第10話 精霊王の愛し子(3)
「フィオリーナ、遅かったね。大丈夫だったかい?」
フィオリーナが川での祈りを終えて家に帰ると、すでに帰宅していた養父が、心配げにやって来た。
「大神官様」
思わず条件反射でフィオリーナが深く頭を下げると、アンドレイの眉が下がった。
「家では、私はおまえのお父様だよ。お父様、と呼んでくれないだろうか?」
「は、はい。申し訳ありません……つい、習慣で。……お父様。遅くなり申し訳ありません」
「時間は構わないけれど、女性の一人歩きは心配だろう。誰か一人、侍女でも付けた方が」
「いいえ。町を歩いてセイル川に行くだけですので、一人で大丈夫です」
フィオリーナがあわててそう言った時だった。
「フィオリーナ、何をぼさっとしているの。早く来て、わたくしの部屋を掃除なさい」
フィオリーナの背後から、いらいらとした口調で声をかけてきたのは、栗色の髪をきれいに巻いた、緑色の目をした少女だった。
「ロキシー。以前にも説明したね? フィオリーナはおまえの召使いではない」
アンドレイにそう言われても、栗色の髪の少女はひるまなかった。
「そう? でも、わたくしの『妹』なのでしょう? わたくし達は二人とも、お父様の養女ですからね。妹が姉の手助けをして、どこがいけないの?」
「それが妹に言う口調なのか。姉妹だと言いつつ、おまえはまるで召使いにでも話すように、フィオリーナに命令しているではないか」
「あら。この子は平民の孤児だったのでしょう? わたくしは養女になったとはいえ、侯爵家の令嬢。『姉妹』とはいえ、身分の差は明らかではありませんか。同等にはできませんわ」
アンドレイは深いため息をついた。
「では、フィオリーナは神殿の宿舎で暮らさせる。おまえがこの調子では、安心して家に置いておけない」
「好きになさいませ」
ロキシーは意に介す様子もなかった。
「それより、お父様? いよいよ精霊王の愛し子を選ぶと聞きましたが、本当なのでしょうか?」
ロキシーは目を輝かせて、アンドレイの腕にかじりついた。
「どうやって、選びますの? ねえ、お父様、わたくしね、きっとわたくしが選ばれると確信しておりますのよ。だからこそ、わたくしを養女になさったのでしょう? わたくし、知っておりますわ! 精霊王様が予言を託されたこと。精霊王の愛し子を妃に迎えると、国は栄えると。つまりは、わたくしこそが——イアン陛下の妃にふさわしいのです!」
国王の名を聞いて、フィオリーナは肩を揺らせた。
(国王陛下はとても容姿の整った、美しい方だった)
(でもそれ以上に、自らセイル川の調査に歩き回るお姿は、とても勤勉な努力家であるように見え、好ましいものだった)
(あの方が、ロキシーお姉様と、結婚……?)
「あ」
フィオリーナは思わず、胸を押さえた。
なぜ、こんなに胸が痛むのだろう?
(おかしなことだわ。国王陛下がどなたと結婚しても、なぜわたくしが気にする必要があるの……?)
