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第4章:そんなつもりじゃなかったのに

 もの凄いスピードで空中庭園を後にしたお姉様の歩幅は大きくて、私は半分引きずられるようにして馬車に押し込まれ、そのまま私邸へと連れ戻された。


 お姉様は終始無言だった。

 いつもなら「今日のおやつは何にしましょうかねぇ?」なんて話しかけてくれるのに、今はただ、険しい顔で窓の外を睨みつけている。その横顔があまりに綺麗で、そして冷徹で、私は恐ろしくて一言も発することができなかった。


 私邸に着き、ガチャン、と重厚な執務室のドアが閉まる。

 メイドさんも誰もいない、完全な二人きりの空間。


「……結衣」


 振り返ったお姉様の口から漏れたのは、もう隠そうともしない、低く掠れた完璧な男の声だった。


「ヴァ、ヴァル、お姉様……?」


 一歩、また一歩とお姉様――いいえ、ヴァル様が近づいてくる。

 全身から放たれる圧倒的なプレッシャーと、焦がれるような熱気に気圧され、私は思わず後ろに下がったけれど、すぐに背中にデスクの角が当たった。逃げ場がない。


 ヴァル様は私の両脇のデスクに両手を突き、私を完全に閉じ込めた。

 綺麗な赤髪が目の前に迫る。金色の瞳は獣のように細められ、私を激しく咎めるように見つめていた。いつもよりずっと、攻撃的で、強引な目。


「皇子がそんなに素敵だったか? あんな、手紙の一通もまともに書けない堅物のどこがいい。お前はあいつに会って、どうするつもりだ。俺から離れて、あんな奴のところへ行く気か?」


「ち、違います……! あれはセシリア様が誤解するような言い方をしただけで、私はただ、お二人の……っ」


「言い訳を聞いているんじゃない!」


 地を這うような怒声に、びくりと体が跳ねる。

 ヴァル様はギリ、と美形を歪めて奥歯を噛み締めた。


「お前は俺の……俺のところにいると決まったはずだ。それなのに、なぜ他の男に目を向ける。俺じゃ不満なのか……!?」


 責め立てるような強い口調。火傷しそうなほどの熱い吐息が顔にかかる。

 そのあまりの剣幕に、私の頭の中で、何かがぷつりと切れてしまった。


 お城の廊下で聞いた噂。セシリア様が「ヴァル兄様が大好き、結婚したい」と言っていた姿。

 それなのに、私の前でだけ、こんな風に男性の顔をして激しく嫉妬してくるちぐはぐさ。

 何が本当で何が嘘なのか分からない。私はただの事務員で、なんの約束もされていないのに、どうしてこんなに怒られなきゃいけないの?


 悲しさと、悔しさと、胸の痛みが一気に溢れ出して、私はヴァル様の胸を両手で強く突き放した。びくともしなかったけれど、涙がボロボロと目から溢れ出す。


「……どうしてそんな風に私を縛るんですか!?」


「結衣……?」


「そもそも、私はヴァルお姉様の番じゃなくて、ただの雇われた事務員でしょう!?」


 心にもない棘のある言葉が、口から勝手に飛び出していく。


「お城の皆さんも、ガイルさんも言っていました! ヴァルお姉様は、男性が好きだって! 女性には一切興味がないって! だったら、私のことなんて、もう放っておいてください……っ!!」


 叫んだ瞬間、部屋の空気が一瞬で凍りついた。


 ヴァル様は目を見開いたまま、完全に硬直していた。

 私を閉じ込めていた腕から、すうっと力が抜けていく。


「お前……今、なんと言った……?」


 ヴァル様はゆっくりと一歩、後ろに下がった。

 その金色の瞳に宿った絶望的な光を見た瞬間、私はハッと我に返り、自分がどれほど酷いことを言ってしまったかに気づいた。


 違う。放っておいてほしいなんて、本当は一ミリも思っていない。私を見てほしくて、セシリア様のものになってほしくなくて、寂しくて、ただの八つ当たりで言っただけなのに。


