いて、メシアスが戻ってきた。
「陛下、こちらでございます」
イアンは体を起こした。
まだ半乾きの服のポケットに震える指先を入れる。
そこには、枯れて、茶色くなったスミレの花がくったりとポケットの裏地に張り付いていた。




