第3章:皇女の招待
ホームシックという私の嘘を、ヴァルお姉様はどんな気持ちで聞いていたんだろう。
あの切なすぎる声が耳から離れないまま、私は次の日も、どこか気まずさを抱えながら執務室で書類をめくっていた。
そんな私たちの間に、一通のきらびやかな手紙が舞い込んできたのは、その日の午後のことだった。
「……え? セシリア皇女様から、私にお茶会へのご招待、ですか?」
メイドさんから受け取った高級な便箋には、綺麗な薔薇の刺繍と、流れるような美しい文字で私の名前が記されていた。
王女様から、ただの専属事務員である私への直々の呼び出し。お城の廊下で聞いたあの噂話が頭をよぎり、私の心臓がドクンと嫌な音を立てる。
「いやだわ! 結衣ちゃん、そんなの行く必要なんて全くないわよぉー!」
手紙を見るなり、ソファから立ち上がったヴァルお姉様の声が、いつになく鋭く裏返った。
「あの子ったら、また退屈紛れに妙なことを思いついて……! 結衣ちゃんは私の大事な事務員なんだから、お城のややこしいお茶会になんて出なくていいの。私からお断りの返事を出しておくから、ね?」
お姉様は私の手からひったくるように手紙を奪うと、いつもの大袈裟なジェスチャーでひらひらと手を振った。
でも、その金色の瞳は完全に泳いでいる。私をセシリア皇女に絶対に合わせたくない、という強い焦りと動揺が、隠しきれずに透けて見えていた。
(どうして、そんなに焦ってるの……?)
胸の奥にモヤモヤが広がっていく。
やっぱり、お姉様と皇女様の間には、私には踏み込めない特別な関係があるんだろうか。
ヴァルお姉様がそこまでして私から隠そうとする「噂のセシリア皇女」がどんな人なのか、どうしても、この目で確かめてみたかった。お姉様に恋をしてしまったからこそ、逃げてばかりじゃいられないと思ったのだ。意地、かもしれない。
「いいえ、ヴァルお姉様。せっかく皇女様が声をかけてくださったのですから、失礼があってはいけません。私、行ってまいります」
「結衣ちゃん……っ!?」
お姉様が絶句する。その美しい顔が、一瞬だけ、本当に見たこともないほど青ざめた。
お姉様は何かを言いかけ、ギリ、と奥歯を噛み締めるようにして、小さく呟いた。
「……頼むから、あいつの前では絶対に……いや、何でもないわぁ。結衣ちゃんがそこまで言うなら止めないけれど、何かあったらすぐ私を呼ぶのよぉ!?」
最後は無理やりオネエのトーンに戻したけれど、お姉様は最後まで、ハラハラと生きた心地がしないような顔で私を見送ってくれた。
*****
お城の最上階にある、見晴らしの良い空中庭園。
色とりどりの珍しいお花が咲き乱れるその中央に、その人は座っていた。
「待っていましたわ、橘結衣。お座りになって?」
まばゆいばかりの金髪を完璧な縦ロールにして、お人形のように可憐なドレスを纏った美少女――セシリア皇女様だ。
その圧倒的なお姫様オーラに、私は思わず気圧されそうになる。
「お招きいただき、ありがとうございます、皇女殿下」
営業事務時代に叩き込まれた、完璧な角度のお辞儀をして、私は勧められた席に腰掛けた。
皇女様は、上品に紅茶を口に運んだあと、その大きな青い瞳で、私を値踏みするようにツンと見下ろしてきた。
「ヴァル兄様が番を迎えて、めずらしく女の子を私邸に囲っていると聞いて、どんな凄い美女かと思っていましたけれど……。随分と地味で、素朴な方なのね」
挨拶もそこそこに放たれた、あからさまな先制攻撃。
私をハラハラと見つめるまわりのメイドさんたちの視線が痛い。
(うん、まあ、そうですよね……。鏡で見るたびに、周りの綺麗な獣人さんたちに比べて、私って本当ただの黒髪の地味な元OLだもんなぁと自分でも思います。今日だってドレスじゃなくて事務員用の服だし)
嫌味を言われているはずなのに、あまりにも当たり前の事実を指摘されただけだったので、私は「お目汚ししてすみません」くらいの気持ちで、素直に「はい、至らない身ですが、ヴァルお姉様のお手伝いをさせていただいております」とペコリと頭を下げた。
すると、皇女様は私の平然とした態度が予想外だったのか、「えっ」と一瞬だけ可憐な眉をひそめた。けれど、すぐにフンと鼻を鳴らして、今度は自慢げに胸を張った。
「いいですか? ヴァル兄様は、この国で一番美しくてお強いお方。戦場では一騎当千の軍神でありながら、普段はとても優雅で、気高くて、何より「女性には一切の興味がない、完璧に安全で清らかなお姉様」なんですの! わたくし、あの方のことが幼い頃から、本当に、本当に大好きなんですのよ!」
声を大にしてヴァルお姉様の素晴らしさを熱弁する皇女様。
……だけど、その言葉を聞けば聞くほど、私の頭の中にはたくさんの疑問符が浮かび上がっていた。
(優雅で、気高くて……女性には一切の興味がない、完璧に安全なお姉様……?)