「あ……ヴァル、様……私、今のは……」


「……すまない。頭を冷やしてくる」


 私の弁明を拒絶するように、ヴァル様はすっと目を伏せた。

 彼は私に背を向けた。


 バタン。


 静かに閉まったドアの音が、やけに大きく執務室に響く。

 一人残された私は、激しい自己嫌悪と胸を締め付けるような痛みに耐えかねて、その場に崩れ落ちるように泣いてしまった。


 どれくらいそうしていたのか、分からない。

 涙が枯れるまで泣いたあと、私は引きずるような足取りで自分の部屋へと戻った。


 それから、一睡もできなかった。

 ベッドに横になっても、目を閉じれば浮かんでくるのは、最後に見たヴァル様のあの表情ばかりだ。

 あんなに傷ついた顔を見たことがなかった。


(どうしてあんなこと、言っちゃったんだろう……)


 夜が更けるにつれて、自己嫌悪はどんどん膨らみ、今度は底知れない不安が頭をもたげてくる。


(ここを追い出されたら、どうしよう……)


 私はこの世界の住人ですらない、ただの迷い人だ。身寄りもなければ、行くあてもない。ヴァルお姉様が「私の専属事務員さん」としてここに置いてくれたから、私は今日まで安心して笑っていられたのだ。

 愛想を尽かされて、明日「出て行ってくれ」と言われたら?

 いや、それよりも、もう二度とあの優しい笑顔を私に向けてくれなくなったら――。


 想像しただけで、恐ろしさに身体が震えた。

 不安と後悔が頭の中でぐるとぐると渦を巻き、吐き気が込み上げてくる。結局、一睡もできないまま、窓の外が白み始めてしまった。


 翌朝。

 重い身体をどうにか動かして、いつも通り事務員の制服に身を包む。顔を洗っても、鏡に映る私は目の下に酷いクマを作っていて、幽霊みたいに真っ白だった。

 お姉様に会うのが怖い。でも、逃げるわけにはいかない。ちゃんと謝らなきゃ。許してもらえなくても、あんな酷い言葉を投げっぱなしにするなんて絶対に嫌だ。


 覚悟を決めて部屋を出て、いつもの執務室へと向かう。

 ドアの前で何度も深呼吸をして、震える手でノブを回した。


「失礼します……っ」


 消え入りそうな声で部屋に入ると、そこには、すでにデスクに向かって書類にペンを走らせているヴァル様の姿があった。

 いつものように着崩した軍服ではなく、ボタンをきっちりと上まで留めた、隙のない正装。

 私が部屋に入ってきたというのに、ヴァル様は書類から目を離そうともせず、ただペンの音だけがカリカリと冷たく室内に響いている。


「あの……ヴァル、お姉様……。昨日は、その、私……」


 私が必死に声を絞り出すと、ヴァル様はピタリとペンの動きを止めた。

 そして、ゆっくりと顔を上げたその表情には――いつものオネエの柔らかさも、昨日の激情の男の顔も、何一つ残っていなかった。


「おはよう、結衣ちゃん」


 紡がれたのは、いつもの、高くて華やかなオネエの声。

 けれど、その声には何の感情も籠もっていなくて、私を見る金色の瞳も、完全にビジネスライクな、他人を見る目だった。


「昨日のことなら、もう気にしていないわぁ。あなたの言う通り、ちょっと公私混同しすぎていたみたいね。あなたが事務員だってこと、私もちゃんと頭を冷やして思い出したから、大丈夫よん」


 お姉様は、完璧な、けれど血の通っていないビジネススマイルを浮かべてみせた。


「さ、今日も仕事が山積みよ。お互い、自分の本分を全うしましょうねぇ?」


 それは、怒られるよりもずっと残酷な、完璧な拒絶の壁だった。

 突き放された私の心は、昨日崩れ落ちた時よりもずっと深く、暗い奈落へと真っ逆さまに落ちていくようだった。

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