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第10章:クリストフ皇子の事情

 私にしがみつくようにして(本当に、大きな身体で私の背後からガッチリと腰を抱きかかえたまま)離れようとしないヴァル様と共に、私たちは奥の応接室へと移動した。


 そこに座っていたクリストフ皇子は、以前のように完璧な美貌を保ってはいたけれど、その氷のような瞳には明らかな動揺と、少しの疲労がにじみ出ていた。


「急な訪問を許してほしい、ヴァルフレイド閣下、そして結衣殿。……いや、閣下、その体勢は一体……?」


 さすがの皇子も、軍神と呼ばれる大男が、一介の事務員である私を後ろから包み込むようにしてソファに座り、ギラギラとした金色の瞳でこちらを威嚇している異常な光景に、一瞬言葉を失っている。


「気にするな。これが俺たちの日常だ。用件を早く言え。お前の顔を見ているだけで、俺の魔力が暴発しそうなんだよ」


 ヴァル様が低く凄むと、応接室のガラス戸がビリビリと震えた。一触即発なんて生易しいものじゃない。私はヴァル様の大きな手をきゅっと握りしめて「落ち着いてください」と無言のサインを送りつつ、正面の皇子に向き直った。


「あの……皇子殿下。セシリア様からの親書の件で、何かあったのでしょうか?」


 私の問いかけに、クリストフ皇子は深く、重いため息を吐き、美しい前髪をかき上げた。


「……そのことだ。結論から言うと、彼女の親書にある結婚は見送りというのは、私とセシリアの仲が決裂したわけではないのだ」


「えっ……? そうなんですか?」


 思わず身を乗り出す私を、ヴァル様の腕がさらに強く引き戻す。皇子はそんな私たちの様子に少しだけ気まずそうに視線を落としながら、事の顛末を丁寧に語り始めてくれた。


「昨日、結衣殿がセシリアの悩みを解きほぐしてくれたおかげで、私たちは初めて、虚飾のない本音で話し合うことができた。彼女のユニコーンの姿も、私は心から愛らしいと思ったし、それを伝えた。……そこまでは、本当に良かった」


「はい、セシリア様もそうお手紙に書いておられました」


「問題は、その直後だ。セシリアはひどく感動し、涙を流して私にこう言ったのだ。『殿下がわたくしのありのままを愛してくださるのなら、わたくしも、殿下のありのままを愛したい。だからこそ、今のままのわたくしたちでは、まだ対等な夫婦にはなれませんわ!』と」


 皇子はこめかみを押さえ、どこか遠い目をした。


「彼女の主張によれば、自分が傷つき、心を閉ざしていたときに引っ張り出してくれたのは、結衣殿であり、その結衣殿のすべてを包み込む包容力を学ばなければ、私を真に幸せにすることはできない、というのだ。だから、まずは結衣殿を自分の正妃として迎え、その隣で真の愛と包容力を修行し、立派な女性になってから、改めて私を側妃として迎え入れたい、と……」


「そ、側妃!?」


 私の口から、今日一番の悲鳴が上がった。

 隣国の、しかも次期皇帝候補筆頭のクリストフ皇子を、自分の側妃(二番目の夫)にする!? セシリア様、いくらなんでも発想がぶっ飛びすぎている。


「セシリアの中では、結衣殿への感謝と憧れが完全に暴走し、謎のプロポーズ計画にすり替わってしまったらしい。私は必死に止めたのだが、彼女は『これがわたくしの、殿下への誠意ですわ!』と聞く耳を持たず、そのままこの屋敷へ親書を送ってしまったのだ……」


 皇子は本当に困り果てたように、私に向かって深く頭を下げた。


「結衣殿、我が婚約者のあまりの迷走、本当に申し訳ない。彼女に他意はないのだ。ただ、君への好意が奇妙な形で表れてしまっただけで……」


 要するに、セシリア様は私に恋愛感情を抱いたわけではなく、ただの憧れが暴走しただけだったのだ。


「……ふん。理由はどうあれ、結衣を正妃にするという文面が存在する以上、あの我が儘プリンセスが結衣を狙っている事実に変わりはないな」


 ヴァル様はまだ疑わしげに金色の瞳を細め、私の腰を抱く腕を微塵も緩めようとしない。


「それに、クリストフ。お前、セシリアの暴走を止めるという名目で、結衣に会いに来る口実を作ったんじゃないだろうな? お前も昨日、結衣に見惚れていただろう」


「閣下、誤解だ。私はただ、国家間の縁談がこれ以上奇想天外な方向に進むのを阻止したいだけで――」


「嘘を言うな。結衣の愛らしさは男女問わず狂わせるんだ、お前だって本当は――」


 またしても低く男らしい声でぐいぐいと皇子を詰め始めるヴァル様。

 セシリア様の誤解は解けた(?)ものの、目の前で大真面目に嫉妬の火花を散らすヴァル様と、それに圧倒されているクリストフ皇子を前に、私のてんてこまいはまだまだ終わりそうになかった。


