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第8章:乗り越えて

(え……っ!?)


 気配もなく、影が伸びるようにして、そこから一人の人物が音もなく這い出てきた。

 私は息を呑んだ。その人物は全身にしなやかな黒い衣を纏っていたけれど、何より異様だったのはその『顔』だ。目も、鼻も、口も、何ひとつない。まるでそこだけ油絵の具を塗りつぶしたかのような、のっぺりと特徴のない平らな顔が、こちらをじっと見つめていた。


「……やはり、噂は噂でしたか、ヴァルフレイド閣下」


 のっぺりとした顔の奥から、高低の判別がつかない、感情の抜け落ちた声が響く。


 私はヴァル様の背中に隠れるようにして、身を硬くした。

 けれど、私の前に立ちはだかる彼の背中に、動揺は一切なかった。


「ふん……。見ての通りだ。何か問題が?」


 のっぺりとした顔の『影』は、微動だにせずその平らな顔をヴァル様へと向けている。


「閣下が女性を愛せる普通の男であるならば、我が主、セシリア皇女殿下との婚姻をお断りになる大義名分は失われます」


「大義名分なら、もう必要ない」


 影の言葉を、ヴァル様はにべもなく遮った。

 ヴァル様はフッと不敵な笑みを浮かべると、衝立で仕切られたセシリア様の部屋の方向へと視線を向けた。


「あの部屋の中で、今セシリアが誰と、どんな顔をして話しているか、お前なら分かっているだろう」


 ヴァル様の言葉に、影は答えなかった。


 いま衝立の向こうでは、セシリア様がクリストフ皇子と向き合っている。セシリア様は自分のユニコーンの秘密も、コンプレックスも、そして皇子への本当の恋心も、すべてを曝け出そうと決意してくれたはずなのだ。


「セシリアは、自分が本当に向き合うべき相手の前に立った。もう俺に執着して、他国との縁談を突っぱねるような我が儘は言わないさ。……すべては、俺の隣にいるこの素晴らしい番のおかげでね」


 ヴァル様は一瞬だけ、私の方を振り返って悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。その一瞬の仕草だけは、私のよく知るお姉様の優しさに満ちていて、私は不覚にも胸を跳ねさせてしまう。


 セシリア様が本当の恋に気づき、クリストフ皇子と真正面から向き合い始めた。

 国家間の大問題になりかけていた縁談が、いま、お二人の手で一番正しい形に収まろうとしている。


 セシリア様の頑なな心を解かすために、ヴァル様がこれまでずっと被り続けてきた「虫除けの嘘」は、もうその役目を終えたのだ。国家を欺くための嘘ではなく、皇女を傷つけずに国を護るための苦肉の策だったのだと、セシリア様が幸せになれば誰も文句は言えなくなる。


「これ以上の詮索は、我が主の望むところではございません。……失礼いたします」


 まるで床の闇にそのまま溶け込んでいくかのように、音もなく、影は一瞬にしてその姿を消し去ってしまった。


 張り詰めていた空気が一気に抜け、私は「ふう……」と、胸の奥に溜まっていた息を大きく吐き出した。あれは異世界の隠密なのだろうか、文字通り気配もなく現れて消えるから心臓に悪すぎる。


「驚かせて悪かったな、結衣。もう大丈夫だ」


 影が消えた途端、ヴァル様は私の手をとり、大きな手のひらで優しく包み込んでくれた。


「本当にびっくりしました……。あんな風に、ずっと見張られていたんですか?」


 私が尋ねると、ヴァル様は、困ったような、どこか申し訳なさそうな顔で深くため息を吐いた。


「ああ。あの影が、ずっと俺の背後に貼り付いていたんだ。セシリアが俺に懸想している間は、彼女の安全のためにも、そして俺の男色家という嘘に綻びがないか監視するためにも、王家の隠密が俺の周囲をうろついていた」


 ヴァル様は私の手をきゅっと握り直すと、切なげに金色の瞳を揺らした。


「だから……結衣。お前に本当のことを打ち明けるのが、どうしても難しかった。もし俺がお前を特別な存在として扱ったり、普通の男として本音を漏らしたりすれば、あの影たちに見破られてしまう。そうなれば、セシリアは諦めず、国家間の問題に発展していた。……そこに、お前を巻き込んで、危険な目に遭わせるわけにはいかなかったんだ」


 数日間、私邸の執務室であんなに冷たく、ビジネスライクな態度を取られていた理由。

 私が放っておいてと泣いて突き放したとき、ヴァル様が何も言い返してくれなかった理由。

 すべては、私のことが嫌いになったからでも、迷惑に思ったからでもなかったんだ。


 いつもどこかで監視している影の目を欺くため、ヴァル様はあえて私と距離を置き続けるしかなかったのだ。


(そんなの……ずるいよ。一人で全部抱え込んで、私の前でもずっと嘘をつき続けるなんて……)


