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第2章:副官室の秘密話

「へえ……。じゃあ、高位の貴族の皆さんの多くは、『幻獣』の力を持っているんですか?」


「左様でございます。橘殿、この世界の統治者たる王族や上級貴族は、神聖な幻獣の血を濃く引いている方が多いのです。我が主、ヴァルフレイド閣下はその筆頭……不死鳥のごとき強大なる炎と、あらゆる傷を癒やす再生の御力をお持ちなのですぞ!」


 ヴァルお姉様の執務室の隣にある、小さな副官室。

 私はそこで、いつも書類の書き方を教え合っている副官のガイルさんと、お茶を飲みながらお喋りをしていた。


 ガイルさんは、犬系の獣人さんらしく、大きくてふさふさした耳を持った、すごく真面目で気さくな騎士さんだ。私が教えたファイリング術に一番感動してくれた人で、最近ではすっかり何でも話せる仕事仲間になっていた。


「ヴァルお姉様って、本当に凄い人なんですね……。皆さんが一目置いているのが分かりました」


 私が感心して言うと、ガイルさんはお茶のカップを持ったまま、ふっと少し困ったような、苦笑いを浮かべた。


「ええ。閣下は戦場に立てば一騎当千の軍神。その武勇と美貌は他国にまで轟いております。……ただ、その、橘殿もご存知の通り、お好みが少々……独特であらせられるので、社交界の令嬢方は皆、涙をのんでいる状態ですがな」


「独特……あ、あの言葉遣いと、男の人が好き、っていう」


「左様です。……まあ、我ら部下としては、閣下が殿方をどれほど愛でようとも、その忠誠が揺らぐことはございませんが!」


 ガイルさんはフサフサの耳をピコピコと揺らしながら、誇らしげに胸を張る。

 やっぱり、ヴァルお姉様が「オネエで男が好き」というのは、この国では周知の事実であり、絶対の評判らしい。


(でも……じゃあ、たまに私の前で見せる、あの心臓に悪い男性の声や、視線は何なんだろう……)


 ただの事務員への余興にしては、あの熱すぎる体温や、壊れ物を扱うような手の優しさは、どう考えても説明がつかない。

 考え込んでしまう私に、ガイルさんは「どうされました?」と顔を近づけて覗き込んできた。


「あ、いえ、なんでもないんです。ただ、そんな凄い将軍様が、私みたいな売れ残りのOLを専属事務員にしてくれて、本当に良かったのかなって……」


「何を仰いますか! 橘殿は閣下の番であらせられる。それに橘殿が来てから、我が軍の予算管理も書類捜索も、劇的に改善されたのです。閣下も、橘殿のことはそれはもう、特別に愛でて……」


 ガイルさんが優しく微笑み、私の頭をポンポンと励ますように撫でようと、大きな手を伸ばした。

 その、まさに手が私の髪に触れるか、触れないかという、その瞬間だった。


 ――バキィッ!!!


 鼓膜を突き刺すような、凄まじい破壊音が室内に轟いた。


「ひゃっ!?」


 驚いて飛び起きると、ガイルさんと私の間にある木製のローテーブルが、信じられない力で真っ二つに叩き割られていた。床には、粉々になった陶器の破片と、激しく飛び散った紅茶。


 そして、その壊れたテーブルの真ん中に、革手袋に包まれた大きな手が突き立てられていた。


 ゆっくりと視線を上げると、そこにはヴァルお姉様がいた。

 ……いや、違う。


 燃えるような赤髪が、まるで怒りの炎のように逆立っている。

 金色の瞳は、縦の瞳孔が限界まで細くなり、ぞっとするほど鋭い野生の光を放っていた。全身から、肌が焦げ付きそうなほどの凄まじい熱気が立ち昇っている。


「閣、閣下……っ!?」


 ガイルさんが顔を真っ青にして、その場にガタガタと平伏した。犬の耳が恐怖でペタンと完全に寝ている。


「……ガイル」


 部屋の空気が、一瞬で凍りついた。

 ヴァルお姉様の口から漏れ出たのは、いつもの高いトーンでは断じてない。低く、低く、地響きのように冷徹な、怒り狂った男性の声だった。


「俺の……いや、私の可愛い結衣ちゃんに、その汚い手で触ろうとしたかしらぁ? ん?」


「め、滅相もございません! 橘殿が不安がっておられたので、その、励まそうと……!」


「言い訳はいらないわぁ。ガイル、あなた最近たるんでるんじゃないかしら? 今すぐ庭を1000周走って、その後、第一部隊の練兵に付き合いなさい。……もちろん、私の手合わせ付きよ?」