ちょっと待ってほしい。
私の知っているヴァルお姉様は、確かにものすごく強くて綺麗だけれど、いつも「ちょっとぉー!」と大音量で叫んでいるし、部下の計算ミスにドスの利いた声を上げている。
何より――「女性に興味がない、安全なお姉様」?
脳裏に鮮明に蘇る。
手荒れを治すと言って、熱い手のひらで私の指先を愛おしそうに撫でてきた、あのヴァルお姉様。
ガイルさんに触られそうになった瞬間、目を獣のようにしてテーブルを真っ二つに叩き割った、あのヴァルお姉様。
そして、「ここに俺の隣にいるのが寂しいのか」と、掠れた低い男の声で、私を壊れ物みたいに抱きしめてきた、あのヴァル様。
(……ううん、そこは絶対に違う。あの人、全然「安全なお姉様」なんかじゃないよ……?)
むしろ、2人きりになると、いつ襲いかかってきてもおかしくないような、あやうい気配を隠しきれていない。
セシリア皇女が見ている「ヴァルお兄様」と、私が毎日執務室で見せられている「ヴァルお姉様(時々ヴァル様)」が、あまりにもかけ離れすぎていて、私は紅茶を飲む手が止まってしまった。
「ですから! あんなに素敵なヴァル兄様が身近にいらっしゃるのですもの。わたくし、隣国のザクセン皇国のクリストフ皇子とかいう、行儀が良すぎて怖い氷の男のところなんて、絶対に嫁ぎたくありませんの! ねえ、あなたからも兄様に「セシリアちゃんをずっと守ってあげて」って説得してくれませんかしら!?」
王女様はついに、さっきまでの気品に満ちた聖女の仮面をガラガラと崩し、身を乗り出して懇願してきた。
「あ、あの……セシリア様? 説得、ですか……?」
「そうですわ! あの皇子から届く手紙なんて毎回「体調はいかがですか」からはじまって、魔獣や、政情の話だの、生真面目すぎてかえって緊張してしまいますのよ! もう、あちらの大臣たちも、この国の大臣たちも、みんな大嫌いっ!!」
王女様はついに両手を机に突いて、お人形のようなお顔を憤慨させてみせた。
王女様の話を聞く限り、隣国の皇子様は何かひどいことをしたわけじゃなくて、ただ凄く真面目なだけみたいだけど……。
「あの……セシリア様。その、クリストフ皇子というのは、どのような方なのですか?」
私がそっと話を広げてみると、セシリア様は「ふえ?」と、これまた王女様らしからぬ気の抜けた声を上げた。
「どのような方、と言われましても……。ザクセン皇国の第一皇子で、氷の魔術師です。冷酷無慈悲や、冗談の通じない堅物だとか、とにかく恐ろしい噂ばかりですわ!……幼い頃はそうでもなかったと記憶してますけど。まあ、でも、 実際に届く手紙も文官が書いたのかと思うほど定型文ばかりで、ちっとも人間味がありませんの。……あ、そうですわ。確か、あちらから送られてきた姿絵がありましたわね。ねえ、持ってまいりなさい!」
セシリア様がひらひらと手を振ると、控えていたメイドさんが一冊の立派な本を運んできた。
そのページの間から、セシリア様が「これですわ!」と一枚の薄い板のようなものを取り出す。この世界では、絵の具ではなく魔力で対象をそのまま写し取る特別な『姿身』というものがあるらしい。日本の写真のようなものだ。
「ほら、ご覧になって? 見るからに冷たそうで、おっかない男でしょう?」
セシリア様が突き出してきたその姿身を、私は覗き込んだ。
「――わあ……」
その瞬間、思わず本音がぽろりと口から漏れてしまった。
「とっても、素敵な方ですねぇ……」
「……はぇっ?」
セシリア様が鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見る。
でも、本当に素敵なのだ。そこに写っていたのは、涼しげな銀髪をきっちりと整え、品行方正な軍服を纏った青年だった。氷の瞳、と噂されるその目は確かに冷たい印象を与えるかもしれないけれど、私にはそれが、すごく理知的で、不器用なほど真っ直ぐな人の目に、日本で言う「超正統派イケメン」に見えたのだ。