「すまない、結衣。不安にさせて、いっぱい泣かせた。……本当に、最低な男だな、俺は」


 ヴァル様は、堪えきれないといった様子で、私の額にそっと自分の額をこつん、と重ね合わせた。至近距離で見つめ合う金色の瞳は、ただただ私への深い愛情だけで満たされている。


「ううん……いいんです。ヴァル様がとても大変な立場だったと分かったから。嫌われていたわけじゃないって分かったから。もう、それだけで十分です……」


 私は、はにかむように笑ってみせた。


 衝立の向こうからは、まだセシリア様とクリストフ皇子の戸惑うような、でも少しずつ距離が縮まっているような話し声が聞こえてくる。


「……なぁ、結衣」


 額を合わせたまま、ヴァル様が低く、掠れた声で私の名前を呼んだ。

 あまりの近さに、彼の長い睫毛の動きまでハッキリと分かる。


「俺はもう、お姉様のフリをするつもりはない。お前の前では、ただの男でいさせてもらう。……いいな?」


「え……」


 顔が赤くなるのが自分でも分かった。恥ずかしくて視線を彷徨わせると、ヴァル様は嬉しそうに喉の奥で笑った。その振動が、重なる胸を通して私の身体にまで伝わってくる。


「どこを見ている。ちゃんと俺を見ろ」


 ヴァル様は私の腰を抱く腕にグッと力を込め、さらに隙間なく身体を密着させてきた。これまではどこかお姉様としての柔らかさや気遣いがあったのに、今の彼は完全に肉食獣そのものだ。

 逃げ場をなくすように私の背後の壁に大きな手が手をつかれ、私は彼の頑丈な胸板と腕の間にすっぽりと閉じ込められてしまう。


「あ、あの、ヴァル様……近、近すぎます……っ」


「さっきは、可愛い顔して泣いてたくせに、いざ俺が男として迫ると逃げるのか?」


 低く掠れた声で意地悪く囁きながら、ヴァル様は私の耳たぶに唇を寄せて、ふっと熱い息を吹きかけてきた。


「ひゃっ!?」


 思わず変な声が出て肩をすくめると、ヴァル様は「可愛いな」と本当に楽しそうに目を細める。数日前4のあの事務的な態度はどこへ行ったのか、今の彼は私をぐいぐいと攻め立てて、てんてこまいにさせるのを楽しんでいるみたいだ。


「ずっとお前を可愛がりたくて仕方がなかったんだ」


 そう言うなり、ヴァル様は私の頬を両手で優しく包み込み、今度は有無を言わせず唇を重ねてきた。


「ん……っ!?」


 何度も角度を変えて、深く、貪るように吸い上げられる口づけ。息が上手にできなくて、私は彼の胸元をぎゅっと掴んで耐えるしかなかった。ようやく唇が離れたときには、私の足はすっかり立たなくなってしまっていて、彼に寄りかかるのが精一杯だった。


「……さて。セシリアの縁談が片付けば、俺が男色家である必要も完全に終わる。となれば、次は俺たちの番だな、結衣」


「え? 私たちの、番……?」


 まだ熱い息を吐きながら問い返すと、ヴァル様はそれはもう嬉しそうに、まるで子供のように目を輝かせた。


「結婚式のことだ。公爵家で行うか、それとも王宮の聖堂を借し切るか……。お前はあまり大層なのは好まないか? だが、俺の最愛の番をお披露目するんだ、ドレスは最高級のシルクで、指輪の宝石だってこの国で一番大きいものを――」


「ちょ、ちょっと待ってくださいヴァル様!? 話が飛びすぎです!」


 さっきまで情熱的に口づけをしてきたかと思えば、今度は結婚式のプランをめちゃくちゃ浮かれた様子で語り始めている。一介の事務員が公爵家だの王宮だのと言われても、頭が追いつかなくて完全にキャパオーバーだ。


「飛びすぎなものか。俺はずっとこの日を待っていたんだ。お前を俺の妻として、堂々とこの腕に抱く日をな」


 ヴァル様は私の慌てぶりが可笑しいのか、嬉しくて堪らないといった様子で私の身体をひょいと抱き上げ、くるくるとその場で軽く回った。


「わっ、ヴァル様、目が回りますーっ!」


「いいから、早く家に帰ろう。式の日取りやドレスのデザイン、今夜は一晩中、寝かさずに話し合おうな?」


 耳元で楽しそうに、でも絶対に逃がさないという独占欲を込めて囁くヴァル様。

 男らしくぐいぐい迫ってくる情熱的な姿と、結婚式の話にウキウキしている子供みたいな姿。そのどちらもが愛おしくて、私は真っ赤な顔のまま、彼の広い胸に降参するようにそっと額を預けた。

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