「ひ、ひえぇぇーーっ!!」


 ガイルさんは悲鳴を上げながら、弾かれたように部屋から飛び出していった。ヴァル将軍の「手合わせ(ガチのしごき)」は、獣人さんにとっても恐怖でしかないらしい。


 嵐のように副官が去り、静まり返った部屋には、真っ二つになったテーブルを挟んで、私とお姉様の2人だけが残された。


「ヴァ、ヴァル、お姉様……?」


 おそるおそる声をかけると、お姉様はゆっくりと突き立てていた手を引き抜いた。

 その瞬間、お姉様の肩が大きく上下し、ハァ、ハァ、と荒い息遣いが聞こえる。金色の瞳が、じっと私を捕らえて離さない。


 一歩、お姉様が近づいてくる。

 その顔は、ガイルさんを睨んでいた時の怒りの表情ではなく――なんだか、酷く飢えたような、泣き出しそうなほど切ない顔だった。


 ガイルさんの手を遮ったお姉様の手が、今度は迷うことなく私の手首を掴んだ。

 熱い。火傷しそうなほどの熱量。


「ヴァル、様……?」


「……すまない。怖がらせた」


 耳元で、かすれた、本当に甘くて低い声が響いた。

 お姉様はそのまま、私を壊れ物のように、けれど強く、自分の大きな胸の中へと抱きすくめた。衣服越しでもわかる、お姉様の激しい心臓の鼓動。


「……あいつに触らせたくなかった。お前は、俺の……」


 お姉様の唇が、私の耳元に触れるか触れないかの距離で、熱い息と共に囁く。

 その瞬間、お姉様の体から、本当に小さな、けれど綺麗な、赤い炎の粒子がふわふわと舞い上がって、私を包み込んだ。


(……俺の……? )


 お姉様がすぐに「なーんてねっ☆ 嫉妬しちゃうくらい、結衣ちゃんのことが大好きなのよぉ!」と、いつものハイテンションに戻って私を解放した時、私の顔は、たぶんゆでだこのように真っ赤に染まっていた。



 *****



「……なんだったんだろう、本当に」


 その日の夜、私はお姉様から与えられた豪華な客室のベッドの中で、一人ぽつりと呟いた。

 手首に残るあの熱い体温が、今でも消えないような気がして、ぎゅっと自分の手を握りしめる。


 ガイルさんの話では、ヴァルお姉様は男の人が好きで、世の令嬢たちの誘いをすべて断り続けているオネエ将軍だ。街でもお城でも、そういう評判で通っている。

 それなのに、私があの時ガイルさんに触られそうになった瞬間、お姉様はあんなに恐ろしい、執着をみせた。


(……私が『つがい』だから?それに、そもそも番って、なんなんだろう)


 お城に一緒に召喚された他の女の子たちは、みんなお迎えにきたハイスペックな旦那様たちに「俺の運命だ」「愛している」と甘やかされ、そのままお妃様や奥様になるために連れて行かれた。


 だけど、私の場合はどうだ。

 お迎えこそヴァルお姉様が来てくれたけれど、初対面で言われたのは「お友達として大・大・大好きよぉー!」という言葉。

 いまの私の立場は、あくまでお姉様の専属事務員だ。お給料をいただいて、毎日書類を整理して、夜はこうして客室に一人で寝ている。


(ただの便利な従業員、なのかな……。それとも、やっぱりお友達として気に入られているだけ?)