「お父様、お姉様、失礼いたします。着替えをしてまいります」
フィオリーナは急いでそう言うと、足早にその場を去った。
***
神殿の神官達から、いよいよ『精霊王の愛し子選び』が行われるらしいと聞いたロキシーはその夜、夢を見た。
『立太子の儀式をなさった時、わたくしは本当に息を呑んだの。ああ、この方だって、思ったのよ?』
そう言い放ったのは、美しい少女だった。
完璧に巻かれた栗色の髪に、まるで宝石のように輝く緑色の瞳。
真っ赤なシルクのドレス。
真っ赤なバラの花。
エメラルドのネックレスと、揃いのイヤリング。
最高級の茶葉。
高価で希少な香料。
彼女の身の回りにあるものも、高価なものばかりだった。
『まあ、ロクサーヌ様』
『かしこまりました、ロクサーヌ様』
『大変お美しいですわ、ロクサーヌ様』
夢の中で、欲しいものはすべて手に入れることができたその女は、ロクサーヌと呼ばれていた。
いつも完璧に身支度を整えられていたロクサーヌは、従順で働き者の侍女達に囲まれ、いつも浴びるほどの賛美をその身に受けていた。
(この女は、誰? わたくしと同じ顔、同じ瞳、同じ髪をしているわ)
侯爵家の令嬢に生まれついたロキシーが見ても、ロクサーヌは贅沢で甘やかされた女だった。
(……同じ顔をしてはいるけれど、少し腹が立つわね。わたくしは大神官アンドレイ様の養女になったから、そんなに贅沢をすることはできなくなってしまったもの……)
次にロクサーヌが欲しがったのは、美しい隣国の王太子、フロリアンだった。
(ロクサーヌは王女だったの。なるほどね)
ロキシーは夢の中で、ロクサーヌが夢中になった王太子を見つめた。
彼は輝くような金髪に、群青色の瞳をしていた。
顔だちも整っているが、何より品があり、王太子らしい華がある。
(この方は、イアン陛下にそっくりだわ)
ロキシーは驚いた。
やがて、フロリアンがロクサーヌの手を取った時、ロキシーは満足げに口角を上げた。
しかし。
ロキシーは次の場面を見て、くちびるを噛み締めることになる。
ロクサーヌは、フロリアンとセイル川の河岸にいた。
干上がったセイン川の川床に倒れているピンク色の髪の少女に、ロキシーは見覚えがあったのだ。
『オフィーリア、このままどこかへ行っておしまい。フロリアン様の妃にふさわしいのは、このわたくしなの』
ロクサーヌの不機嫌な声に、ロキシーはざわりと震えた。
(このピンク色の髪の少女を知っている)
(なんてこと、なんてこと、なんてことなの!?)
どう見ても、その少女はフィオリーナとそっくりだったのだ。
その時、ロキシーは目覚めた。
精霊神殿にほど近い、一軒の家。
孤児を引き取って育てている大神官アンドレイは、神殿の宿舎ではなく、別に家を借りているのだ。
ロキシーもフィオリーナやその他の子ども達と一緒に、その家で暮らしていた。
質素なベッドの上で目覚めたロキシーは悟った。
あの王太子フロリアンは、国王であるイアン陛下にそっくりだと。
「ロキシーお嬢様、どうかなさいましたか? お顔の色がすぐれませんが……」
ロキシーははっとして顔を上げた。
目の前では、父が侯爵家から付けてくれた侍女のハンナが、心配そうな顔をしてロキシーを見つめている。
「ハンナ、お父様は、正しかったのよ。ようやくわかったわ」
ロキシーは息を弾ませて言った。
「えっ?」
「お父様は正しかったの。お父様——アンドレイ様ではないわ。侯爵家の父よ。お父様は言ったの。わたくしこそが精霊の愛し子なのだと。わたくしこそが、イアン陛下の妃になる存在なのだと。わたくし、だからといって侯爵家から出されて、アンドレイ様の養女にさせられて、正直お父様を恨んだわ。贅沢もできない、こんな質素な暮らしなんて——」
「ロキシーお嬢様——?」
ハンナは困惑して視線を左右に泳がせる。
なんと返したものか、迷っているのが明らかだった。
「でもね、わかったの。そうなのよ。そのとおりなの。わたくしこそ、イアン様の妃になるのよ。だって」
ロキシーの呼吸は荒かった。
額から汗が伝って、胸に落ちる。
「だって。わたくしこそが——」
あわててロキシーの額に布を当てたハンナは、叫んだ。
「ロキシーお嬢様、大変、お熱がございます……!」
ハンナはロキシーの体を支えて、ベッドに寝かしつけた。
汗を布で拭い、飲み物を用意するために急いでロキシーの部屋を出て行く。
そのために、ハンナは見なかったのだ。
満足げに微笑む、ロキシーの顔を。
(ようやくわかったわ。わたくしがなぜ、ここにいるのか)
ロキシーはうなずく。
(わたくしが、ロクサーヌだったの)
(今度こそ、フロリアン様の心をしっかりと掴むのよ)
ロキシーは熱い体を反転させた。
「わたくしは、フィオリーナが精霊王の愛し子だなんて、認めないわ」
……フィオリーナなどに、邪魔はさせない。