「ヴァル様、もうそのへんにしてくださいっ! 皇子殿下が困っていらっしゃるじゃないですか!」


 私が後ろを振り返ってヴァル様の胸をぽんっと叩くと、彼は不満そうな表情を浮かべながらも、ようやくそれ以上の追及を止めてくれた。けれど、私の腰をがっちりホールドしたままの腕は、相変わらずびくとも動かない。


 クリストフ皇子はコホンと小さく咳払いをすると、少し居住まいを正し、氷のような瞳に真剣な光を宿して私たちを見つめた。


「閣下との誤解が解けて、何よりだ。私は今日、このまま、皇国へ帰国することが決まったことだし」


「えっ……? 今日、帰国されるのですか!?」


 私は思わず驚いて声を上げてしまった。

 セシリア様があんな奇想天外な親書を送りつけてきて、まさに今から話し合いをして説得しなければいけないというこの大混乱のタイミングで、なぜ急に帰国してしまうのだろう。そんなことになったら、セシリア様の暴走が本当に止まらなくなってしまう。


「こんな状況で帰国されるなんて……何かあったのですか?」


 私が尋ねると、クリストフ皇子は表情をいっそう硬くし、重々しい口調で語り始めた。


「先ほど、我が国の伝令から緊急の報せが入ったのだ。国境付近で、地脈の乱れが発生し、その影響で、周辺の野生の魔物たちが活性化し、通常ではあり得ないほどの大型の魔物が出現して、周囲の集落を脅かしているらしい。私は精霊の加護を受ける身として、一刻も早く現地へ向かい、その対応にあたる必要がある」


「大型の魔物……地脈の乱れ……」


 その不穏な言葉に、私は思わず息を呑んだ。異世界ならではの、命に関わる災害だ。皇子殿下がセシリア様のプロポーズに頭を抱えながらも、すぐに帰国を決断せざるを得なかった理由が、理解できた。


 すると、私の背後でずっと不機嫌そうにしていたヴァル様が、フン、と冷淡に笑って口を開いた。


「おい、クリストフ。丁度いい。あの我が儘プリンセスをそのまま連れて行って、強制労働でもさせればいい」


 私は「ヴァル様、いくらなんでもそんな……!」と慌てて窘めようとした。けれど、正面に座るクリストフ皇子の様子に、私の言葉は喉で止まった。皇子はいつもの氷のような無表情を崩し、痛ましげに、深く眉根を寄せていたのだ。


「……閣下の仰ることは、合理的だ。セシリアの能力があれば、多くの民が救われるだろう」


 皇子はそこまで言うと、一度言葉を切り、きつく拳を握りしめた。


「だが……私は、彼女をそんな風に利用したくはないのだ」


「……甘いな」


 背後でヴァル様が小さく舌打ちをするのが聞こえた。でも、その声からは、さっきまでの容赦のない冷酷さは少しだけ薄れているように感じられた。

 クリストフ皇子は、自嘲気味な笑みを浮かべ、そのまま静かに立ち上がった。


「くだらない感傷を口にして、時間を取らせてしまったな。私はこのまま、ザクセンへの帰国の途につく。結衣殿、閣下、失礼する」

 

 短い言葉を残して、クリストフ皇子は足早に応接室を去っていった。家老様がその後を追いかけていく。


 パタン、と扉が閉まり、部屋の中には私とヴァル様だけが残された。


「……あの、ヴァル様。本当にこれで良かったのでしょうか? 皇子殿下は、あんなにセシリア様のことを大切に思っていらっしゃるようなのに……」


 心配になって尋ねる私に、ヴァル様は私の腰を抱いていた腕をようやく少しだけ緩めると、フッと鼻の奥で楽しそうに笑った。


「心配しすぎだ、結衣。それより、せっかく邪魔者がいなくなったんだ。もっと俺を労ってくれてもいいんじゃないか?」


「わっ、ちょっと、はぐらかさないでください!」


 私がむう、と口を尖らせると、ヴァル様はクスクスと喉の奥で笑いながら、私の頭をポンポンと叩いた。そして、名残惜しそうにしながらも、私を抱きしめていた腕を完全に離し、ソファからすっと立ち上がった。


「俺も片付けなきゃならない用事ができたから、出かけてくる。結衣は大人しくここで、俺の帰りを待っているんだぞ?」


 ついさっきまで私を監禁するだの誰にも見せないだのと大騒ぎしていたのに、急に仕事モードの顔に戻ったので驚いてしまった。ヴァル様は壁に掛けられていた豪奢な上着を手に取ると、流れるような動作でそれを羽織る。


 最後に、ヴァル様は私に口づけをすると、長い足を翻して風のように応接室を出て行ってしまった。


 バタン、と扉が閉まり、静まり返る部屋に私一人だけが取り残される。


 クリストフ皇子の突然の帰国と、それをどこか面白がっているようなヴァル様の態度。何かを企んでいる感じだけれど、私には見当もつかない。


 嵐が去ったあとのような静けさの中で、私はただ、ヴァル様が残していった薔薇の甘い香りの余韻に包まれながら、佇んでいた。

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