 たまに不意に覗く、あの心臓が止まりそうなほど男らしい仕草や声。あれはただ、軍を率いる将軍としての癖が、私との「ガールズトーク(?)の余興」でからかうために出ちゃっただけなのかもしれない。


 この世界のことも、獣人のことも、そしてヴァルお姉様の本心も、何も分からない。

 自分がどういう立場でここにいて、これからどうなっていくのか。考えれば考えるほど、霧の中に迷い込んだように足元が覚束なくなっていく。


 そんなモヤモヤとした不安を抱えたまま、さらに数日が過ぎた。


 その日は、お城の公文書館へ、過去の遠征記録の写しを受け取りに行くことになった。お姉様の私邸を出て、久しぶりにお城のきらびやかな廊下を歩いていると、ふと、前方のテラスの陰から、女性たちのひそひそ話が聞こえてきた。


「ねえ、聞いた? ザクセン皇国のクリストフ皇子とのご婚姻の件、セシリア皇女様がまた激しく拒絶されたそうですわよ」

「まあ……。あちらの皇子様は大変誠実で素晴らしいお方だと伺いますのに。なぜそこまで頑なになられるのかしら」

「決まっているでしょう? 皇女様のお心には、あのお方がいらっしゃるのですもの。……そう、ヴァルフレイド閣下よ」


 ピク、と心臓が嫌な跳ね方をした。

 私は思わず、柱の影に身を隠した。


「でも、閣下は……その、女性には興味がないのでしょう?」

「表向きはそうですけれど、お二人は王室の血を引くお身内同士。皇女様は『わたくしを救ってくださるのはヴァル兄様だけ』と、毎日のように閣下の元へ通い詰めていらっしゃるそうですわ。王政の安定のためにも、最後は閣下が皇女様を娶られるのではないか、という噂も……」

「まあ……! 国一番の美貌のお二人ですもの、お似合いですわね……」


 ウフフ、と楽しげに笑い合う令嬢たちの声が、遠ざかっていく。


 静まり返った廊下で、私はただ、冷たい壁に背中を預けて立ち尽くしていた。

 視界が、なんだか急に狭くなったような気がした。


(ヴァルお姉様と……セシリア皇女様……)


 国一番の美貌の将軍と、可憐な皇女。

 もし、お姉様が男が好きというのをやめて、国のために、皇女様と結婚することになったら――。


 ドサッ、と腕に抱えていた書類が、床に落ちて散らばった。

 それを拾おうとしゃがみ込んだ瞬間、視界がじんわりと歪んで、スカートの生地に、ぽつ、と小さな水滴が染みを作った。


「え……?」


 自分の頬に触れると、冷たい涙がボロボロと溢れていた。

 驚いて、自分で自分に戸惑ってしまう。


(なんで……? なんで私、泣いてるの……?)


 居場所がなかった私を救ってくれた優しいお姉様。

 毎日美味しいお菓子をくれて、手荒れを温かい魔法で治してくれて、私の事務仕事を「天才!」と褒めてくれた、大好きなお姉様。


 ただの専属事務員でしかないはずなのに。お姉様が誰と結婚しようが、私には関係ないはずなのに。


 胸の奥をぎゅっと絞られたみたいに苦しくて、息がうまくできない。


「……バカみたい。私なんかが、あんなすごい人のことを……」


 床に散らばった羊皮紙を一枚一枚、震える手でかき集める。滲んだ視界のせいで、文字が二重にブレて見えた。

 この世界に召喚されてから、ずっと心のどこかでブレーキをかけていたんだと思う。お迎えが来なくて、一人で生きていくしかないって必死になって。救い上げてくれたお姉様を「大好きな同性のお友達」だと思い込もうとしていた。そうじゃないと、あの不意に見せる男性の顔に、胸の高鳴りに、自分が飲み込まれてしまいそうだったから。


 でも、もう誤魔化せない。

 私は、あの薔薇の香りがする優しいお姉様が――たまに私を壊れ物みたいに抱きしめる、あの火傷しそうなほど熱い「ヴァル様」が、他の誰かのものになってしまうのが、たまらなく嫌なんだ。


 どうにか書類を全て拾い集め、胸にきつく抱きしめるようにして立ち上がった。冷たい大理石の壁に背中を預け、何度も深く呼吸を繰り返す。泣き腫らした顔のまま私邸に戻ったら、聡いお姉様には一瞬で見抜かれてしまう。


(大丈夫、大丈夫。私は事務員。お給料をいただいて、お仕事をこなすだけの、ただの人間――)


