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第5章:その名をカオス

 あの日から、ヴァルお姉様は徹底して「完璧な上司」であり続けた。


 私がどんなに気まずそうにしていても、クマの浮いた顔で出勤しても、お姉様は「おはよう、結衣ちゃん。今日もよろしくねぇ」と、いつも通りの高いオネエの声で、けれど一切の感情を交えずに微笑むだけ。

 お茶の時間に手が荒れていないか気にしてくれることも、私の言葉に「天才!」と抱きついてくることも、もう二度となかった。


 完全に引かれてしまった、透明で強固な一線。

 私は自分のデスクで書類をめくりながら、何度も喉の奥がツンと痛くなるのを堪えていた。

 自業自得だ。私が「放っておいて」なんて酷いことを言ったから、お姉様は私の望み通り、ただの『雇われ事務員』として私を扱うようにしてくれただけ。


(でも……本当に、これでよかったの……?)


 時折、公文書の捺印をもらうために近づくとき、お姉様の美しい横顔を盗み見る。

 オネエの仮面の裏側で、お姉様が何を考えているのか、私にはさっぱり分からなかった。ただ、その金色の瞳が、時折酷く寂しそうに、何かを諦め切ったかのように濁って見えるのだけが、胸を締め付けて止まない。そんな、生きた心地のしない冷え切った日常が数日続いたあと、ついに「その日」がやってきてしまった。


 隣国のザクセン皇国から来訪した、クリストフ皇子。

 そして、この国のセシリア皇女様。

 この状況の発端となったお茶会の日が。



 *****



 お城の奥深くにある、外の喧騒から隔絶された特別な迎賓の間。

 セシリア様の呼び出し(というか命令)通り、私はお姉様の私邸の事務員でありながら、今日だけはセシリア様の給仕係(侍従)の格好をして、部屋の壁際に静かに控えていた。


 心臓が緊張でバクバクと嫌な音を立てる。

 お姉様も、軍の最高責任者として、この部屋の少し離れた長椅子に腰掛けていた。けれど、やはり私の方には一度も視線を向けず、ただ静かに目を伏せている。


 やがて、重厚な扉が開いた。


「ザクセン皇国第一皇子、クリストフ殿下、ご入室です」


 静まり返った部屋に、カツン、カツンと几帳面な足音が響く。

 現れたのは、セシリア様に見せてもらった姿身(写真)の通りの人だった。

 涼しげな銀髪に、冷徹な氷を思わせる鋭い青い瞳。一分の隙もないほど美しく着こなされた軍服。歩き方一つとっても、規律そのものが服を着て歩いているかのような、圧倒的な威厳と冷たさがある。


(……やっぱり、すごい迫力……)


 私は息を呑んで頭を下げた。

 対面に座るセシリア様を見ると、お人形のように可憐な顔が、今にも泣き出しそうに強張っている。ドレスの裾をぎゅーっと握りしめている手が、小刻みに震えていた。緊張しているのだろうか。


 クリストフ皇子は、セシリア様の前まで歩み進めると、完璧な角度で一礼した。

 そして、ゆっくりと腰を下ろす。


 部屋の中に、張り詰めたような沈黙が流れた。

 セシリア様は完全に怯えてしまって、声も出せない。


 すると、クリストフ皇子は、その氷のような青い瞳でまっすぐにセシリア様を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「……セシリア殿下。本日はお招きいただき、感謝いたします」


 低く、どこか硬い声。

 その声音があまりに事務的だったせいか、セシリア様はビクリと肩を揺らし、さらに身体を縮こまらせてしまった。


 でも。

 壁際でその様子を見ていた私は、ある違和感に気がついた。


(……あれ? 皇子様、もしかして……)


 クリストフ皇子は、冷徹にセシリア様を睨みつけているわけではなかった。

 よく見ると、彼の端正な指先が、ほんの少しだけ不自然に固くなっている。セシリア様を見つめるその瞳も、冷酷というよりは、むしろ「粗相のないように」と、もの凄くガチガチに緊張しているように見えたのだ。