(あ、この感じ……ちょっと日本の営業部の、生真面目すぎて損ばかりしてる若手エース榊くんに似てるかも……)
手紙が定型文ばかりなのも、女心が分からなくて、失礼のないように必死に推敲した結果なんじゃないだろうか。営業事務として、お堅い取引先の不器用なメールをたくさん処理してきた私には、なんとなくその真面目さの裏にあるものが透けて見える気がした。
「す、素敵……!? 結衣、あなた正気ですの? 」
「いえ、すごく誠実そうな、綺麗な目をされているなと思いまして。手紙の内容も、セシリア様の体を本当に心配されているからこその文面だと思いますよ?」
「え……っ、あ、案外、そうなの、かしら……?」
セシリア様は急に毒気を抜かれたように、もじもじとドレスのフリルをいじり始めた。
「でも、でもっ! わたくしには、絶対に他の方には見せられない秘密がありますの! もし、あの皇子に本当のわたくしを見せたら、あんな真面目そうな方、一瞬で幻滅して、軽蔑して、お怒りになって国に帰れと言われますわ……っ!」
セシリア様は再び涙目になって、今度は本当にドレスの裾をぎゅーっと抱え込んだ。
「セシリア様……」
私はそっと手を伸ばし、テーブルの上で震えている彼女の小さな指先に、自分の手を重ねた。
お茶会が始まったときは、なんて高慢でトゲトゲしたお姫様なんだろうと身構えてしまったけれど、もしかしたら素直で、不器用で、本当はとっても可愛らしい、女の子なのかもしれない。
「セシリア様。私、この世界のことはまだ何も分からないですし、クリストフ皇子様のこともお姿とお手紙でしか存じ上げません。でも、あのお手紙の丁寧な文面や、先ほど拝見した姿身の真っ直ぐな瞳の印象では……とても、優しい方のように思います。本当に不躾で、冷酷な方であれば、そのような細やかな気遣いの手紙を送ったりはなさらないんじゃないですか」
セシリア様が涙で濡れた長い睫毛を揺らし、じっと私を見つめてくる。
「ですから、一度、周囲の噂やお立場は抜きにして、しっかりとお二人だけでお話しされてみてはいかがでしょうか? 文面だけでは伝わらないお人柄が、きっと分かると思います。もし本当に冷たい方だったら、その時はヴァルお姉様に泣きつけばいいんですから」
私がクスリと笑って見せると、セシリア様は「う、うぅ……」と小さく唸りながら、きゅっと口を真一文字に結んだ。セシリア様はもじもじと私の手を見つめたあと、頬を林檎のように赤く染めて、消え入りそうな声で言った。
「……一度、お話、してみるくらいなら……。でも、わたくし、緊張して何を話せばいいか分かりませんわ。冷たい氷の視線で見つめられたら、その場でまた足が出て、フシャァって……っ」
困り果てたように眉を八の字にするセシリア様は、突然、私の手をがしっと強く握り締め、すがるような目で顔を近づけてきた。
「結衣! あなた、わたくしとクリストフ皇子の話し合いに、同席しなさい!」
「ええっ!? わ、私がですか!?」
「そうですわ! あなたが二人でしっかり話し合えなんて言い出したのですから、言い出しっぺとして責任を持ちなさい!」
セシリア様は、はっきりとそう言い放った。さっきまでのしおらしい態度はどこへやら、今度は完全に我が儘なお姫様の顔に戻っている。
「それに、あなた、さっきクリストフ皇子の姿身を見て『とっても素敵』って本音を漏らしていましたわよね? わたくし、聞き逃しませんでしたわ。そんなにあの堅物男が気に入ったのなら、あなたにあげますわ!」
「ええっ!? あ、上げるって、そんな物みたいに……!」
「いいえ、差し上げます! その代わり――ヴァル兄様はわたくしに頂戴!」
セシリア様はビシッと綺麗な指を私に突きつけ、とんでもないバーター取引を提案してきた。
「ヴァル兄様さえわたくしの側にいてくだされば、隣国の恐ろしい皇子なんて怖くありませんもの。だから、クリストフ皇子はあなたのもの、ヴァル兄様はわたくしのもの。これで万事解決、完璧ですわ!」
(完璧って、そんなプロ野球の移籍交渉みたいな……!)
