第9章:大団円は遠い
甘くて、激しくて、文字通り一晩中寝かせてもらえなかった怒涛の夜が明け――翌日の執務室。
私は、普段の三倍増しでてんてこまいにされていた。
「結衣、この書類の確認を頼む。……いや、そんなに離れた席にいなくていい。ほら、こっちに来い」
「ヴァ、ヴァル様、お仕事中ですから! 机を並べるのは百歩譲っていいとして、どうして私の椅子の距離がこんなにゼロ距離なんですか!?」
昨夜、オネエの仮面を完全に脱ぎ捨てたヴァル様は、もう誰の目も気にする必要がなくなった解放感からか、朝から信じられないほど浮かれきっていた。
高いトーンの口調は影も形もなく、低く甘い男性の声で、隙あらば私を自分の膝の上に引き寄せようとしたり、髪の毛にキスを落としたりしてくる。
私は完全にヴァル様の男らしい色気と怒涛の甘やかしに押されっぱなしで、顔の赤みが一秒も引く暇がない。事務員としての理性を保つだけで、もうライフゲージはゼロ寸前だった。
そんな私たちのところに、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「閣下、失礼いたします。セシリア皇女殿下より、結衣殿宛てに直筆の親書が届きました」
入ってきたガイルさんが、なぜかものすごく引きつった顔で一通の豪華な手紙を差し出してきた。
「セシリアから? ふん、わざわざ結衣宛てに寄こすなんて、あの我が儘プリンセスも少しは礼儀を覚えたようだな」
ヴァル様は「どうせクリストフとの仲がうまくいったっていう惚気だろ」と言わんばかりにほくほくとしたドヤ顔で輝いている。自分の男色家の噂を流す原因になったセシリア様が、クリストフ皇子とくっついてくれれば、自分も大手を振って私と結婚できるのだから、嬉しくて仕方ないのだろう。
「結衣、早く読んでみろ。きっとお前への感謝の言葉が並んでいるはずだ」
ヴァル様に促され、私は上品な封蝋を剥がして、香水の香る便箋を広げた。
そこには、セシリア様の流麗な文字で、信じられない内容が書き連ねられていた。
『親愛なる結衣へ。
昨日は本当にありがとう。あなたのおかげで、わたくし、大切なことに気づくことができましたわ。
クリストフ殿下は、ありのままのわたくしを愛おしいと言ってくださいました。そのお言葉は本当に嬉しく、あの方の誠実さには感謝しかありません。
――ですが、わたくし、気づいてしまったのです。
コンプレックスを曝け出し、不格好な姿を見せてもなお、わたくしの手を引いて可愛いと全てを肯定してくれたのは、殿下ではなく、他でもない“結衣、あなた”なのだと……!
殿下との結婚は、やはりお見送りすることにいたしました。
わたくしは、わたくしのすべてを救ってくれた愛しい結衣と結婚し、あなたをわたくしの正妃として迎えたいと思います。近いうちにヴァル兄様を通じて正式にプロポーズの場を設けますわ。待っていてね。 セシリアより』
「……え?」
読み進めるうちに、私の頭の中は真っ白になった。
ちょっと待ってほしい。セシリア様、クリストフ皇子の「ありのままの君が愛おしい」という言葉、めちゃくちゃ心に響いてたじゃないですか。なんでそこから「だから結衣と結婚する」になるの!?
「結衣? どうした、そんなに呆然として。やっぱり感動的な感謝の手紙だったか?」
何も知らないヴァル様が、嬉しそうに私の肩に手を置き、上からのぞき込んできた。
そして、私の手元にある便箋の文字を、その金色の瞳で捉えた。
「……は?」
次の瞬間、ヴァル様の顔から一切の笑みが消え失せた。
手紙を凝視するヴァル様の身体から、ゴゴゴゴゴ……と、凄まじい地鳴りのようなプレッシャーが這い出てくる。
「……クリストフとの結婚は見送り……? 結衣を、正妃に迎える……?」
ポツリ、ポツリと手紙の単語を読み上げるヴァル様の声は、低すぎて地獄の底から響いているかのようだった。
「ガイルッ!!!」
「は、はいっ!?」
ヴァル様が突然、執務室の壁が震えるほどの男の声で怒鳴り声を上げ、ガイルさんが直立不動で飛び上がった。
「今すぐ兵を集めろ!! あの我が儘プリンセスを今すぐここに連れてこい! 精霊の皇子を袖にして、俺の番に求婚するとはいい度胸だ、今すぐその寝ぼけた頭を叩き直してやるーーーっ!!」
「ヴ、ヴァル様、落ち着いてください! ガイルさんも部屋から出ないで!」
まさかのセシリア様からの大迷走なプロポーズに、私のてんてこまいは、昨日とは全く違う意味で限界を突破しようとしていた。
「ヴ、ヴァル様、とにかく落ち着いてください! これは何かの誤解です、直接セシリア様に会いに行って、詳しいお話を聞いてみましょう!」
私が必死にそう提案すると、ヴァル様はギラギラとした金色の瞳を私に向け、その大きな両手で私の肩をガシッと掴んだ。お茶会の日に扉を壊して入ってきたとき以上の、物凄い力と熱量だ。
「……だめだ。お前はどこへも行かせない」
「え……?」