 やっぱり、この人もセシリア様と同じで、この場でどう振る舞っていいか分からず、ただ必死に生真面目な皇子を演じているだけなんじゃ……。


 思わず、私は皇子へ視線を送った。心の中で(大丈夫ですよ、怖くないですよ)と念じながら。


 ふと気配を感じて視線を向けると、長椅子に座っていたヴァルお姉様が、じっと私を見ていた。

 数日ぶりに、まっすぐ交わった視線。

 お姉様の金色の瞳は、いつものビジネスライクな笑顔を完全に消し去っていた。


 私がクリストフ皇子をじっと見つめ、その姿に意識を集中させていたのが、お姉様にはどう映ったのだろう。セシリア様のあの盛った嘘――『結衣が、クリストフ皇子様を素敵だって、目を輝かせていた』という言葉を、今まさに、目の前で証明されたと思ってしまったのかもしれない。


 お姉様の金色の瞳が、ぞっとするほど深く、そして絶望を孕んだ光を帯びて、激しく揺らめいた。


 気まずさと、違うんですという想いで胸が押しつぶされそうになる。


 部屋を支配する重苦しい沈黙。


 その時だった。

 セシリア様が、すがるような、けれど同時にすべてを投げ出すような目で、壁際にいる私をビシッと指差したのだ。


「ク、クリストフ殿下! そんなに黙っていられては退屈ですわ! ……そうだわ、そこにいるわたくしの侍女の結衣が、どうしても貴方にお会いしたいと言い張ったのですのよ!」


(ひ、ひいいぃぃっ!?)


 この状況のなか、突然の指名に、心臓が口から飛び出るかと思った。

 内心で悲鳴を上げながらも、私はポーカーフェイスを必死に張り付けた。


「……君が?」


 低く、硬い声。けれどやっぱり、私にはその声が冷酷ではなく、急に予定にない人物が登場して「どう対応すればいいんだ!?」と激しくパニックを起こしている堅物男子の声にしか聞こえなかった。耳の裏がほんの少し赤くなっている気すらする。


(ここで私が縮こまったら、お茶会が完全に崩壊する……! ここは営業事務時代、理不尽に激怒する取引先と上司の間に挟まれた時だと思えば……!)


 私は深く息を吸い込み、あえて一歩前に出て、最高に柔らかい「おもてなしスマイル」を浮かべた。


「滅相もございません、クリストフ殿下。ただ、セシリア様より殿方からのお手紙と、お姿を拝見し、その真っ直ぐで誠実そうなお瞳に、私のようなしがない侍女まで、思わず『なんて素敵で、お優しい方なのだろう』と心動かされてしまったのは事実でございます。お気を悪くされたなら、申し訳ありません」


 私は滑らかな口調で、かつ皇子の真面目さを褒めるように頭を下げた。

 すると、クリストフ皇子はあからさまに動揺したように目を見開き、ゴクリと喉を鳴らした。


「そ、そうか……。私は、不器用ゆえ、手紙の文面も硬くなってしまうのだが……そのように受け取ってもらえたのなら……感謝する」


 氷の皇子の表情が、ほんの少しだけ和らぐ。セシリア様も「あら?」と目を丸くして、皇子を見つめた。

 よし、場が少し和んだ! これでお二人で話せるはず――そう確信して、ホッと胸を撫で下ろそうとした、その瞬間だった。


 背筋を、生ぬるい、けれど肌がチリチリと焼けるような強烈な熱気が駆け抜けた。


 恐怖に駆られて視線を向けると、長椅子に座るヴァルお姉様の姿が目に入った。


 ガタ、と微かに長椅子が鳴る。

 お姉様の手が、肘掛けの木製部分をギリギリと音を立てて握りつぶしそうになっていた。燃えるような赤髪の奥から覗く金色の瞳は、今や完全に縦の瞳孔が限界まで細くなり、狂気の色に染まっている。


(あ……違う、違うんですヴァル様! 私はただ、場を和ませようとしただけで……!)


