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すももハートフルカルテ  作者:


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第四章:聴診器のゆくえ

青かった日ノ浦の海が、少しずつ高くなり、秋の気配を帯び始めた頃。須之内クリニックに、一つの「嵐」がやってきた。

「須之内先生。先週の木曜日、14時の予約だった大河内さんの診療時間、28分です。一人の患者にここまで時間を割いていては、他の患者さんの待ち時間が伸び、全体の利益を圧迫します。何より、医療の効率化に反します」

診察室でタブレット端末を片手に淡々と告げたのは、今月から非常勤として週に二日、クリニックを手伝うことになった医師、氷室 徹(ひむろ とおる/31)だった。

彼は桃の大学時代の同期で、東京の最先端の総合病院で救急医療をバリバリとこなしてきたエリートだ。実家の事情で一時的に地元へ戻ってきた彼を、人手不足に悩む桃が頼み込んで来てもらったのだが――その医療方針は、桃とは真逆だった。

「氷室くん、大河内さんはね、最近旦那さんを亡くされて、夜眠れないって……」

「それはカウンセラーか心療内科の領域です。僕たちの本分は、内科医として適切な処方、およびトリアージを行うこと。須之内先生、あなたのやっていることは、ただの『甘やかし』だ」

氷室の冷徹な、しかし正論すぎる言葉が、桃の胸に突き刺さる。

「話を聴くだけでは、救えない命がある。君が一人に時間をかけている間に、見落とされるリスクがあることを忘れないでほしい」

氷室が診察室を出て行った後、桃は自分の聴診器をじっと見つめた。

彼の手際の良さは確かだった。無駄のない診察、正確な診断、スマートな薬の処方。患者の回転率は格段に上がり、待合室の混雑は解消されていた。

(私がおばあちゃんの真似事をして、こだわっていることは、ただのエゴなのかな……)

診察時間が押すたびに、看護師や他の患者に迷惑をかけているのは事実だ。

「心まで救う」という理想が、新米院長である自分の未熟さを隠す言い訳に思えてきて、桃は急に深い暗闇に放り込まれたような感覚に陥った。

その日の夜。

桃は疲れ果てて、いつものあんずジャム入りヨーグルトを口に運んだ。

けれど、いつもなら元気をくれるはずの思い出の味が、今日に限っては、ひどく味気なく、ただ酸っぱいだけに感じられた。

『桃、お医者さんはね、病気を治すだけじゃ足らんのよ』

頭の中で響く祖母・梅の声に、桃は思わず反論してしまう。

「おばあちゃん、でもね、おばあちゃんの時代とは違うの。今の医療は、もっとスピードも安全性も求められるの。私には、おばあちゃんみたいな包容力もない……」

涙がポロポロとヨーグルトの器に落ちた。

自分が信じてきた医療が、ただの自己満足だったのではないかという不安が、桃の心を押し潰そうとしていた。

翌週の木曜日。激しい秋雨が降る日だった。

クリニックに、激しい喘鳴ぜんめいをあげた高齢の女性が担ぎ込まれてきた。

漁師の源さんの姉、トミさん(78)だった。

「すもも先生! トミ姉ちゃんが急に苦しがり始めて……!」

慌てる源さんの声。

桃が診察しようとした瞬間、隣からすっと手が伸びた。氷室だった。

「僕が診ます。須之内先生は他の患者を」

氷室は流れるような動作でトミさんの胸音を聴き、即座に指示を出した。

「急性心不全の疑い。肺水腫を併発している可能性がある。酸素投与を開始、利尿薬の準備。すぐに救急車を手配して、市内の総合病院へ搬送します」

その的確な判断とスピードに、桃は圧倒されるしかなかった。やはり、命を救うのは彼の言う「効率と技術」なのだ。

救急車が到着するまでの数分間。トミさんは酸素マスクの中で、苦しそうに、ひどく怯えた目で、何かを訴えようと手を伸ばしていた。

その手は、誰のことも掴めず、宙を泳いでいる。

氷室は次の搬送手続きのために、電話を握りしめて冷静に状況を伝えている。

その時、桃の体が動いていた。

桃はトミさんの枕元に駆け寄り、そのシワだらけの、冷たくなった手を両手でぎゅっと握りしめた。

「トミさん、大丈夫、大丈夫ですよ。すもも先生がここにいます。焦らなくていいですよ、ゆっくり、ゆっくり息をしましょう。すぐにお薬が効いて楽になりますからね」

桃はトミさんの目を見つめ、祖母がいつも患者にそうしていたように、ただひたすら手を握り、声をかけ続けた。

すると、トミさんの荒かった呼吸が、かすかに、本当にわずかだが落ち着きを取り戻した。泳いでいたトミさんの目に涙が浮かび、桃の手を弱々しく、けれど確かに握り返した。

「……すも、せん、せい……」

「はい、ここにいますよ。大丈夫です」

救急隊が到着し、トミさんは搬送されていった。

嵐が去った後の処置室で、桃は激しく脈打つ自分の胸を押さえていた。

「……須之内先生」

振り返ると、受話器を置いた氷室が、複雑な表情で桃を見つめていた。

「さっきの対応……医療行為としては、僕の指示だけで十分でした。手を握ることに科学的な根拠はありません」

氷室は一度言葉を区切り、それからフッと、少しだけ呆れたような、けれど敬意の混じった笑みを浮かべた。

「でも、あの状況で患者のパニックを鎮め、バイタルを安定させたのは、君の『手を握る行為』だ。……あれは、僕にはできません。患者は、病気だけを抱えているんじゃない。恐怖も一緒に抱えているんだな」

氷室はそう言い残し、白衣のポケットに手を突っ込んで診察室へ戻っていった。

桃は、自分の両手を見つめた。

トミさんの手の温もりが、まだ残っている。

効率を求める氷室の医療も正しい。そして、患者の心に寄り添う自分の医療も、きっと間違いではないのだ。二つの医療が合わさって初めて、この町のクリニックは完成するのかもしれない。

デスクに戻り、桃はもう一度ヨーグルトを取り出した。

あんずジャムをひと口含むと、今度は、驚くほど甘く、温かい味がした。


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