「セシリアに会いに行くだと? 冗談じゃない! あの我が儘娘が、昨日お前が優しくしたせいで完全に虜になってしまったんだ。そんなところに、お前を連れていけるわけがないだろう!」
ヴァル様の声は怒りと焦りで微かに震えている。彼は出て行こうとしていたガイルさんを振り返ると、一切の容赦のない、軍の最高責任者としての冷徹な声を響かせた。
「ガイル、今すぐこの屋敷の警備を通常の五倍に引き上げろ。結衣の私室の窓には内側から結界を張り、庭への出入りも禁止だ。もちろん、王宮からの使者は親書一通たりとも敷居を跨がせるな。お前が付きっきりで見張れ。……いや、お前も男か。ダメだ。俺が結衣を監禁する」
「ま、監禁って……! ヴァル様、本気で言ってるんですか!?」
あまりの暴走ぶりに、私の頭は完全にフリーズしかけた。隣でガイルさんが「あちゃー……」という顔で額を押さえている。
「もちろん本気だ!考えてみれば、お前は無自覚に人を惹きつけすぎる! あの堅物なクリストフ皇子でおさえ、お茶会でお前が彼を庇ったとき、一瞬だけ見惚れたような目をしていたのを俺は見逃さなかった! その上、今度はセシリアまでお前に懸想して、お前と結婚すると言い出す始末だ。男だけならまだしも、女まで敵になるなんて、これ以上お前を外に出させるわけがないだろう!」
「それ、ただのヴァル様の考えすぎですって……っ!」
「考えすぎなものか! お前は自分がどれだけ愛らしいか存在か分かっていないんだ。あんなに一生懸命に他人のために動いて、泣いて、笑って……そんな姿を見せられたら、誰だって俺のようにお前を独占したくなるに決まっている!」
ヴァル様は私の髪に何度も顔を埋め、深く息を吸い込みながら、狂おしいほどの独占欲を隠そうともせずに囁いた。
「もう誰にもお前を見せたくない。お前のその可愛い声も、笑顔も、俺だけのものだ。この屋敷の奥で、俺の愛だけを注がれていればいい……」
ガイルさんがすっと気配を消して退室していくのが見えた。嘘でしょ、ガイルさん、私を置いていかないで……!
「ヴァ、ヴァル様……。私、ヴァル様以外の人のところになんて、絶対に行きませんから……。だから、お願いですからお部屋に閉じ込めるのだけは考え直してください……っ」
てんてこまいになりながらも、私は彼の熱い背中にそっと手を回して、必死に宥めるのだった。
私の小さな抵抗と、背中に回された手の感触が効いたのか、ヴァル様はピクリと身体を震わせた。そして、言葉の文字通りの意味を噛み締めるように、じわじわと体温を上げていく。
「……本当だな? 俺以外の奴に、そんな可愛い顔を見せないと約束するか?」
「はい、約束しますから……!」
情けない声を上げて頷くと、ヴァル様はようやく少しだけ腕の力を緩め、愛おしそうに私の額にキスを落とした。これでどうにか監禁の危機は脱出できた、と私がホッと胸をなでおろした――まさにその時だった。
バタン! と、さっきガイルさんが出て行ったばかりの執務室の扉が、今度は別の人物によって勢いよく開け放たれた。
「閣下! 結衣殿! 大変でございます!!」
入ってきたのは、白髪交じりの髪を振り乱した、この公爵家を長年支える大ベテランの家老様だった。いつもはどんな時でも冷静沈着な家老様が、今にもひっくり返りそうなほど顔を真っ青にしている。
「ど、どうしたのですか、そんなに慌てて……」
「お、お表の門に……! クリストフ皇子殿下が、直接乗り付けておいでです! しかも、我が公爵家の『事務員・結衣殿に直接お会いしたい』と、面会を強く求めておられます!!」
「え……っ!?」
その瞬間、私の隣にいたヴァル様から、ヒュウ……と風が鳴るような不穏な音が聞こえた。
恐る恐る隣を見上げると、ヴァル様の金色の瞳から光が完全に消え去っていた。その顔は、昨夜の甘い表情とも、いつものお姉様の笑顔とも違う、戦場で敵の首を狩る時のような、本物の軍神の表情だった。
「……クリストフが、結衣に直接、会いに来た?」
ヴァル様の額に青筋がバキバキと浮かび上がる。
「あの精霊のガキめ……。まだ懲りずに俺の番に近づこうというのか……」
ヴァル様の身体から、陽炎どころか、本物の赤い魔力の炎がメラメラと立ち上り始める。執務室の温度が急上昇し、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げ始めた。今度こそ完全に理性のタガが外れてしまっている。
「俺が今すぐあの男を叩き斬って、国境線を引き直してくる」
「ヴァ、ヴァル様ーーー!? 国際問題! 本物の戦争になっちゃいますから!!」
私は慌てて、暴走しかけたヴァル様の腰に今度は正面からがっしりと抱きついた。不死鳥の体温は熱くて火傷しそうだったけれど、ここで離したら国が終わる気がする。
「離せ、結衣! あいつはお前を狙っているんだ! セシリアだけじゃなく、あの皇子までお前を奪いに来たんだぞ! やはりお前をこの部屋の床下にでも隠しておくべきだったんだ……っ!」
「違います、絶対に違いますから! 皇子様はきっと、セシリア様との誤解を解きたくて私に相談に来ただけです!」