 心の中でどれだけ叫んでも、お姉様には届かない。

 部屋の片隅から放たれる、肌が焦げ付きそうなほどの強烈な熱気とプレッシャー。さすがに、その異常な空気にクリストフ皇子も気がついたようだった。

 皇子は怪訝そうに青い瞳を動かし、長椅子に座るヴァルお姉様へと視線を向けた。


 お姉様は、肘掛けをギリギリと軋ませながら、殺気すら孕んだ金色の瞳で皇子を睨みつけている。その圧倒的な存在感、威圧感。


「……なるほど。貴殿が、この国が誇る不敗の軍神、ヴァルフレイド閣下か」


 クリストフ皇子は状況を察したように、すっと背筋を伸ばして立ち上がった。

 お姉様の放つ凄まじい威圧感に一歩も引くことなく、軍人らしい非の打ち所のない、爽やかで堂々とした態度で一礼する。


 けれど、それが最悪の油を火に注ぐ結果になった。


「――ええ、そうよぉ」


 ガタァン!! と凄まじい音を立てて長椅子を蹴り飛ばし、ヴァルお姉様が立ち上がった。

 声の語尾こそ無理やりオネエにしているけれど、地を這うような重低音は完全に男性のそれだ。燃えるような赤髪が、お姉様の怒りに呼応するようにぶわりと逆立っている。


 お姉様はクリストフ皇子へと大股で歩み寄ると、その高い身長をさらに活かして、見下ろすように皇子の目の前に立ち塞がった。


「ザクセンの皇子様が、随分と私の……いいえ、我が国の侍女がお気に入りのようですけれどぉ。他国の高貴なお方が、人のもの……あ、間違えちゃった、うちの事務員に気安く声をかけないでくださるかしらぁん?」


 お姉様の周囲の空気が、本気の不死鳥の炎の熱量でメラメラと歪み始めていた。いまにも、その強靭な拳で皇子に直接攻撃を仕掛けそうな、一触即発の危険な状態。


(だ、誰か止めてーーー!! お姉様が国際問題を起こしちゃうーーー!!)


「待て待て待てーーーい!!! ヴァルフレイド、落ち着けい!!!」

「クリストフ! 貴様もお茶会の席で何を好戦的な顔をしているのだ!!」


 迎賓の間の隠し扉(?)のような壁がいきなりバァン!!と開き、きらびやかな王冠を被った豪華な衣装のおじ様たちが、もの凄い勢いでドカドカと乱入してきた。


「えっ……お父様!?」

「皇帝陛下!?」


 セシリア様とクリストフ皇子が同時に声を上げる。

 なんと、この緊迫したお茶会に乱入したのは、この国の国王様と、隣国の皇帝陛下だった。


「あああ、もう! せっかく良い雰囲気になりそうだったのに、ヴァルフレイド、お前が割って入るな! 我が娘の縁談がかかっておるのだぞ!」

「左様だ! 我が息子クリストフが、ようやくセシリア皇女とまともに会話できた記念すべき瞬間だったというのに! 邪魔をするな軍神!!」


 二国のトップであるはずの王様たちが、なりふり構わずヴァルお姉様の服の袖や腕にすがりつき、必死になって引き剥がそうとしがみついている。


「いやだわぁ離してちょうだい! この堅物男が結衣ちゃんを誘惑して近づこうとしたのが悪いのよぉー!」

「ゆ、誘惑!?私はただ挨拶をしただけだ! というか、なぜ貴殿がそこまで怒るのだ!?」

「お父様、うるさいですわ! 来ないでって言ったでしょう!」


 王様たちに引っ張られながらも、お姉様は必死に私の方へ手を伸ばし、クリストフ皇子は理不尽な怒りに混乱し、セシリア様はパニックで怒鳴っている。


 高貴な人たちが一堂に会して繰り広げられる、あまりにもカオスでてんやわんやな大修羅場。

 私は完全に置いてけぼりのまま、ただただ呆然と、その光景を眺めることしかできなかった。

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