「さあ、決まりですわね! 皇子との会談の席には、あなたもわたくしの侍従として必ず同席すること! これは皇女としての命令ですわ!」
セシリア様はフフンと勝ち誇ったように胸を張り、完全に私を丸め込んでしまった。営業事務時代、無理な納期を笑顔で押し付けてくる お偉い方を思い出して、私は「うう……」と声を詰まらせるしかなかった。
そんな、私が完全に降伏した、その時だった。
「――ちょっとおぉーーー!! あなたたち、私の可愛い結衣ちゃんになんてことしてくれてるのよぉーーー!?」
空中庭園の入り口から、静寂を木っ端微塵に吹き飛ばすような、凄まじい大音量のオネエ言葉が響き渡った。
驚いて振り返ると、そこには息を荒く切らせたヴァルお姉様が立っていた。
燃えるような赤髪を振り乱し、立派な軍服を少し着崩したまま、猛烈な勢いでこちらに突進してくる。お城の騎士さんたちを何人もなぎ倒してここまで走ってきたのか、背後では近衛兵の人たちが「閣下! お待ちください!」と慌てて追いかけてきていた。
「ヴァ、ヴァルお姉様……!?」
「結衣ちゃん! 無事!? どこか怪我はない!? この我が儘プリンセスに変な呪いでもかけられなかったかしらぁん!?」
お姉様は私の前に立ちはだかるようにして、ガシッと私の両肩を掴んだ。いつもの高いトーンでまくしたてているけれど、その金色の瞳は尋常じゃないほど血走っていて、私を確かめる手が小刻みに震えている。
「いやだわ、ヴァル兄様! わたくしがいつ結衣に呪いなんてかけましたの!? 失礼しちゃいますわ!」
セシリア様がプンプンと怒って立ち上がる。
お姉様は私を背中に隠すように一歩前に出ると、セシリア様をキッと睨みつけた。その瞬間、お姉様の体からぶわりと熱い気が立ち昇り、語尾こそオネエのままで、けれど声の芯が、あのぞっとするほど低い「男のトーン」に一瞬だけ変化した。
「……セシリア。私の、結衣ちゃんに……変なことをしてないでしょうね。この子は、私の、大事な、つ、事務員さんなんだから……」
一語一語を区切るような、凄まじいプレッシャー。
セシリア様は「ひゃっ」と短く悲鳴を上げて一歩後ろに下がったけれど、すぐに負けじと言い返した。
「なにもしていませんわ! ただ、わたくしたち、次のクリストフ皇子とのお茶会に、結衣も同席させることで話がまとまりましたの! 結衣も行くって言いましたわ!」
「――な、に……?」
お姉様がゆっくりと私の方を振り返る。
「あ、あの、ヴァルお姉様……! 色々となりゆきで……その、そうなってしまいまして……」
私は慌てて手を振りながら、弁明しようと言葉を尽くそうとした。
なのに、お姉様の背後にいるセシリア様が、追い打ちをかけるように余計な一言を放った。
「そうですわよ、ヴァル兄様! 結衣が自分で言ったのですわ。『姿身で拝見したクリストフ皇子様が、とっても素敵です』って!『ぜひお会いしてみたいわ』って、それはもう目を輝かせていましたもの!」
「えっ!? セ、セシリア様、そこまでは言って……!」
「……へぇ」
背筋に、ぞくっと冷たい戦慄が走った。
お姉様は、笑っていた。
いつもの、ひまわりが咲いたような華やかな笑顔じゃない。口元は綺麗な三日月型に上がっているのに、その金色の瞳の奥は完全に凍りついていて、光を一切通さないガラス玉のようになっている。
「とっても素敵、ねぇ……。結衣ちゃん、あんな氷を削り出したような堅物男が、お好みなのぉ? ……そう」
語尾こそ無理やりいつものオネエ言葉に戻しているけれど、声のトーンが低すぎて、執務室でガイルさんを脅していた時よりも何倍も怖い。お姉様の周囲の空気が、微かに陽炎のように揺らめいている気がした。
「ヴァ、ヴァルお姉様……違うんです、それはセシリア様が話を大袈裟に――」
「いいのよぉ、結衣ちゃん。お外じゃお話が長くなっちゃうから、ね?」
お姉様は私の言葉を遮ると、そっと私の手首を掴んだ。
掴む力は驚くほど優しい。けれど、絶対に解けない鎖で繋がれたような、拒絶を許さない圧倒的な強さがあった。手首から伝わってくる体温が、今はじりじりと肌を焦がすような熱を帯びている。
「さ、お暇するわよ、結衣ちゃん。お仕事が山積みなんだからぁ!」
次の瞬間には、お姉様はいつものハイテンションで私の手を引き、唖然とするセシリア様を置き去りにして、もの凄いスピードで空中庭園を後にした。




