第15話 わたくしこそが、精霊王の愛し子なのです(2)
(今日もセイル川は静かだわ)
フィオリーナは思った。
いつものように川岸にひざまづいて、細々とした流れを前に、目を閉じる。
精霊の加護を受けたフローランド王国では、雨がなかなか降らずに国民が苦しんでいる。
(こうして祈っても、精霊王はすぐに雨を降らせてはくださらない。イアン様のお話を聞いて、ここに精霊王のご意志があるような気持ちがしてきたわ)
フィオリーナは祈りながら、この川の向こうにいるはずの、精霊王の姿を思い描いた。
(わたくし達が、そのご意志を理解することがきっと大切なのだわ。精霊王様、どうぞわたくし達をお導きください。イアン様も頑張っています。どうぞイアン様の旅路をお守りください)
そう祈っていた、その時だった。
「フィオリーナ」
背後に、思いがけない声が響いた。
「!?」
フィオリーナは目を開けて、振り返る。
「お姉様?」
フィオリーナの前には、自分と同じく大神官の養女であるロキシーが立っていた。
見慣れた、完璧に巻いた栗色の髪。
緑色の瞳はまるで燃えるよう。まっすぐ、射抜くかのような強い視線がフィオリーナに向けられている。
赤く染めた爪の先まで完璧に整えられたロキシーは、自然の中では不釣り合いな、真っ赤なシルクのドレスに身を包んでいた。
「茶番は終わり」
ロキシーはそう言い放って、一歩足を前に進めた。
「わたくしこそが本物の精霊王の愛し子よ。おまえは身を引きなさい。お気の毒に、お父様はおまえ可愛さに目が曇っておられるの」
「お姉様」
フィオリーナは一歩後ろに下がる。
「「「フィオリーナ様!?」」」
フィオリーナから少し離れたところで見守っていたロザリーとエリカ、エレノアが悲鳴を上げて、二人に向かって駆けてくる。
同じく祈りの間は距離を取って控えていた護衛騎士の二人も異変に気がついた。
「わたくしこそが、精霊王の愛し子。わたくしが、イアン陛下の妃になるの。……当然でしょう、オフィーリア?」
「お姉様!?」
「汚らわしい!! わたくしが平民の孤児の姉であるはずがないでしょう!? わたくしを二度とお姉様などと呼ばないで!」
ロキシーは川岸で立ち上がったフィオリーナを思いきり突き飛ばした。
「きゃあっ!!」
「おまえのせいで! フロリアン様は、わたくしのことを見てくださらなかったのよ! いいこと? あの方の妃は、このわたくしなの!!」
「お姉様、いったい、何を言って——!?」
ロキシーはさらに一歩進むと、川床に倒れ込んだフィオリーナを勢いよく蹴り飛ばした。
「——二度と、この国に戻って来ないで……!!」
「フィオリーナ様に何をする!!」
フィオリーナは転がるようにして、背後の川へ落ちた。
川床を埋め尽くす大小さまざまな形の岩が、フィオリーナの背中を痛めつける。
「フィオリーナ様!!」
騎士の一人がロキシーを確保し、もう一人はフィオリーナを助けに向かった。
流れが細いセイル川の深さは、大人の膝くらいまでしかない。
フィオリーナが倒れたところには、水の流れはない。
フィオリーナに危険は、ないはずだった。
————どん!!
「え?」
その時だった。
何かの気配が、変わった。
何かが破裂するような、地鳴りのような音が周囲に響いた。
それはまるで大地の怒りとでも言うような。
ずん……。
さらに低い音が響く。
「!!」
じわり、とフィオリーナの体の下から、水が湧き出始めた。
冷たい水はたちまち細い流れに広がり、あっという間にフィオリーナの全身を包み込んだ。
「フィオリーナ様!!」
護衛騎士の伸ばした手は、フィオリーナに届かない。
さらにどん! という鈍い音がして、川床を一気に満たした水は、勢いよく下流に向かって流れ始めた。
護衛騎士の体は、まるで水に跳ね返されたかのようにして、川岸に打ちつけられた。
「フィオリーナ様!」
「フィオリーナ様ぁ——っ!!」
三人の少女達が転がるように川岸まで走ってくる。
フィオリーナは、はっとした。
「だ、だめよ!! あなた達、危ないわ! 逃げて……!!」
「フィオリーナ様——っ!!」
護衛騎士はあわてて川岸まで降りてきた少女達を抱き抱える。
フィオリーナの体がふわりと水に浮かんだ。
(この感覚、覚えがある……)
まるで何かに引っ張られるようにして、フィオリーナは水に流され始めた。
その時だった。
「フィオリーナ!!」
大きな水音がして、一人の男性が川に飛び込んだ。
必死に水をかきながら、フィオリーナに近づこうとしている。
金色の頭が浮かんで、沈んだ。
「イ、イアン様!?」
どうして? 調査に出発されたのでは——?
フィオリーナは言葉を失った。
「フィオリーナ、今助ける!」
イアンは川の流れに押し出されながら、必死にフィオリーナに手を伸ばした。
フィオリーナの瞳に、涙があふれる。
「イアン様、だめです——あなたまで、危険が——」
「フィオリーナ、いいから私の手をつかむんだ!」
「イアン様」
フィオリーナは泣きながら、それでもふるふると首を振った。
「フィオリーナ!! 頼む! 手を——手を伸ばしてくれ、私のために……!」
フィオリーナとイアンは流され続ける。
もう時間がない。
イアンはフィオリーナを見つめる視線に、全霊を込めた。
フィオリーナは涙に濡れたスミレ色の瞳を、ようやくイアンに向けた。
震えながらフィオリーナが伸ばした手を、イアンはしっかりと握りしめた。
「フィオリーナ」
しかし、その時、大きな波が二人に襲いかかった。
一瞬にして、二人の姿は水面からかき消える。
「フィオリーナ様!」
「陛下!!」
遠くから、絶望的な叫び声が響いた。
フィオリーナとイアンは水流に巻かれ、水中に引き込まれた。
音のない世界。
恐ろしいほどの静けさが支配する水の中で、フィオリーナはイアンの顔を見つめた。
イアンの群青色の瞳が、フィオリーナを見つめ返す。
こぽ……
小さな気泡が、フィオリーナの口もとからこぼれる。
フィオリーナが苦しげにあえいだ。
声にならないイアンの叫び。
そして、フィオリーナの意識は、途絶えた。