 呪文のように心の中で繰り返しながら、ゆっくりとお城を後にした。


 私邸に戻り、重い足取りで執務室のドアを開ける。

 そこには、いつも通りデスクで書類仕事をしているヴァルお姉様の姿があった。燃えるような赤髪が、午後の柔らかな光を浴びてきらきらと輝いている。国一番の美貌。改めて見つめると、その存在の遠さに、胸の奥がまたチクリと痛んだ。


「あら、結衣ちゃん! おかえりなさぁーい! 公文書館の写し、無事にもらえたかしら?」


 私の姿を見るなり、お姉様はパッと顔を輝かせて席を立った。いつもの、華やかで高いトーンの声。

 私はあらかじめ作っておいた営業スマイルを必死に顔に貼り付けて、一礼した。


「はい、こちらがご指示いただいた遠征記録の写しです、ヴァルお姉様」


 書類をデスクに置こうと、お姉様に近づく。なるべく目を合わせないように、視線を書類へと落とした。けれど、お姉様は書類を受け取るよりも先に、私の不自然さに気づいたようだった。


「……結衣ちゃん?」


 お姉様の手が、そっと私の顎に触れた。そのまま、拒む隙も与えずにくいっと顔を上向かせられる。

 隠しきれなかった、赤く腫れた目元を見られてしまった。


 その瞬間、お姉様の息が止まるのが分かった。


「いやだわ、結衣ちゃん、お目々が真っ赤じゃないのぉ……! どうしたの? お城で誰かに意地悪でもされた!? あの脳筋騎士の誰か!? それとも文官のハゲオヤジ!? まさかあなたのあまりの可愛さに誰かが無理矢理言い寄ってきたとか!?……言いなさい、私が今すぐ消し炭にしてあげるわよぉ!」


 大袈裟に怒ってみせるお姉様。

 だけど、私の顎を包んでいるお姉様の指先が、微かに震えている。金色の瞳の奥にある輝きが、みるみるうちに鋭く変貌していくのが分かった。


「……誰に、泣かされた」


 地を這うような、あの低くて冷徹な男の声が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。

 お姉様の体から、肌を焦がしそうなほどの熱気がぶわりと立ち昇る。怒りのあまり、オネエの口調を維持することすら忘れているようだった。


「ち、違います……! 誰にも意地悪なんてされていません!」


 私は慌てて首を振った。

「王女様とあなたの噂話を聞いて、勝手に失恋して泣いていました」なんて、逆立ちしたって言えるわけがない。


「ただ……ちょっと、家族のことを思い出して、ホームシックになっちゃっただけなんです。本当に、それだけですから……」


 咄嗟についた嘘。

 すると、お姉様は私の顎から手を離し、何かを堪えるように、ぐっと拳を握りしめた。その大きな肩が、ハァ、と重い息と共に上下する。


「……そう、私、勘違いしちゃったわぁ。いやだわぁ、結衣ちゃんを泣かせる奴がいるなら、地の果てまで追い詰めてやろうと思っちゃったじゃないのぉ」


 お姉様は無理やり作ったような高い声で笑い、いつもの仕草で髪をかき上げた。

 でも、その金色の瞳は、全く笑っていなかった。それどころか、酷く傷ついたような、張り裂けそうなほど切ない光を帯びて、じっと私を見つめている。


「寂しい思いをさせて、ごめんねぇ……」


 そう言って、お姉様は私の肩を優しく抱き寄せ、その広い胸の中に私を包み込んだ。

 あたたかくて熱い体温。耳元で聞こえる、ドクドクと激しく打つお姉様の心臓の音。


 お姉様は私の背中をそっと撫でながら、誰にも聞こえないほどの小さな、掠れた低音で呟いた。


「……ここに、俺の隣にいるのが、お前にとって寂しいことだと言うなら……俺は、どうすればいい……」


 その声は、あまりにも切実で、まるで泣いているかのように優しかった。

 私を抱きしめる腕の力が、ぎゅっと強くなる。


(ヴァル様……?)


 お姉様の噂と、今私のことを壊れ物みたいに抱きしめているこの熱い腕。

 何が本当で、何が嘘なのか、今の私にはやっぱり何も分からない。ただ、お姉様の胸の中で、私の片想いはさらに深く、胸が苦しくなるほど加速していくことしかできなかった。

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